最初で最後の恋煩い

小鳥遊 蒼

初恋は実らないと言われているので

 私の恋人は、私のことを嫌っている。いや、憎んでいると言った方が言葉としては正しいのかもしれない。

 それでも毎日連絡をくれたり、会いに来てくれたりするもんだから、何だか本物の恋人のように思えた。

 私が言い出したことではあるけれど、ここまでしてくれるなんて想定外で、嬉しさよりも、怖さの方が勝っていた。絶対にバチが当たる、そう思った。この一時的な幸せは、きっとこのあと訪れるであろう、数奇な運命への序章にすぎない————


 ***


 大学の講義を終え、家に帰ると、馴染みのある靴が並べて置かれていた。今までそんなことしたことがなかったのに、一度家を出ると、こうも他人行儀になれるのかと、半分感心した。


「ただいま」


さくら、おかえり」


「何してるの?」


 姉はニヤニヤと、まるで自慢をするかのように、手に持っていた雑誌のようなものを見せつけた。

 私の目の前に差し出されたページには、ウェディングドレスを着たモデルが何人か載っていて、私はすぐに納得した。しかし、わざわざこのページを選んだということは、おそらくここに自分が気に入ったものがあるということなのだろう。


「もう決めたの?」


「だいたいはね。あとは週末、試着してみて決めようと思ってるよ」


「どれ?」


 私は姉の横に腰掛け、彼女と一緒になってその雑誌を覗き込む。私が興味を示したことが嬉しかったのか、嬉々として、いつもより声のトーンを弾ませていた。


「ただいま」


「お邪魔します」


 母が帰ってきたのだと思っていると、その後に続いて、聞き覚えのある声が聞こえた。

 不思議がる私を尻目に、姉は初めから知っていたかのように、笑みを浮かべていた。


「おかえり」


朝陽あさひくん! 久しぶり……と、大和やまとも一緒だったんだね」


「何? 俺がいちゃダメだった?」


「ううん、そういうわけじゃないけど……ていうか、みんな揃ってどうしたの?」


「今日は久しぶりにみんなでご飯食べようと思って、私が誘ったの」


 さも当然かのように、朝陽くんの隣に並んだ姉は、幸せオーラ全開で笑っていた。その笑顔につられるように、朝陽くんも微笑んだ。そんな二人を微笑ましく思いながらも、私は二人の目を盗んで大和の方に視線を移した。すると、私の行動を読んでいたのか、大和もこちらを見ていて、目が合ってしまった。その気まずい気持ちは、嘲笑で覆いかぶせた。そんな私の表情を見た大和は何だか困ったように笑っていて、私はすぐに自己嫌悪に苛まれた。


「あ、そうだ。これ桜に」


「?」


 二人は、私の前に紙袋を差し出す。

 その表情はやはり笑顔で、私はどんな行動を取ればいいのか、正直迷っていた。


「お礼だから、受け取って」


「お礼?」


「桜は俺たちのキューピットだから」


 あー………

 その話はここではダメなんだよな……


 私はもう一度、大和の方へと一瞬視線を動かすと、すぐに二人の方に顔を向けた。


「全然気にしなくていいのに。あ、私、お母さんの手伝いしてこよ」


 不自然すぎるほど早口にそう言うと、私は逃げるようにキッチンへと向かった。

 あの二人のことだから、きっと何も気にしていないと思う。似たもの同士とはよく言ったもので、ほわほわした性格は、時折心配になる程だった。

 そう、二人は問題ない。けれど、大和はそうはいかないだろう。


「桜」


 ほら


「何?」


「別に俺のこと気にすることないから」


「何のこと?」


「兄貴とあいの…「何? 何の話してるの?」


 大和の言葉は母の割り込みにより、最後まで言い切ることなく消え去る。

 何とも絶妙なタイミングで入ってくる母に、いつもは煩わしさを感じるところだが、今日に限っては、感謝を伝えたい。


「大和がお兄ちゃんが結婚しちゃうから、寂しいんだって」


「あらあら。藍がお嫁に行って、これで本当に家族になったんだから、またみんなで集まったりできるわよ」


「そうですね」


 私と大和の気まずさは、何も知らない母の、その陽気な笑いにかき消された。


 ***


 着々と二人の結婚式の準備が進んでいくのと比例して、私の心はどんよりと雲っていった。

 二人が幸せそうにしているところを見るのはとても幸せだったけれど、その反面、大和への罪悪感が心を沈ませた。


「あれ? 今日はデートじゃないの?」


 講義が終わり、すぐに席を立とうとしないことを不思議に思ったのか、隣に座っていたひびきが訊ねた。


「……もう必要ないからね」


「ははっ、相変わらずこじらせてんねー」


 響はからかうように笑った。

 唯一事情を知っている彼女は、桜の本当の気持ちも知っていた。

 その話を初めて彼女に話した時にも、同じようなことを言っていたのを思い出す。

 そんなの、自分が一番理解している。こじらせすぎて、歪んだ想いに変わってしまったことも、重々承知している。


「そんなに悩むくらいなら、お姉さんライバルを別の人とくっつけたりせず、正々堂々と勝負すれば良かったのに」


「それができたら、苦労してないよ……」


「で? そのライバルがいなくなって、彼氏にできたあと、何かいいことあったの?」


「……」


 その意地悪な物言いと、その内容に、私は響を睨むような目で見た。

 わかってて言っているところが、ストレートに図星をつくところが、急所に入り、胸を痛めた。


「もういいの」


 大和のことだから、絶対最初からわかっていたはずなのに。

 私が藍と朝陽くんをくっつけたことも、大和が藍に好意を寄せていることを知りながら、その行為に走ったことも、全部わかっていたはずなのに。

 だから、その失恋の弱みにつけ込んで、付き合うことを提案した時、大和があっさり承諾してくれたのは本当に驚きだった。

 あまりにびっくりしすぎて、衝撃的で、思わず自分 “期限” を作ってしまったのだ。


 ————二人の結婚式が終わるまででいいから————


 大和はその提案にも、あっさりと頷いた。


 嘘でも、自分に気持ちがなくても、付き合えるならそれでいいと思っていた。

 これまでの関係から一歩前に進むだけで、何かが変わると思っていた。幸せを感じられると思っていた。

 けれど、偽りはどこまでいっても真実には変わってくれなかった。

 本物になり得ないものを追いかけていくのは、時間が経つにつれ、虚しくなるだけだった。


「泣きたくなったら、胸貸してあげるよ?」


 その言葉に響の方を向くと、「高いけどね?」なんて冗談を言うから、思わず笑ってしまった。


 ***


「いい式だったね」


「うん」


「大和がちゃんと二人をお祝いしてくれて、何だか安心したよ」


 私は努めて気丈に振る舞った。それは、大和に対する同情なのか、今日で全てが終わってしまう事実から逃げ出したい気持ちを隠すためなのか————

 おそらくは、その両方だろう。ふと大和の顔を見ると、今日、長年の想いが失恋に変わった人の表情ではなかった。私なんかよりもずっと爽やかで、すっきりしたような表情を浮かべていた。


「大和、ごめんね」


 だから、これは私の最後の見栄。


「桜」


 私が口を開く前に、不意に名前が呼ばれ、思わず肩が上がった。

 視線を上げると、真剣な表情をした大和と目が合う。その目に、その表情に、心臓が跳ねた。


「今日で最後だよね?」


「……うん……」


「じゃあさ、最後に俺のお願い聞いてくれる?」


「お願い?」


 その言葉に、大和は頷いた。


 お願いとは一体何だろうか。

 けれど、それがどんな内容であろうと、私には拒否権はなかった。今まで散々振り回してきて、大和のお願いの一つも聞けないとなると、それこそもう二度と会えなくなるかもしれない。


「……何?」


「これから俺が言うことに、全部肯定で返して」


「え……」


「いいから。“うん” しか言っちゃダメだよ?」


「………うん…」


 よろしい、と言って大和は笑った。


「桜、俺と別れてください」


「……うん……」


 そんなのわざわざ言わなくても、約束は守るのに…

 そんなことは、わかっていたのに……好かれていないことも、この関係が終わってしまうことも————

 でも、やっぱり、いざその言葉を大和の口から聞いてしまうと、泣き出したい気持ちになる。私が泣く権利なんてないのに……泣き出したいのは、大和の方なのに……

 ダメ。今泣くのは、卑怯だ。堪えろ。堪えろ————


「それから、」


「……」


「改めて、俺と付き合ってください」


「……」


「桜?」


「…………え………?」


 こぼれそうになっていた涙が、びっくりしたのと同時に奥の方へと引っ込んだ。

 今のは、空耳だろうか。

 何だか自分に都合のいい言葉が鼓膜を響かせたような気がする。


 私が目を丸くしていると、大和はおかしそうに笑って、聞こえなかった? と聞いた。


「もう一回しか言わないから、ちゃんと聞いてろよ。

 俺は桜のことが好きだ。俺と付き合って」


「嘘……」


「こら、違うだろ。最初の文字しか合ってないよ」


 だって、大和が好きなのは私じゃなくての方で、私はその恋を打ち砕いた、言わば疫病神で————


「桜が勝手に勘違いしてるだけだから、それ」


 大和は私の考えていることがお見通しかのように、そう言った。


「俺が好きなのは、ずっと桜だから。桜だけだから。

 ————ほら、返事は?」

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