ハレーションで『あなた』を裏書きする。
河童
来店1
桜は三分咲き。ソメイヨシノの枝々の隙間からは、まだ冷たい空が見える。喫茶店の店主は頬杖をついて、ただ安穏と窓の外を眺めていた。店の中は彼一人だけであった。
客が少ない。しかし、彼としては決してそれが悪いことだとは思っていなかった。一日中店を開けていれば、数こそ少なくても客は来る。常連は暇を見つけてはここに入り浸り、彼とたわいのない雑談をする。それが彼の静かな楽しみであり、この店のスタイルだった。バリスタが客と長時間の雑談することは珍しいなどという世間の考えなど、彼の考慮するところには到底なかった。
店のドアが開いたのは、彼がもう少しで舟を漕ぐだろうと思われるタイミングだった。彼はドアの開く音に目を覚まし、客の姿をほとんど確認しないまま、「いらっしゃいませ」などと取り繕うように言葉を発した。
「いつものお願い」
それは、言葉通りの印象を取るなら気取った様ともいえるだろうが、彼がそのような印象で受け取ることは全くなかった。それは、実践的な言葉遣いの範疇――、つまり『いつもの』という言葉は十分自然だと感じられる注文だった。
入ってきた若い女はこの店の常連であった。
店主は『いつもの』を用意するために席を立った。のんびりとやってはいるものの、彼のコーヒーに対するこだわりは他と一線を画すと言っていいほどであった。いつまでも変わらない『いつもの』を提供するため、彼は実に丁寧な手さばきで仕事を行う。
「白地さん。人にお願いするばかりじゃ何だから、私も『いつもの』を持ってきたよ」
「何もお気遣いいただく必要はありませんよ。お客様にこだわりの一杯を提供することが、自分の仕事ですから」
「やっぱり白地さんは真面目だね。けど、私も話すのが好きでやってるところあるから、気にしないで」
「はあ、そうですか」
彼女の言う『いつもの』とは、謎解きのことであろうと店主は考えていた。いつも彼がコーヒーを淹れている間に、彼女は問題を出す。それを話しのネタにして会話を進めるのが、二人の客とバリスタとしての関係だった。
「看護師さんと話す機会があってね」
「はい」
「私の用事を聞いてきたときに、私が友達と約束してることを伝えたの。最寄り駅で4時に待ち合わせているって。そしたら、『ええ、本当に!』って驚かれたんだよね。だけど、すぐに『ああ、そっか』って納得したんだよ。何でだと思う?」
「それが今日の謎解きですか?」
「うん」
彼はカップを片手に考え込んだ。
「その看護師さんが驚いた理由を答えるということですか?」
「そうだよ」
「最寄り駅とは具体的にはどこですか?」
「それは問題には関係ないかな」
「では、待ち合わせの後にどこへ行くつもりだったのですか?」
「映画。だけど、それも特に関係ないかな」
一通り思索にふけった後、彼は再びコーヒーに意識を向ける。本当のところは、彼は謎解きゲームのような遊びが不得手であった。実際に、これまで彼女の出題で正答を言い当てた経験は一つもなかった。
「お待たせしました」
そんな会話をしている間に、店主は『いつもの』を彼女の前にそっと置いた。が、彼女はそれに手を付けようとはしなかった。どうやら、彼の解答を先に求めているようだ。
「考えましたが、驚いた理由はわかりませんでした」
彼女の思っているところを察して、彼はそのままに伝えた。それを聞いて、彼女は「そう」とつぶやいた。
「問題を解くカギは、私の話し相手の職業だね」
「看護師ですか?」
「実際のところ、私もわからなかったら聞いたんだよね。どうして驚いたんですかって。そしたら、どうやら待ち合わせ時間を午前4時だと勘違いしたらしいんだよ。普通だったら文脈的に午後4時の話だろうなって聞き手は思うはずなんだけど、看護師さんはそうは思わなかった」
「なぜでしょう?」
「聞いてみたら、看護師の間では24時制を用いて時間を表すのが一般的みたいだね。午後4時だったら16時……みたいな感じで。医療現場で時刻に関する間違いがあると大変だし、なにより他の業種では考えられないような時間帯でも患者に注意しながら働いてるわけだからね。そういうわけで、仕事中に4時って単語を聞いたから、自然と午前4時だと認識してしまったってわけ」
「なるほど。それだから、すぐに自分の勘違いに気づいたんですね」
「そうだと思うよ」
彼が気付くころには、彼女はコーヒーをほとんど飲み終えていた。それはやはり、いつもと同じであった。コーヒーを淹れる間に彼女が出題して、答え合わせをするころにはコーヒーを飲み終える。彼女はあまり時間をかけることなくそれを飲み、わりとすぐに店を出ていく。
「じゃあ、私はそろそろ」
いつもの決まり文句に、店主は会計の準備をする。彼女はそれを見て立ち上がろうとした。
「おっと」
「大丈夫ですか?」
立ち上がる瞬間に、彼女は少しふらついた。が、駆け寄ろうとする店主に向かって片手を突き出した。
「大丈夫、ちょっと立ちくらみがしただけ」
会計を済ませると、彼女は手に提げたバッグから水色の封筒を取り出した。
「手紙……ですか?」
彼女が取り出したのは、洋形の封筒だった。水色を背景に、小さく花が咲く。中身を確認していない店主に手紙という単語を連想させるほど、その封筒の外見はあからさまに手紙を思わせるものだった。
「これを持っててほしいの。そして、これを必要としている人がいたら渡してほしい」
「必要としている人? 誰のことですか?」
「誰だろうね。そのうちわかるかもしれないよ。それが、私からの最後の問題」
戸惑う店主に構わず、彼女は店のドアを開いた。
「実はね、私はもうお店には来られないの。ずっと遠くに行くことになってて――だから、白地さんともお別れ。今までありがとうね」
まだ蕾の多い桜の下で、彼女は笑みを浮かべたままドアを閉めた。訳を聞くために呼び止めようとした彼であったが、彼がドアを開けたときにはもうどこにも彼女は見当たらなかった。
手元には封筒、よく見ると端の方に『米倉香織』という文字が小さく書かれてあったが、それが宛名なのか彼女の名前なのかすらわからなかった。
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