第35話 木漏れ日のゆりかご
その後、みんなが休憩中に哲司先輩に言われてホルンを吹いてあげると子供達はみんな興味津々で、あの曲を吹いて!のコールが鳴り止まなかった。
それからはみんな私のことを受け入れてくれたのか、千歌ちゃんも笑顔で接してくれるようになって、私は何だか小さい妹ができたようで楽しかった。
その後しばらくして、みんなに見送られながら私たちは教室を出て芹ヶ谷公園に向かった。
お昼時間を少し過ぎていたので、幸いなことに噴水広場のテーブル席は空いていて、ちょうど日陰になる席に座ることができた。
私たちは朝に買ったパンを一緒に食べた。
「あんぱん、本当に好きなんだな」
「だって、ここのあんぱん美味しいんですよ。一口食べます?」
そういうと哲司先輩は口を開いた。
突然の事態に私は緊張しながらあんぱんを少しちぎって哲司先輩の口に運ぶ。
「サンキュー、確かに美味いよな」
私はドキドキしたのに、哲司先輩は無邪気に笑った。
「Strawberry Fieldsのみんな、楽しそうでしたね」
私はペットボトルのレモンティーを1口飲んだ。
「そうだろ、あの雰囲気好きなんだよな」
「哲司先輩は子供が好きなんですか?」
「好きだよ。可愛いじゃん?」
「うん。可愛かったです」
しばらく沈黙した後、
「今日いた子たちはさ、みんな小学校に行けてないんだよ。不登校」
哲司先輩は少し悲しい顔をしていた。
「不登校、ですか。どうして?」
「理由はみんなそれぞれ。友達とうまくいかないとか、いじめられたとか。初めはさ、みんなああやって笑うことなんてなかったんだよ。自由に絵を描いてっていっても、何を描いて良いか分からない。少しずつ時間をかけて、さっきみたいに笑えるようになったんだ」
「前に言ってた、絵画療法ですか」
「そう。千歌なんて初め大丈夫かなってくらい表情が暗くてさ。まだ初対面の人は苦手だけど、打ち解けたら大丈夫だったろ?千歌が初めて笑った時、俺も嬉しくてさ」
「そうだったんですか。すごく効果があるんですね」
「まぁ効果は人それぞれだろうけど、俺は可能性を信じてみたいんだよね。Puede quien cree que puede, y no puede el que cree que no puede. Esta es una ley inexorable.ってピカソも言ってる」
「う、英語じゃないですよね、なんていう意味なんですか?」
「スペイン語。できると思えばできる、できないと思えばできない。これは揺るぎない絶対的な法則である。っていう意味」
私は衝撃を受けた。
哲司先輩がスペイン語を喋ったことにではなく、その言葉の内容にだ。
今までの私は自分の限界を勝手に決めてしまっていた気がする。
吹奏楽部でも全国大会に出場できたことで満足で、優勝しようだなんて思ってもいなかった。
いつの間にか、ここら辺が限界だろうと思って真剣に向き合ってこなかったのかもしれない。
「良い言葉だろ。セネカの本と合わせて、俺のバイブル。せっかくの短い人生、何事も真剣に向き合わないとな」
人生は短い。
そう言われて、私は哲司先輩のお母さんのことを思い出した。
「…哲司先輩、明莉先生から聞いたんですけど、哲司先輩のお母さんのこと」
「…あぁ、明莉さんおしゃべりだな、まぁ俺も人のこと言えないけど」
少し笑ってから、哲司先輩は噴水のモニュメントが動くのを見つめていた。
「俺が小4の頃かな。乳がんでさ。気が付いた時には進行してて。それからあっという間。母さんが死んだ後、俺中々立ち直れなかったんだよ。学校も行けなくなって。それでも絵は好きだったから、絵画教室に父さんが付き添ってくれたんだ。それで、絵を描いているうちに、何だか気持ちが楽になってきて、母さんへの想いとか、父さんへの想いとか、何だかもうぐちゃぐちゃでよく分からなかったんだけど、絵を描くと自分の気持ちが整理できるっていうか。それで、俺と同じような気持ちの子供を将来助けてあげたいと思って、今に至る感じ」
「あの…、コンクールの絵を見た時、私、哲司先輩のお母さんのこと知らなくて……」
すみませんと言おうとしたところで、哲司先輩に口を塞がれた。
「謝るなって。別に何も悪いこと言ってないよ。俺はさ、コンクールに出すなら母さんのことを描きたかったんだ。あの日、母さんの葬式が終わった後、夜眠れなくて。母さんとの思い出がずっと頭に浮かんでくるんだよ。泣き疲れて、それで、夜明け前にふらふらとここまで歩いてきてさ。母さんが死んで、そのうち父さんも死んで、俺はひとりぼっちになって、その先どうすればいいんだろうって考えてた。そうしたらちょうど朝焼けの時間。眩しくて目を細めてみると、母さんが励ましてくれてるように感じたんだ。その瞬間の事は今でも覚えていて、ちょうど、あそこの木の下にいたんだけど。「頑張りなさい。一生懸命生きなさい。」って言われた気がしたんだ。なんか、俺の年になってこんなに母親のことが好きなんて恥ずかしいから人には言わないんだけど」
風に吹かれた噴水から、小さな小さな水滴が飛んで哲司先輩の頬を伝った。
「恥ずかしくなんかないよ。自分のお母さんだもん」
私は思わず立ち上がって頭を抱きしめた。
私の胸に顔を埋めた哲司先輩の耳は少し熱くなっていて、哲司先輩はしばらくの間そのままで顔をあげなかった。
「結奈、ありがとう。もう、大丈夫」
そう言って哲司先輩は顔をあげた。
「だから俺さ、結奈があの絵を見て、母さんみたいって言った時、すげー嬉しかったんだよ。俺が描きたかったことを感じてくれたんだって。運命の人だって」
私は言葉が出てこなくて頷くことしかできなかった。
「愛してるよ、結奈」
照れ隠しに少し笑う涙で潤んだその瞳は、夏の光を反射していつもよりもっと綺麗だった。
「私も、愛してる。哲司」
肌を刺す夏の日差しを木々が和らげてくれて、水玉模様の光となって私たちを包んでいた。
風に吹かれる木々とともに揺りかごのように揺れる木漏れ日の中で、私たちの、短い短い、恋が終わった。
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