第34話 Strawberry Fields

 8月も中頃を過ぎた土曜日、哲司先輩と久しぶりに会うことになった。

 哲司先輩が通っている絵画教室の見学をさせてもらえることになったのだ。



 朝、トロにごはんをあげると、トロも夏バテなのかご飯を1/4くらい残している。


「毎日暑いもんね、トロ、ちゃんとエアコンの効いてる部屋にいなくちゃダメだよ」


 トロはエアコンが嫌いな様で、普段はリビングで過ごすのに寒くなってくるとドアの前で鳴いて出してくれるよう催促をすることが多かった。

 私はトロを抱きあげて顔の匂いを嗅いでから、ひとしきり体をブラッシングしてあげて町田へと向かった。


 私達は小田急線の改札で待ち合わせた。

 駅に着くと哲司先輩はもう到着していて、単語帳を見ながら音楽を聴いている。


(そっか、受験生なんだな)


 私は気付かれない様にそっと近寄って驚かせようと企んでいたが、改札を出たところですぐに気が付かれてしまった。


「お、ちゃんと制服で来たな」


 スケッチブックと油彩セット、それになぜかホルンも持ってくる様に言われていたので、大荷物だった私を見て哲司先輩はホルンを手に取って運んでくれた。

 いつものパン屋さんでお昼ご飯を買ってから、私たちは芹ヶ谷公園の方へ向かった。



 哲司先輩の通う絵画教室は芹ヶ谷公園から少し坂を登った住宅街の一角にあった。

 少し古い住宅をリフォームしたようなその白い外壁の建物はちょっとした庭もあって、玄関の上にはStrawberry Fieldsと筆記体で掲げられていた。


 哲司先輩にくっついて玄関を入ると、小学生くらいの子供達が4、5人集まっている。

 この年の子供にしてはみんな大人しく、私と目が合っても特に口も開かなかったが、哲司先輩がホルンを持っているのに気がつくと、


「哲司くん、それ何―?」


 3年生くらいの女の子が尋ねた。


「おー千歌、元気?これはね、このお姉ちゃんの大切な楽器」


 哲司先輩はそう言って私の方を振り返る。


「こんにちは、哲司先輩と同じ高校の1年生で浅井結奈って言います。今日はちょっとお邪魔させてもらうね」


 内心心臓がばくばく言いながら精一杯の笑顔でそう言うと、千歌ちゃんは無反応で哲司先輩を見た。


「……哲司くんの彼女?」


「そうだよ。俺の彼女。かわいいだろ」


 哲司先輩がむすっと尋ねる千歌ちゃんに満面の笑みでそう答えると、私はすごく照れくさくて顔が赤くなっていくのを感じた。

 千歌ちゃんはつまらなそうにふーんと言ったきり、また自分の椅子に戻っていった。

 哲司先輩が奥に声をかけると、少しして男の人が出てきた。


「いらっしゃい。僕は高田大樹。ここの先生をやっているんだ。大樹先生って呼んで。浅井結奈ちゃんだね、哲司君から話は聞いているよ。好きなだけ見学していってね」


 笑顔を浮かべながらそういうのは、顎にヒゲを少し生やした落ち着いた大人の男性だった。

 半袖シャツにジーンズ、その上に様々な色の絵の具がついたエプロンをかけている。


「あ、今日はお世話になります。浅井結奈です。よろしくお願いします」


 私は緊張しながらも、足を揃えてしっかりとお辞儀をした。

 初対面の人と話すのはどうも苦手でつい緊張して固くなってしまう。


「浅井さん、そんなに緊張しなくても大丈夫よ。部活の先輩なんだし」


 聴き慣れた声がすると思ったら、明莉先生も奥から顔を出した。

 学校とは違ってラフな格好をしていてすごく新鮮だった。


「あ、明莉先生!今日はお邪魔します」


 知ってる顔が増えて、私は少し気が楽になった。

 どうも人見知りはすぐには治らないらしい。


 それから私たちは荷物を広げた。

 スケッチブックを広げたはいいものの、私は何をすれば良いか分からなかったので、しばらく周りを眺めていた。

 哲司先輩は子供達と楽しそうに話しながら、絵を描いている。

 子供達も哲司先輩と話すときには笑っていた。


(そういえば、哲司先輩が絵を描くところって初めて見るな)


 そう思って、後ろからそっとスケッチブックを覗くと恐竜のような絵を描いていて、男の子の描いた怪獣とどっちが強いか競っているようだった。

 私は次に千歌ちゃんの絵を覗いてみた。

 千歌ちゃんは色鉛筆を使って花瓶に活けたひまわりの絵を描いている。


「千歌ちゃん、ひまわり上手だね」


 勇気を出して話しかけてみたが、ちらっと一瞥を向けられただけで話はしてくれない。

 私は手持ち無沙汰になってしまったので、明莉先生に助けを求めに行った。


「明莉先生、何かお手伝いできることありますか?」


「いいのよ、浅井さんもせっかくだし、何か描いてみたら?」


「うん、僕も君の絵を見てみたいし、描いてごらんよ。あの女の子、千歌ちゃんの描いているひまわりなんてどう?」


 そう言われて私は再び子供達に混じって、絵を描くこととした。

 花瓶にはまるで兄弟の様に3輪のひまわりが活けられていた。それぞれ違った方向に顔を向けて、日光を探しているようにも思える。

 私はよく観察をして、下書きをしてからスケッチブックに色を重ねた。

 薄いカーテン越しの光はエアコンの効いた室内に差し込んで、元気づけるようにひまわりを照らしていた。



 絵もだいぶ完成した頃、いつの間にか私の後ろには大樹先生が立っていた。


「結奈ちゃん、よく描けてるね。ちょっと見せて」


 そう言ってスケッチブックを手にとり、しばらく真面目に私の描いたひまわりを眺めた。


「うん、本当にいいよ。明莉もいい生徒を持って幸せだな。まだ初心者なんだって?」


 明莉、呼び捨てだ。

 そう思って何だかドキドキした。


「はい。4月に始めたばかりで、まだまだ練習中なんです」


「じゃあ4ヶ月でここまで描けるようになったのか。相当練習したでしょ?」


 私はついこの間までの無我夢中の時期を思い出した。

 確かにあの頃はずっと絵を描いていた。


「私なりに、頑張ってみてるところです。あの、どこか、こうしたら良いとかってありますか?」


 まだ緊張が残っているので、私は恐る恐る尋ねる。


「ううん、それを言ったら君の絵じゃなくなってしまうから。絵が上手くなりたいんじゃなくて、自分の絵が描きたいんだろ?」


 大樹さんの言う通りだった。

 確かに初めは「絵が上手くなりたい」そんな軽い気持ちで美術部に入部をしたのだが、もうここ最近は自分がどういう絵を描きたいかしか考えていなかったのだ。


「一つアドバイスをするなら、対象をよく観察すること。人間関係と同じ」


 ハッとして花瓶の裏を見るように促すのでテーブルを回ってみると、見慣れた付箋が貼ってあって文字が書かれていた。


「俺にもひまわり見せて」


 すぐに哲司先輩の方を見ると意地悪な顔で笑っていた。

 このサプライズ付箋はこの教室の方針なんだろうか。

 私は少し頬を膨らませたが、何だかおかしくなってきて一緒に笑った。


「そう、そうやって心から笑うことが大切だよ。辛い時や悲しいときは泣いて、楽しい時や嬉しい時は笑う。そうやって感情を大切にすると、もっと良い絵が描けるようになるよ」


 そう言って大樹先生は笑った。

 明莉先生も笑っていた。

 千歌ちゃんも付箋のことを知っていたのか笑っていた。

 他の子も笑って、さっきまで静かだった教室に笑顔があふれた。

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