4(完)


 時は現在、二人が刃と視線を交え硬直する今に戻る。


「諏訪よ! 何をもたついておる! ええい! 武家の者共はみな腰抜けか! さっさと助太刀をせぬか!」


 そう叫ぶのは長。

 ちらと見ると迷いながらもにじり寄る武家の者たち。今にも鞘から太刀を引き抜かんとする雰囲気。

 蒼一郎はすぐさま、声を張り上げ、


「女子一人相手に助太刀は無用! これより太刀を抜くものは己が恥と知るがいい!」


 と叫ぶ。

 この場にいるのはいずれも誉れ高き武士たち。

 蒼一郎の呼びかけに心決め、みな矛を納めた。


“他の誰かに切らせるぐらいならいっそこの手で……”


 懐にはそう言った思いもあったのかもしれない。


「ならば諏訪の者よ! 今すぐにトドメを刺し、その誉とやらが本物である事を示せ!」


「言われずとも!」



 蒼一郎は前傾に体重をかけ姿勢を落とすと、ぐっと弾くようにして距離を取った。


 勝っても負けてもこれが最後の太刀逢いとなる。

 言葉なくともその場にいる誰もが決着を予感した。


 蒼一郎は刀の切っ先を女に向け、弓を引き絞るが如く顔の傍まで引き戻した。

 誰の目にもわかる突きの構え。


 対する芳乃は二刀の小太刀を逆手持ちで顔の上下に構える。

 敢えて脇を開き、具不ぐふ退転たいてんの決意を示して見せたのだ。


 命の駆け引きをしている真っただ中にありながら、神聖な巫女衣装をまとう芳乃を見て、


 ――彼女が手に持つのが小太刀でなく神楽鈴かぐらすず御幣ごへいであればさも荘厳で美しかろうに。


 と蒼一郎は思ってしまう。

 それほどに彼女の姿は気高く美しかった。


 ――だが俺も武士の端くれ。迷いは捨て、与えられた役目を果たすべき!


「来い! 芳乃!」


 それを合図に互いが咆哮を重ね飛び出す中、目の端で涙が弾けるのを感じた。


 真っすぐに飛び込んでくる芳乃に向かってつま先から指の先に至るまでの体中のばねを使って、渾身の突きを放った。

 元より白光する蒼一郎の剣はさらに鋭さを増し、まさに一筋の閃光となって芳乃に迫った。


 常人であれば来るとわかっていても避けられぬ神速の突き。

 放たれたと認識する間もなく絶命するはずの突きを芳野は左にひらりと躱して見せた。


 そしてたった一歩の踏み足で軌道を元に戻し、くるり順手に持ち換えた刃を蒼一郎の喉元へとグンと伸ばした。


 その一部始終を己が眼で捉えられていた者は武家の者でもごくわずか、そのうちの誰もが女の勝ちを予見した。


 しかし、弾かれ宙を舞ったのは小太刀であった。


 諏訪流剣術の神髄は懐に飛び込まれてからにあり。


 絶対領域とも言える難攻不落の間合いを抜け懐に飛び込んだ者は己が勝ちを確信し視野が狭まる。それは精神面においてだけではなく、死角が増える事もまた真であり、こちらの伸ばし切った両腕がその後どうなったのかを知る由がない。


 蒼一郎は突きを放ったあと、それをバネの如く引き戻し、左上から右下へ弧を描くように振りぬいた。


 これぞ奥義、『発矢はっし-操転そうてん-三日月みかづきはらえ』。


 芳乃であれば必ず初手をよけてくると踏んで仕込んだ二段構えの剣技。

 威力は落ちるが武器を払い落とすには充分であった。


 芳乃は左手にまだ武器が残っているにも関わらず、その場に力なく座り込んだ。


 明らかに小太刀優勢の間合いで形勢をひっくり返され、底知れぬ技量の差を思い知らされた。これまではむしろ手を抜かれ、敢えて生かされていたと悟ったのだ。


 蒼一郎がトドメとばかりに柄を握りしめたとき、芳乃は顔を上げ睨むでもなく穏やかに微笑み涙を浮かべこう言った。


「あなた様で良かった」

 

 と。

 

 その瞬間、得も言われぬ震えが蒼一郎の全身を駆け巡り涙がこぼれた。

 

 まるで世の不浄や不条理が己のこの両掌に込められているような。

 神と思しき尊き者に刃を向けているような。


 これではトドメを刺し難いだろうと彼女は気を使い顔を伏せたその仕草が蒼一郎の胸をさらに抉った。

 


 ――何か彼女を助ける方法はないのか⁉


 

 その叫びこそが嘘偽りない自分の心。



 蒼一郎は手さぐりに辺りに視線を巡らせた。


 ――彼女が正しいと確信できるものがあればいい! それさえあれば俺は……。



「諏訪よ! よくやった! さあ、その手でそやつの首を跳ね落とせい! その恩賞として天朝様に御目通りかなう事を約束しよう!」

  

 一介の武士が天子から直接御言葉を頂戴するのは誉の極み。

 その場にいた武家の者共から感嘆の声が漏れた。


 そんな中、蒼一郎は“ある一文が書かれた紙きれ”を見つけて静かに心を決めた。



「さあ! 諏訪よ! さあ、さあ、さ……あ? お主……それはどういうことだ⁉」



 蒼一郎はすんと刀を鞘に納め、穏やかな顔でこう言った。


「拙者……いや、俺はこの女子おなごの言う事を信じます」


「お前、自分が何を言っているのかわかっておるのか⁉」


 ざわつく周囲を悠然と眺めた。


 みな一様に驚いた顔をしていた。世継ぎ人はもちろん、武家の者も落胆が未だ追い付かず、目に見える事が信じられぬと言った顔をしている。だが、一番驚いていたのは間違いなく芳乃であった。


 すっかり覇気が抜け、まるで泣き止んだ赤子のような素直で純心そのものの表情を浮かべていた。


「やはりお主にはそういった顔が良く似合う」


「どうして……」


「うむ。それはな――」


 周囲がざわつき見守る中、蒼一郎は足元に転がる一枚の写し紙を――自分の脇差しが突き刺さったそれを掲げると、すうっと息を吸ってからこう叫んだ。


「みなの者! 聞けい!」


 その一言で場が一気に静まり返った。


「拙者がこの写し紙に刃をたてた時、この紙には何も書かれてはいなかった! だが今はどうだ!」


 蒼一郎の掲げるその一片の紙切れには確かに文字が浮かんでいたのだ。

 巫女の祈りがなくとも紙に文字が浮かぶという事は紙自体に何か細工がしてあるという事。


 事実、蒼一郎の指摘は当たっていた。

 一定時間日光を浴びる事によって文字が浮かび出るような特殊な染料であらかじめ文字をしたためておいたのだ。


 すなわち十人の中で記述の違う者こそ唯一にして本物の巫女。

 

 それを受けて再び騒ぎ立つ周囲のおかしき事。

 世継ぎ人の長が顔を真っ青にしたのは傑作であったが、さすがは年の功ともいうべきか直ぐに落ち着きを取り戻してこう反論した。


「そんなもの何の証拠にもならん! 他に誰かその紙が白紙だったのを確認した者がおるのか⁉」


 それが呼び水となり、三方から「嘘つきめ!」「恥知らずが!」などと言った罵声が飛び交う。


 その指摘は至極全うで芳乃にさえ、


「私は蒼一郎様を信じております。ですが……」


「分かっておる。世継ぎ人共はいざ知らぬが、少なくとも武士達はみな戦いに夢中で把握していないであろうことも」


「ではなぜこんな無謀な事を……」



「自分はそれが真実だと知っているのに他の者はそれを偽りだという」



 そうつぶやいた時、芳乃ははっと眉を持ち上げた。


「お主も今の俺と同じ気持ちであったのだろう? 今までさぞ辛かったであろうな」


 その一言で体を震わせむせび泣く芳乃。

 周りの怒号など心に届かず、ぼやけた視界に映るのは優しい侍の穏やかな表情であった。


「あなた様は……馬鹿です。本当に……大馬鹿者です」


「俺はな、芳乃。己が信じることができればそれでいいのだ。命を懸ける価値があるとそう思えたなら、それが武士の生きるただ一つの道となる。さあ立て、芳乃! 俺たちの道はここで終わりではなかろう?」


 どうやってこの場を切り抜けるのか。


 そんな無粋な事は気にも留めず、芳乃は蒼一郎が差し出した手を取り立ち上がった。


「もう……引き返すなどできませぬよ?」


「心得ておる!」


 そう爽やかに答えて見せると、蒼一郎は芳乃の手を引き武家の者がひしめく方へ悠然と歩き出した。

 迷いなく、身じろぎもせず堂々と。


「武家の者共め! 何をつったっておる! そ奴らをひっ捕らえい!」


 そんな長の掛け声虚しく誰一人として柄に手をかけようともしない。


 剣の腕で誰もその男には敵わぬと知っていた。

 それ以前にその男がすることはいくら奇想天外に思えても無為な事はないと誰もが知っていた。


 それゆえの静寂。


 蒼一郎は去り際、顔も向けず、ある男とすれ違いざまに独り言のように言い残した。


「決して追うな。そして謀反むほんを起こす事も望まぬ。我が忠義を尽くすは帝なり」


 彼は蒼一郎去りし後、諏訪家当主になるであろう次男の荘次郎そうじろう


「分かっていますよ。兄上」


 それを聞いた蒼一郎は口の端でにやりと笑い、心残す事は無いとばかりに芳乃の手を引き駆けだした。


 外に停めてあった愛馬に颯爽とまたがり、芳乃に手を貸し後ろに乗せて。

 

 それを目撃した町人の誰もが彼らが狼藉者や脱走者とは思わなかった。

 なぜなら二人がとても晴れやかで清々しい顔をしていたから。



 二人の旅路はここから始まる。


 これは人知れず真実を守り受け継いでいく者たちの物語だ。








 


 

 

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心うつして君想ふ 和五夢 @wagomu

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