燻らす思いを注ぐには

 辰也は、ぱたりと通わなくなった。日課を復活させ、仕事に埋没した。充実した毎日だ。そう実感できるのに、辰也の心は日毎ひごとに廃れていった。感情の風化を防ぐために辰也はコーヒーを飲み、ホットドックを食べた。尚且つ、休日には喫茶店巡りを始めた。それらを幾日も繰り返した。が、風化は止まなかった。

 彼はとっくにわかっていた。通うのを止めた日からずっとこうなのだ、元凶はあの喫茶店だ。しかし原因まで理解出来ない。食でもなく処でもない。お手上げだった。何が違うのか。辰也はあの場所を頭へ浮かべる。間接照明のともる室内。響くサックス。くゆるコーヒー。そして窓際のボックス席。


 刹那、黒い雫が濾紙からフラスコへ落ちた。






 定時の会社を出た足で辰也は喫茶店へ入る。仄日そくじつ照らす店内に、記憶の中の特等席で香月は窓辺へ寄りかかっていた。香月は太陽を見ていた。足音が自分へ近づくのがわかると香月は首を動かし、微かに震わせた。彼は無言で隣へ座すと、運ばれてきたコーヒーに角砂糖を落とした。それを見て、彼女もやおらカップを取る。

「もう会えないと思ってた」

 吐息と共に出た言葉は、エスプレッソに小さな波紋を作った。

「最低なさよならして、貴方は来なくなって。なんであんなことしたのって、自分が愚かしくて恨めしくて莫迦みた――」



「違う」

 辰也は被りを振った。割り込まれた香月は図らずも声を切る。彼は香月へ体を向けた。そして、この日初めて香月の顔を見る。香月は相も変わらぬ無表情だった。しかし瞳は甚だしく淡い光を浮かべている。かつてこのような香月を前にしたことがあったろうか。彼はやましくなった。

「君は何も間違ってなんかないよ」

「でも、あのとき私が悪かったから」

「いや、もしあのとき悪人がいたとすればそれは俺だ。君じゃない。だって、俺も君と同じだったから」





 辰也の働く会社は流通の管理を主に行っていて、彼はそこで総務の仕事を任されている。入社して2年。ようやく受けた仕事も潤滑に回せるようになり、上司から叱咤されることも減ってきた。立派な社会人になれた実感を日ごとに持てるようになった。それは辰也にとって嬉しかった。嬉しかったことのはずだった。なのに実感が深まる程、胸の中は陰って息苦しくなっていった。そんな中で見つけたのがこの喫茶店だ。

「俺は自分から目を背けて君を責めたんだ。愚かだった。本当に、本当にごめん」

 辰也は腰から頭を下げる。香月は身を乗り出した。

「そんな、そこまで。良いの、もう良いの。こうしてまた会えたのがずっと良いから」



 促されて辰也は漸く姿勢を戻す。香月の気持ちを嬉しく感じ、己を恥じた。原因は小さい自分の八つ当たりなのだ。飲み下せなかった不快がこじれたのだ。そもそも、何故。辰也は口を潤し、考える。不快だったのは香月が女子大生らしかったからか。いや、あの集団にいた香月が嫌だったからだ。身分か。違う、身分は関係ない。

 

 そういえば。辰也はハッとした。この思いは香月が敬語を使おうとしたときの感覚に似ている。寧ろ同一と断言できる。あのとき香月に伝えた言葉が本物だ。しかしそれだけではない。一番は彼女が自らへ敬語を使う姿を想像して、溜まらなく嫌になったのだ。線を引いて欲しくなかったのだ。





 辰也は呟く。

「何か言ったの」

 香月は顔を上げる。ふと目が合った。突如、胸中に占めた熱さで彼の視界は霞む。逆上のぼせるくらいの熱だった。ボコボコ泡立ち、消える音が何度か耳をすり抜ける。覚悟を決めて彼は真っ直ぐ香月を見た。

「好きだ。君が好きだ」


 次は彼女が赤らんだ。

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焦らして挽いて淹れさせて シヲンヌ @siwonnu

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