第3話
真冬の風が情け容赦なくホームに吹き込んで、その冷たさはここにいる誰にも平等なはずだった。
だけどその風に煽られた彼の柔らかい黒髪が一度ふわりと浮いてまたその頬に着地したとき、あたしは自分の体温を見失ってしまうような感覚に見舞われた。
「不安になんて、別に」
そう言って俯いたら、間もなく快速電車が通過するという旨のアナウンスがホームに流れて、全身が硬直した。
『危険ですので黄色の線の内側に下がってお待ち下さい。』
小さく息をついたら今度は全身から冷たい嫌な汗が吹き出した。それが腋の辺りに冷たく流れる。本能が些細なストレスを感じて正常に反応している。その事実に明らかに動揺している自分がいた。
「見ててやろうか?」
男の子は匙を投げたように、リラックスした姿勢で首を少し傾げてみせた。眼鏡が彼の表情を隠した代わりに、マフラーで埋もれていた口許がチラと覗く。
「これもってく? 絶対死ねるとも限らないけど冥土の土産ってやつにしていいよ。半身不随で余生を過ごすとか最悪だからあっさり死ねるといいね」
飄々と言いながら、彼は手に持っていた文庫本をあたしに差し出した
「……いらない、そんなの」
なんとかそれだけは言えたものの、彼の言葉に心底怯えてしまっていた。
「だよね、本とか読むタイプに見えないね君」
「別に……本は嫌いじゃないけど」
少しムキになって言い返したら彼は申し訳なさそうに苦笑した。
「そういえばさ、その制服どこのだっけ? 思い出せなくて」
「あたしも君のがどこのだか思い出せない」
「へぇ」
「見覚えはあるんだけど」
「ふーん、そっか。よかったじゃん」
「なにが?」
そう問いかけたら彼はくっきりとした輪郭の白い息を吐いて、固い表情をほどいた。
「思い出せないことがあったり、気掛かりなことがあれば大丈夫らしいよ」
「……何の話?」
彼はあたしの腕を掴んで、黄色い線の内側へと引っ張った。そのすぐあとに、横を快速電車が憮然と通過していった。
「知りたいことや言いたいことがあるのなら、まだ君の居場所はこっちってことなんだろうね」
「知りたいことや……言いたいこと……」
心のなかで反芻したつもりが、声に出てしまっていた。
「ほらマスクつけたら? もうすぐ電車来るよ。乗るんだろ?」
返事をするかわりに、歪んでしまったさっきのマスクをポケットから取り出して、少し迷った末に伸びきった紐を耳にかけた。
すぐに次の電車が停車してそれに乗ろうとしたのだけれど、我先にドアが開くのを待っていた彼のスマホから通知音が聞こえて彼が足を止めたから、あたしもなんとなく一緒に立ち止まってしまった。
彼は無駄のない動きでそれを取り出しタップしてからうわ、と小さく呻いてその場から動かなくなった。その間に電車はあっさり行ってしまった。
あたしが電車に乗らなかったことに気づいた彼は、不思議そうな顔でこっちを見た。
「あれ、乗らなかったの?」
「だって、どうしても次の電車に乗らなきゃみたいなこと言ってたのに君が乗らないから」
「あぁ」
彼が柔らかく微笑んだのが予想外で、少しドキリとしてしまった。
「いや。どっちみち間に合わなかったみたい」
彼は画面を見つめたまま、どこか複雑な表情で、でも少し安堵した顔でやっぱり微笑んでいた。
「なんか、ごめんなさい」
もはや今のあたしは、さっきまでの自分の考えに嫌悪感すら抱いていた。
「いや、いいんだ」
そう言って彼はその画面をあたしに見せてくれた。
「これ、俺の弟。さっき生まれたって」
見せてくれた画面に、真っ赤な顔のあかちゃんが苦虫を噛み潰したような表情で眠る写真が添付されていた。
「楽しみにしてたから早く病院に行きたくて。焦ってたしイライラしてて、結構ひどいこと言ったよね。ごめん」
さっきまでの威勢をなくした彼は別人みたいに見えた。
「ねぇ……ほんとに身内を人身事故でなくした経験があるの?」
すごく説得力のある言葉で脅されたような気がしたから思いきって聞いてみた。
「まさか。あれは全てハッタリ。想像力すごいっしょ」
無垢な笑顔を見たていたら、あたしは自分の失恋がアホ臭くなって、スマホをポケットから取り出した。
「何やってんの? やっぱ死ぬ前に身辺整理すんだ?」
「違うよ、生きるために不要な荷物を減らしてるの」
腹立ち紛れにほとんどのSNSをアンインストールしていった。ブロックとかミュートとか、そんな生易しい気持ちで明日からも彼らと顔を合わせられない。だからアカウントのすべてを、削除して消すんだ。
サクサク処理していくと、全てが初めから要らなかったもののように思えて清々しい気分になった。
風通しの悪い部屋に冬の朝の新鮮な空気が流れ込むみたい。だってスマホの画面は隙間だらけになってしまったから。
「言いたいことは直接言った方がいいし、聞きたいことも直接聞いた方がいいよね」
「うん、俺はそう思う」
何気ない呟きに彼がそう答えてくれたから、あたしは自分を裏切ったあの二人の顔を思い浮かべた。
「SNSじゃ、叩いたり炎上させたりが限界だもんね」
そんなものは生温い。彼のことは、グーで殴ってやらないと。
「恨んでるやついるんだ? なんか生きてるって感じすんね」
そう言われたとき心臓が一度どくん、と大きく跳ねる音が聞こえた。
「それ、どんな本なの?」
自分はとても大胆なことを言っているっていう自覚があった。
「あぁ、やっぱ君にはちょっと……俺は純愛モノとしてカテゴライズしてるけど」
意地悪そうに笑って本をしまおうとする彼の手からあたしは本をもぎ取った。
「読んでみたい」
知りたいことや、やり残したことがひとつでもあるのなら、居場所はまだこっち。だから黄色い線の内側で「この本貸してよ」って思いきって彼に言った。
「うーん、じゃあちゃんと返してね」
笑顔の彼から、本を受け取った。
そうだよね、借りたものは返さないと。
「うん。約束」
約束、してしまったから。だからあたしは、やっぱり生きることにする。
おわり。
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