第33話 一つの声に導かれる時

 魔法にかけられた夏は、まぶたの裏に花火の残像を残したまま続いていた。

 

 コンクールに出す絵の構想を練ろうと思っても、一体何を描けばいいのか私には見当もつかなかった。

 何度か未怜と遊んだが、未怜は自分の部屋の風景を絵にしたいと言っていた。

 今までの自分の歴史をまとめてみたいと思ったとのことだった。

 それはとても良いアイデアだと思う反面、私も早く自分の描きたいものを見つけなければと気持ちが急いた。


 花火大会から1週間、私は部屋の片付けをしたりそわそわして落ち着かない日々が続き、そしてついに哲司先輩が家に遊びに来る日となった。

 モネ展に行ったあの日、私は帰宅するなり母に哲司先輩とのことを報告した。

 授業をサボったことは内緒にした。

 彼氏ができたなんて話すのはとても恥ずかしかったが、母なら話を聞いてくれると思った。

 母は私に好きな人がいることをなんとなく察していた様で祝福してくれた。

 なので、哲司先輩が家に来ると知ると、母は嬉々として色々と準備をしていた。



 哲司先輩とは門沢橋駅で待ち合わせをした。

 相模線に乗るのが初めてだったという哲司先輩はドアが自動で開かなくて驚いた様子だった。

 家までの道のり、哲司先輩は緊張しているようだったが、いざ家に着くと高校3年生にしては大人びた口調で挨拶をした。


「結奈さんとお付き合いさせていただいています。3年の吉井哲司です」


 普段とのギャップに私はおかしくて仕方なかったが、握りしめた手をみて頑張ってくれているのが分かって嬉しかった。

 母は大喜びで迎え入れて、トロもちゃんと玄関まで出迎えにきてくれた。

 トロは少し周りを歩いて匂いを嗅いだ後に目の前でゴロンと横になり、案の定喉をゴロゴロと鳴らしていた。

 哲司先輩も嬉しそうにトロのお腹を撫でた。


 リビングでは父にも挨拶をした。

 哲司先輩も父も何だかお互い緊張している様子だったが、小さな恋のメロディーの話からだんだんと打ち解けて話しているのをみて私は内心ほっとした。

 哲司先輩のことをちゃんと知ってもらいたいと思っていた私は、父と母が笑みを浮かべながら話をしてくれて嬉しかった。

 

 しばらくリビングで雑談をして、母の気合の入ったお昼を食べてから私たちは私の部屋へと向かった。

 ドアを閉めるなり、哲司先輩は緊張の糸がほぐれたのか急に脱力した。

 私は頭を撫でて、軽く抱きしめる。


 最近分かったことがある。

 部活では飄々とした態度だし、初めて会った頃にはぐいぐいとリードをしていたのに、私と2人きりだと哲司先輩は意外にも甘えん坊なところがあった。

 でも、そんなところもたまらなく可愛らしかった。

 トロが足元で鳴いていたが、私たちは少しの間抱き締め合った。


「私の部屋で先輩と2人きりだなんて…何だか不思議」


「そうだな、俺、変なこと言ってなかった?緊張したー」


「大丈夫でしたよ。お父さんもお母さんも楽しそうにしてました」


「そうだといいけど。2人とも、いい人だな。何だかあったかいよ。それで結奈もあったかいんだな」


 抱き合いながら哲司先輩は私の部屋を見回して、机の前のコルクボードに飾っているモネ展の半券を見ると私の方をみて意地悪そうに笑った。


「これ、初めて描いたりんご?」


 すぐ横に飾ってある私の不出来なデッサンを見ると、真面目な顔をしてそう言った。


「そうです。初めてのデッサン。下手くそですよね」


「うん、まぁ上手くはないけど、よく描けてるよ。今はもっと上手くなってるし、結奈頑張ったな」


 褒めてもらうと何だかくすぐったくて、私は早く次の話題に移ろうと思った。


「あ、先輩、これ前に言ってた私の好きな曲です。全国でやった時の演奏ですけど、聴きます?」


「お、聴きたい聴きたい!」


 私は学校で焼いてもらったCD-ROMをコンポに入れて再生をした。

 学校名と曲名を伝えるアナウンスの後、しばらくの沈黙を挟んで、息を吸い込む音の直後に金管のファンファーレで幕を開けた。

 ティンパニーのリズムがうねり、タムタムが吠える。

 その後、オーボエのか細いソロから始まり、次第にそれぞれの楽器が導かれる様にして音を重ねていく様は私の大好きな部分だった。

 どこまでも美しい主題が提示されると、金管による裏のオブリガードが心地よく入り、少し暗い雰囲気の後にフォルテピアノからのクレッシェンドで一気に解放されるカタルシス。

 スポットライトに当てられたステージの上、今でも私はあの時の情景を思い出すことができる。


 最後まで私はつい聞き込んでしまったので、哲司先輩の顔を覗くと、絵と向き合う時のあの真剣な顔で聴いてくれていた。


「え…、これ、結奈たちが演奏してるの?マジで?プロじゃないの?」


「そうですよ。中3の時の全国大会の演奏です。プロはもっとうまいですよ」


「そうなの?俺、感動したんだけど。全国ってすごいんだな。ほら、鳥肌立ってる」


 そう言って腕を見せた。


「結奈はホルンを吹いてたんだっけ?どういう楽器なの?」


「これです」


 私はケースからホルンを取り出して見せた。

 中1から1日も欠かさずに吹き続けてきた楽器。最近はケースから出すこともなかったが、触れるとあの頃の気持ちが蘇ってきて、何だか愛おしく思える。


「へー、これがホルンか。芸術的な形だな。音出せる?」


「ちょっとだけならいいですよ。うちの周りあまり家もないし」


 私は久しぶりにマウスピースに唇をあてがい音を出した。

 久しぶりでアンブシュアが崩れていないか心配だったが、焦燥感を感じることなく自由な気持ちでメロディーを奏でることができた。


「あ、この曲知ってる。星に願いを」


 私はキリのいいところまで演奏した。

 哲司先輩の前で吹くのは少し緊張もしたが、時々目が合っては微笑みながら、目をそらさずに聴いてくれるその姿が嬉しかった。


「結奈、すげーな。俺楽器できないから尊敬するよ」


「そんなことないですよ、私は哲司先輩の絵を尊敬してますよ」


「ホルン、吹きたいと思うことないの?」


「うーん、最近は絵に夢中になっていたからあんまりでしたけど、たまにあります。今吹いてみて、やっぱり私ホルンが好きだなって思いました」


「うん、好きなの伝わってきたよ。…ところで、これって俺も吹ける?」


 哲司先輩は好奇心旺盛な子供の顔で、その綺麗な瞳を輝かせていた。


「やってみます?」


 私はマウスピースを外して、アンブシュアの説明をした。

 哲司先輩はスースーと音を鳴らしながら、マウスピースと格闘していたが、しばらくすると、ブーっと音が出た。


「うお!やった!音出た!」


 はしゃぎながら私の方を自慢気に見るその笑顔は、窓から入る真夏の太陽のせいで眩しかった。

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