来店2

 その日、店主は店内の掃除をしていた。客が一人もいないからである。

 テーブルを拭くだけでは手持無沙汰で、今年も無事に満開を迎えた桜を見ていた。この前に客から桜は八分咲きが満開なのだと聞いて、彼は最も美しく目に映る時期をさも自分だけが捉えることが出来たのだとどこか自慢げに思っていた。


「ガチャ」

 気付けばテーブルを拭く手が動いていなかったが、その音で彼は我に返った。男がドアを開けて入ってきたのだ。

 二十代くらいの若く爽やかな印象の男だった。青年と呼称する方が上手く形容できていると彼は思った。青年は店の中を見渡した後、カウンター席ではなく一番奥のテーブル席に腰かけた。


 それを見て、店主は注文を取りに行った。

「ご注文承ります」

「ええと……」

 見るからに、青年は返答に窮していた。その様子を見ていた店主は、あることに気づいた。それは彼のずっと前の記憶。以前、一度だけこの青年から注文を受けたことがあった。

「以前と同じものでよろしいでしょうか?」

「は、はい。それでお願いします」

 青年からの注文を取り、彼が背を向けて歩き出した時だった。「すみません」と呼び止められた彼は、再び青年のほうを向く。

「同じのを、二杯お願いします」

「かしこまりました」


 店主はその言動を不審に思い、席で待つ青年の背中をいぶかしげな表情で見つめる。注文の銘柄すら決めていない人間が二杯も飲もうとするものか、と。

 コーヒーを淹れる間、店主は思い出したことが一つあった。青年が以前この店を訪れたときは二人だった。彼と、一緒に入ってきたもう一人はこの店の常連の女だった。二人の細かいことまでは覚えていないが、彼らは一緒にキリマンジャロを注文した記憶だけは確かにあった。常連の女が「いつもの二つ」と言ったからだ。


 店主はあれこれ考えているうちに淹れ終わったコーヒーを二杯持って、青年の座る席までゆっくりと運んだ。

「どうぞ」

 テーブルには二杯のキリマンジャロが置かれたが、青年は運ばれてきたそれをすぐに飲もうとはしなかった。店主が洗いかけのカップを片手に視線を送っていると、青年は黒いショルダーバッグからデジタルカメラを取り出した。彼はそれを手に持つと、何枚か写真を撮った。店主はコーヒーの写真でも撮っているのかと思ったが、どうやら違うらしい。カメラレンズは机の上のコーヒーカップよりもさらに上、向かいの席側の壁に向いていた。青年はテーブルと座席を挟んだ店の壁に向かって、何枚か写真を撮っていた。


 特別何かを飾っているわけでもないのに、にこだわって写真を撮る青年を店主は不思議に思った。写真を撮るということは、そこにあるものに興味があって、画像として残しておきたいと思った時にとる行動であると考えていたからである。

「写真、お好きなんですか?」

 店主は聞かずにはいられなかった。


「あっ、すみません。許可も取らずに……」

「いいんですよ。好きに撮っていただいて構いません」

「ありがとうございます」

「それにしても……壁、ですか?」

「そうですよね、変に見えますよね。まあ、なんというかその。見てもらったほうが早いですかね」

 そう言うと、青年はデジタルカメラを操作した。青年が過去に撮った写真が表示される。


 一枚は公園の写真だった。中央に木製のベンチが、背後には新緑の美しい山林と晴れ渡った空が見える。季節は五月中頃といったところか。

「清々しい気分になりますね」

「この喫茶店のすぐ近くにある公園です。今だと桜がきれいでしょう」


 一枚はバス停の写真だった。奥に浮き輪を持った海水浴客がいる。雲一つない快晴で、向こうには海が見えた。

「これはここから少し遠い場所で撮りました。季節は七月の終わりですね」


 一枚はカラオケボックスの写真だった。大きめのテレビの前に、二本のマイクとオレンジジュースが置いてある。

「カラオケですか。風景写真ばかりではないんですね」

「ええまあ、でも僕からすれば全部一緒なんですけどね」

「どういうことですか?」


 青年はそれらよりもさらに以前に撮られた写真を表示した。

「これは――」


 前に見た公園の写真とその写真はただ一点を除いて全く同じものだった。青々と育つ森林、その伸びる先にある快晴の空。ただ一点、ベンチに座る女だけはこの写真のみに存在していた。

「写真は二枚で一組です」

 バス停でこちらに微笑みかける女の姿、カラオケボックスで椅子に座る女の姿、それはもう一枚からぴったり切り取られたようにしてそこにあった。

「では、この店に来た時もこの方と写真を撮られたと」

「これですね」

 店主の予想通り、ちょうど青年の向かいの席に座る女が正面から写されていた。確かに、彼女の左手前にコーヒーカップが置かれている。それは写真も、今のこの状況も全く同じだった。


「カオリが写っているほうの写真はカオリがいたころ……もう三年前も前に撮ったものです。カオリとどこかに行くときは、僕は必ずこのカメラを持っていきました。色んなところに行って、そのたびにこのシャッターボタンを押しました。それはずっと残っていくものだから、何年たっても写真は消えないだろうから、そうしたんです」

「……そうでしたか」

「カオリはもうこの世界にはいません。でも、それ以前からそうなることはわかっていたことでした。余命宣告というやつです。ですから、写真を撮り始めたんです。しかし、カオリがいなくなってから――、二年前からその写真を頻繁に見返すようになりました。カオリはどこにもいない、それは確実に理解していることなのですが、どうしてもそれが受け入れられなくて……。気づけば、写真を撮っていました。全く同じ、彼女がいた写真と同じものを撮れば、うっかり何かの間違いで……もっともそんなことはあり得ませんが、カオリが写りこむんじゃないかって」

 青年はほとんど独白するような様子で言葉から過去を綴った。しかし、悲痛な言葉とは裏腹に、青年の落ち着いた口調はある意味で諦念すら感じさせるものだった。


「カオリはよくこの喫茶店に来ていたようですね。一度だけ、僕も一緒に来たことがありました。今日は、それを思い出してここに足を運びました。それだけです」

 青年は二杯目のコーヒーカップを掴んだ。それをそっと口に当てて、正面の壁を見つめる。おそらく彼はその手前にあると信じている何かを見ているのだろうと、店主は考えた。

「一つ聞いてもいいですか?」

「はい」

「その方の名字は米倉さん、でしょうか?」

「そうです。本人から聞いたのですか?」

「いえ」

「……では、どうしてそれを?」


 そう聞かれても、店主はむしろ自分が知りたいものだと思った。忘れもしない名前だった。米倉香織、手紙を店主に渡したままそれっきりずっと姿を現さなかった彼女は、青年が写真に写したまさにその人であった。別れを告げたあの常連は、本当にそれっきりだった。

「少々お待ちください。あなたに渡すべきものがあります」

 慌てた様子で、店主は店の奥へと急いだ。

 店の書類棚には、うっすらと埃をかぶった水色の封筒があった。店主はそれを未開封のまま保管していたので、中に何が入っているのかすら知らない。

「これをどうぞ、米倉さんが二年前の春に私に預けていたものです」

「僕に?」

「ええ、そうです」


 必要としている人、などと遠回しな表現をしていたが、店主はこの手紙は青年に宛てたものだと確信した。それ以外に考えられなかった。

 青年は手紙の封を切った。








 マサキへ


これを読んでいるということは、私が忘れられないでいるのでしょう。この喫茶店の白地さんはお人好しで、お客さんの悩みは何でも聞いちゃうような人だから、あなたがここに通うようになったら自然とこの手紙にたどり着くと思って書きました。ちょっと遠回りだったかな? だけど、めったなことがない限りは自分で立ち直ってほしかったから、直接は渡しませんでした。

この店に通うほど思い悩んでるあなたにどんな言葉をかけるのがいいか、正直わかりません。だけど、支えなきゃいけない、伝えなきゃいけない。私はどれだけあなたと離れても、あなたが好きだからです。

そうだ、優しいあなたにぴったりの言葉を思いつきました。聞いてください。

「あなたが悲しんでいると思うと、私も悲しい気分になるの。だからせめて、笑ってほしいな」

何かの歌詞にありそうな月並みな言葉で申し訳ないけど、本心だから仕方ありません。これが私からのメッセージです。

ずっと大好きだよ。じゃあね。


                                 香織








 青年は膝から崩れ落ちて泣いた。両手を床に打ちつけて泣いた。

 叫ぶように泣いた。

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ハレーションで『あなた』を裏書きする。 河童 @kappakappakappa

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