花嵐
まゆし
花嵐
聴きたいラジオの開始時間に遅れないよう、急いでシャワーを浴びたのに、髪の毛を乾かす間もなくラジオは始まった。
長く伸ばした髪は、乾かすのに時間がかかってしまう。肩甲骨の先、腰の近くまで伸ばした髪。ベッドに浅く座って、タオルで髪を傷めないように、ポンポンと拭きながらラジオを聴く。今日もDJの口調は明るく軽快だ。
ドライヤーを使うとラジオが聴こえないから、頭にバスタオルを乗せたまま悩む。結果、しばらく生乾きのまま、ラジオを聴く選択肢を選んだ。
──学生時代は、どんな感じでしたか?僕はですねえ……
DJはパワフルな声で、学生時代の話を始めた。
私は、高校三年生の時、一度も同じクラスになったことがない子と隣の席になった。すっと背筋を伸ばして、席に座る彼女。その横顔が何かの絵画のようで、視線を向けてしまえば、目が離せなくなり、思考と時間が止まる。
長い黒髪が艶やかで柔らかく肩下に長く長く腰近くまで落ちていて、窓が開いていた日はさらりと揺れていた。風にのって、彼女から柔らかくて少し甘い、花のような香りが私の鼻をくすぐる。
窓際に座る彼女は、頬杖をついて、色々なところを眺めているようだった。
窓の外のグラウンド、残り少ない桜が風で散っている様子。校舎を照らす太陽に青い空、黒板前でおしゃべりをしているクラスメート、授業後に質問を受けている先生……
初めて彼女の横顔を見た時から、何を考えているんだろうと気になった。彼女は棒付きのキャンディを、しばしばくわえていて、よく見ると先生たちにバレない程度に、うっすら化粧をしている。化粧をしていたのは、彼女は大人びていたから、理由なんてないと思っていた。
「ねぇ、消しゴム貸してくれない?」
突然、数学の授業中に小声で彼女から声をかけられた。今までちゃんと会話をしたことがなかったから、驚きで声が出そうになる。声を出さないようにぐっと唇に力を入れると、今度は私を見つめる瞳に見とれそうになり、胸の鼓動が早くなった。
自分の使い古した消しゴムを彼女に渡すのが躊躇われて、鞄に入っているはずの新しい消しゴムを、動揺でうまく動かせない手先でなんとか探し当てて、彼女に渡した。
「はい。これ、あげる」
「……ありがとう」
どこにでも売っているような、ただの安い消しゴムで、返してもらう必要もないから言葉のとおりにあげた。新品の消しゴムと「あげる」という言葉の関係性を、彼女は理解するのに少しだけ時間がかかったようで、お礼を口にするのに間があった。彼女はどこかのグループの輪に参加しているわけでもなく、いつも話に来るような友達はいないようだった。孤立はしていないけれど、彼女には一定線のその先に足を踏み込んではいけないと思わせる雰囲気があった。
だから、密やかに笑った顔が私だけのものかもしれないと考えた時、心が震えた。彼女の囲いを乗り越えたと感じ、誰かに自慢したいような気持ちになった。
新しい消しゴムは、私と彼女の距離を縮めた。
短い一年を彼女と共に過ごした。体育の二人一組で行うストレッチをしたり、同じ班で化学の実験をしたり、お昼には机をくっつけて、お弁当や購買部のパンを食べながら他愛ない話をした。幸いにも進路はお互い指定校推薦の枠を手にしていたから、受かったも同然で大した受験勉強はしないで済んだ。
ある朝、彼女はいつも通り薄化粧をして教室の自分の席についた。ただ一つ違ったのは、左目に眼帯を着けていたことだった。
「おはよ!」
「おはよう」
「その目、どうかしたの?」
「ちょっと、ね」
「ものもらい?早く治るといいね」
「……うん、ありがとう」
眼帯をしている理由を濁していたけれど、私はものもらいだと思い込んで、深く詮索しなかった。右隣の席から彼女を見遣ると、いつも通り額縁に飾られた絵画がそこにある。
彼女の真似をして化粧をしても、明らかに『化粧をしている』風になってしまって、先生に見つかり怒られそうでできない。髪を伸ばしてみたけれど、髪質が違うのか、彼女のようにはならない。決して追いつけなかった。
彼女の存在は優美なデザインの絵画やポスターから飛び出した姿のようで、真似したくても真似できなくて、憧れることしかできなくて、憧れ続けた。近くにいることができて、それだけで満足していた自分もいた。
好き。彼女のことが、好き。
これが恋心なのかも、ただの憧れなのかも、いつから好きだったかも、わからなかった。けれど、友達でもなんでもいいから、なんでもするから、彼女と一緒にいたい。
風のない日も、くるりと彼女が振り返ると風が吹いたかのように、髪やスカートがひらりと舞う。
絵画から飛び出したような彼女は可憐で綺麗としか言いようがなくて、見入ってしまう。
彼女と同じクラスになって一年。卒業式が近づく。
彼女は、この一年間、いつも長袖だった。どんなに暑い日も、長袖のブラウスのボタンを首元までキッチリ留めて着ていた。体育の授業では、着物を着る時の作法のように、肌を見せない。長袖のジャージを一年中着ている。一度も袖をめくった姿を見たことはなかった。調理実習の時ですらも。
私は、彼女のサインを見逃した。眼帯を着けてきたあの日。制服を絶対に着崩さないこと。体育着のジャージ姿。最低限の肌しか見せない徹底ぶり。毎日欠かさない化粧。
いくつものサインを見逃した。
卒業式の日、学校の屋上からふたりで並んでフェンスに肘をつき、賑わう校庭や見渡せる限りの景色を見た。彼女の口にしているキャンディはチェリー味なのか酸味のありそうな甘い香りがする。空の青を引き立てるように、花嵐は開花し始めた桜を我先にと言わんばかりの勢いで舞い散らせた。
「ねぇ……」
彼女は、くわえていたキャンディの棒を、口から離して、いつもと変わらない笑顔で話しかけてきた。
「私ね、あなたのことが好きよ」
私は何も言わずに、そっと彼女の頬に右手で触れた。しっとりとして滑らかで、春のまだ心細そうな暖かさの足りない風にさらされて、少しひんやりした頬。
彼女の顔は目と鼻の先に近づく。私は、ゆるりと目を閉じた。同時に、彼女が私の左手に、何かを握らせる。唇と唇が触れ合って、彼女が口にしていたキャンディの香りがした。
彼女の頬から目を閉じたまま、手を離した。唇が離れる。この幸せが夢なのかもしれないと思い、なかなか目を開けられない。彼女がそっと離れる気配。微かな音が聞こえた時、静かにゆっくり目を開けた。
目を開けた瞬間、頭が真っ白になった。何が起きたのかわからなかった。目の前にいたはずの彼女はいない。
代わりに、二つ折りにされて醜くひしゃげた封筒が落ちている。拾い上げた封筒の中にあった紙を見て、涙が落ちると同時に、心の奥底から喉が潰れる程叫んだ。身体から力が抜けて、膝から崩れ落ちそうになる。
だけど、崩れ落ちる寸前に、私の膝は体勢を立て直した。涙で歪んだ景色を睨み付けた。この世の全てが憎い。私自身のことも憎い。私は、迷わずフェンスを鷲掴みにして乗り越え、追いかけた。
でも、私はまた彼女の真似をしても、彼女のようにはなれなかった。
ラジオが終わった。棚に花束を模したように飾った棒付きのキャンディがある。それに手を伸ばし、一つ手に取り包みをはがして、口にくわえる。チェリーの甘酸っぱい味と、香りが口いっぱいに広がった。
あの時、左手に握らされていたのは、卒業記念のバッジ。彼女が目の前から消えて、呆然と左手に乗っているバッジを見た。リボンと、ピンの部分に引っかけられた制服のボタンひとつを、花嵐が揺らしていた。
彼女のバッジは、引き出しにある。バッジを見なくても、絵画のような姿や横顔が脳内のスクリーンに浮かぶから。想い出の詰まった宝物を誰にも見せたくなかった。
キャンディをくわえたまま、桜色のドライヤーで湿った髪を丁寧に乾かし始めた。その風で、今度は花のような柔らかい香りが、私を包む。もう私は彼女からの手紙で、彼女の身に何があったかを知っている。
腕を動かす度に、点滴の管がぐらぐらと揺れて、じわりと痛みを感じた。針の刺さったところから血が滲んでいる。
髪を乾かし終える頃にはキャンディは溶けてなくなった。私は、歪んで見える窓の外を睨み付けた。月のない暗い夜、病室の明かりで、窓の外を睨む私を、窓に映った私が睨んでいる。
病室を見渡し、今この場所にある、目に入るもの全てを睨んだ。あの日から、この世界を憎み続けた。私の大切な人を奪っていった、この世界を。
点滴の針を荒々しく外して、パシンと床に叩きつけた。こんな一時の痛みは、きっと痛みと言えない。
そして、引き出しの中から彼女のバッジを取り出した。さらに引き出しの奥から、飲んだふりをして隠し貯めた、ありったけの薬を取り出して全て飲みこんだ。バッジを握りしめて、ベッドに沈む。
ゆるりと目を閉じると、花嵐に吹かれて散りゆく桜を纏い艶やかな髪をなびかせた彼女がいた。
やっと、追いついた。
私は笑顔で、悲しそうに笑う彼女を、抱き締める。
「遅くなって、ごめんね」
花嵐は、私たちの長い髪を、どちらが自分の髪なのかをわからなくさせるかのように、交わらせた。
抱き合う私たちに、桜の花が、降ってくる。
花嵐 まゆし @mayu75
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