燻らす思いを注ぐには
辰也は、ぱたりと通わなくなった。日課を復活させ、仕事に埋没した。充実した毎日だ。そう実感できるのに、辰也の心は
彼はとっくにわかっていた。通うのを止めた日からずっとこうなのだ、元凶はあの喫茶店だ。しかし原因まで理解出来ない。食でもなく処でもない。お手上げだった。何が違うのか。辰也はあの場所を頭へ浮かべる。間接照明のともる室内。響くサックス。
刹那、黒い雫が濾紙からフラスコへ落ちた。
定時の会社を出た足で辰也は喫茶店へ入る。
「もう会えないと思ってた」
吐息と共に出た言葉は、エスプレッソに小さな波紋を作った。
「最低なさよならして、貴方は来なくなって。なんであんなことしたのって、自分が愚かしくて恨めしくて莫迦みた――」
「違う」
辰也は被りを振った。割り込まれた香月は図らずも声を切る。彼は香月へ体を向けた。そして、この日初めて香月の顔を見る。香月は相も変わらぬ無表情だった。しかし瞳は甚だしく淡い光を浮かべている。
「君は何も間違ってなんかないよ」
「でも、あのとき私が悪かったから」
「いや、もしあのとき悪人がいたとすればそれは俺だ。君じゃない。だって、俺も君と同じだったから」
辰也の働く会社は流通の管理を主に行っていて、彼はそこで総務の仕事を任されている。入社して2年。ようやく受けた仕事も潤滑に回せるようになり、上司から叱咤されることも減ってきた。立派な社会人になれた実感を日ごとに持てるようになった。それは辰也にとって嬉しかった。嬉しかったことのはずだった。なのに実感が深まる程、胸の中は陰って息苦しくなっていった。そんな中で見つけたのがこの喫茶店だ。
「俺は自分から目を背けて君を責めたんだ。愚かだった。本当に、本当にごめん」
辰也は腰から頭を下げる。香月は身を乗り出した。
「そんな、そこまで。良いの、もう良いの。こうしてまた会えたのがずっと良いから」
促されて辰也は漸く姿勢を戻す。香月の気持ちを嬉しく感じ、己を恥じた。原因は小さい自分の八つ当たりなのだ。飲み下せなかった不快がこじれたのだ。そもそも、何故。辰也は口を潤し、考える。不快だったのは香月が女子大生らしかったからか。いや、あの集団にいた香月が嫌だったからだ。身分か。違う、身分は関係ない。
そういえば。辰也はハッとした。この思いは香月が敬語を使おうとしたときの感覚に似ている。寧ろ同一と断言できる。あのとき香月に伝えた言葉が本物だ。しかしそれだけではない。一番は彼女が自らへ敬語を使う姿を想像して、溜まらなく嫌になったのだ。線を引いて欲しくなかったのだ。
辰也は呟く。
「何か言ったの」
香月は顔を上げる。ふと目が合った。突如、胸中に占めた熱さで彼の視界は霞む。
「好きだ。君が好きだ」
次は彼女が赤らんだ。
焦らして挽いて淹れさせて シヲンヌ @siwonnu
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