3
心写しの儀が始まる幾日か前、ある夜の事であった。
町は祭りで賑わい春の陽気も合わさって、蒼一郎も酒をいくらか
少し頬の熱気を冷まそうと一人離れの河原で月を眺めていたところ、橋したから女のうめき声がした。
何かと思い覗いてみると、暗闇に横たわっていたのはみすぼらしき恰好の
齢はどう高く見積もっても十八にも満たぬうら若き乙女が熱でもあるのか虚ろな眼でうなされていた。
孤児が野垂れ死ぬはそれほど珍しくはないが、不可思議に思えたのはその容姿。
泥土にまみれながらもどことなく神々しさとも形容すべき品があった。
元より孤児を養い下人として匿っていた蒼一郎は迷わずその女子を自宅に抱え運び、下女に言いつけ粥を与え、風呂に浸からせ体を清めさせた。
するとその女子見違えり。布団で穏やかに眠るその姿はまるで御伽草子から飛び出でてきた姫君のような雰囲気であった。
倒れていたのは飢餓が原因であったらしく、翌日の夜には言葉を交わせるまで回復した。
その女、名を染井芳乃と名乗った。
介抱してやった事に頭を下げ、すぐに立ち去ろうとしたところを引き留め、「行く宛はあるのか?」と聞くと俯いて「ありませぬ」と答える芳乃。
「ならばここで暮らすが良い」
しかし首を縦に振らず。
「何か訳ありか。そうであるなら引き留めはせぬ。ただ、ここで会ったのも何かの縁。今宵月を見ながら酒を酌み交わすくらいは良かろう」
その申し出に女はくすりと笑って頷き返した。
二階の間で二人きりの宴。
部屋には蝋燭の明かりだけ。それでも十分なほどにその夜は月明かりが眩しかった。
星の光を鈍く映した河原に流れる桜の花びらを、芳乃はうっとりとした顔で眺めていた。
口数は少なく、話すのは男の方ばかり。
戦で運よく生き残った話をしてやると「それはまことですか?」と笑ってみせた。
自身の出自を語ろうとせぬ芳乃であったが、酔いが回るとやがて京に訪れた理由を話し始めた。
しかし、それは蒼一郎にはとても受け入れがたい絵空事のような話であった。
芳乃が生まれたのは
彼女の一族は代々世捨て人のように人の目を忍んで暮らしていた。
その理由は常に命を狙われているからだと言う。
「罪人なのか」と問うが芳野はきっぱり「違います」と答えた。
聞けば一族は元々姓を持たぬような田舎の百姓であったとのことだが、100年前のある日、曾祖母にあたる
それが『心写し』。
染井琴乃は当時の世継ぎ人の巫女より心写しにより記憶を引き継いだのだという。
これを聞いた時、蒼一郎は己が耳を疑った。
心写しとは頭の中の記憶を筆もつかわず書物に書き記す力だと思っていたからだ。
しかし、芳乃が言うには人の頭から直接人の頭に記憶を写すのが本来の心写しだと言うのだ。
蒼一郎は笑って、
「ならば俺の心にそなたの記憶を写してみるといい」
といった。
冗談に冗談で返したつもりであったが芳野は至極真剣な面持ちで、
「心写しは神に選ばれた巫女から同じく神託をうけた一人の巫女にのみ施す事ができるのです。それに人前で行う事は固く禁じられております」
と答えた。
――はて、それはとてもおかしなことである。
世継ぎ人達が立てる巫女は十人。
それも白昼堂々大衆とは言わないまでも多くの目に晒されながら行われるのが通例。
確かに心写しの儀が人前で行われようになったのは100年ほど前からではあるが、蒼一郎の知るものとは相容れなかった。
酔った勢いで適当な話をでっちあげているのだろうと思い、ここは一つ矛盾をついてやろうとこう尋ねてみた。
「その話が本当だったとして、染井家はどうして山籠もりをすることになったのだ? そもそも世継ぎ人が一族の者以外から巫女を選ぶなど聞いたこともないが、仮に巫女に選ばれたのであれば世継ぎ人として京で腰を据え暮らしているのが道理ではないのか?」
すると芳乃は悲しそうに目を伏せて、重々しく語りだした。
「曾祖母の琴乃を迎え入れて下さった先代様は大変お優しい方だったと伺っておりますが、その他の世継ぎ人達はそうではなかった。一族の者以外から次の巫女が選ばれてしまった事で一族の地位が凋落すると考えた彼らは、そのご神託を無かったことにして染井家を根絶やしにしようと考えたのです」
「お主は何を⁉ 作り話とはいえ明らかに度を超えておる! そのような事が他の者の耳にでも入ったら――」
「作り話ではありませぬ! 私の曾祖母も……祖母も……そして母も! 彼らの手の者に命を奪われたのです!」
「そんなことが……」
「私に父はおりませぬ。常に追われる身ゆえに一つの場所に留まる事ができず、誰が父なのかも分からぬのです。しかし、誰が父であろうと染井家の者は私を含めみな記憶力に富んでいたのです。そして曾祖母から祖母へ、祖母から母へ、母から私へ。この国の真の歴史を人知れず受け継いできたのです」
今目の前で涙を堪えながら熱く語る女が嘘を言っているようには思えなかった。
しかし証拠が何一つとしてない。
それに芳乃が言っている事が真実だとすれば世継ぎ人が行っている事は明らかに神への冒涜。それを見過ごしてきた我々一族も同罪。そんな事は――
「……あり得ぬ」
独り言のように呟くと、芳乃は反論せず黙っていた。
それからしばし互いに無言で俯いていたが芳乃が落ち着き払った声でこういった。
「はぁ……夜風に当たり酔いが醒めてまいりました。もし、酔いが回ったせいでおかしな事を口走っていたら忘れて下さると嬉しいのですが……」
「……それならば良いのだ」
その翌日、芳乃は用意させておいた銭と衣服、僅かばかりの食料を受け取ると深々と頭を下げて去っていった。
――あの時、俺は引き留めるべきだったのだろう。彼女が此度の心写しの儀の日取りに合わせ姿を現したのも決して偶然ではないとわかっていた。しかし俺にはできなかった。今さらどんな言い訳をしても恰好はつかぬ。俺はただ……真実と向き合うのが怖かったのだ。
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