濾せぬ汚濁

 2人は毎日会えるわけではない。

 辰也は昼休みを返上して仕事をすることもあるし、香月はレポート課題の締切など、どうしても互いに忙しい時分はあった。それでも彼は足しげく通った。そして香月に会えると他愛も無い話を咲かせた。表情こそ無な香月だが、大変好奇心旺盛だった。彼の一言から香月は幾重にも風呂敷を広げ、お互い会話に夢中になり、終いには彼の昼休み終了まで数分という事態になったこともある。今やあの店で香月と過ごす時間は、彼にとって手放すことが出来なくなっていた。


 そんな時だった。辰也が初めて店の外で香月を見たのは。




 昨日のことだ。少し残業してから会社を出た辰也は家路を急いでいた。翌日も仕事があるから、早く休みたかったのだ。歩行者分離型信号が赤を帯びたのを機に彼は腕時計を見る。あと数分もしないうちに電車が来る。逸る気持ちを抑えるべく、彼はいたずらに視線を彷徨わせた。そしてある光景を映し、瞠目する。

 対岸には香月がいた。数人の女子大生の中にいた。彼女は呵々大笑していた。目を細めて、隣の女性たちと戯れていた。

 多様な背広姿を見て、初めて辰也は青に変わっていたことを悟った。そぞろに歩く彼に、女子大生のグループも近づく。時に頬を膨らませ、時に唇を尖らし、時に歯を見せる香月はいずれも彼には新鮮で、忌まわしかった。

 あいなき程、香月は辰也から正しく女子大生に見えた。






 そして今日。ほぼ定刻通りに訪れた喫茶店で、いつものように香月は辰也を迎える。が、彼は香月を少し見ただけだった。食事を摂りだす彼に、余程空腹なのだろうと考えた香月だが、すぐに不正解だと理解した。彼は普段から不愉快なことがあっても、香月に当たらないように努めていたからである。加えて香月自身にもその意思が伝わっていたからである。

 そっと本を閉じて、香月は彼に体を向けた。

「今日はどうかしたの。何か、いやなことでもあったの」


 辰也は食べることを止めようとしない。それでも香月は姿勢を保っていた。しばらくして、辟易したかのように彼は香月を見た。

「君はここの外では随分違うんだね。まるで別人だ」

 言い終わるが否や、彼は目をそらす。彼の声は棘を隠せなかった。もっとも隠す気はなかったのだが。さりとて今の言葉だけで香月には十分だった。見たんだね、と香月は独りごちる。


「あのさ。私ね、つまらない人間なんだ」




 想定外の言葉に、辰也の手が止まった。

「ほら顔だって今も人形みたいでしょ。普段はどう頑張ってもほとんど動かないんだ」

 香月は自分の顔を指差す。声だけは年相応に弾んでいた。

「心も全く波打たない、どうしてみんなあんなに笑ったり怒ったりするかわからない。でもわからなくてもみんなと同じでいたいから、みんなと同じになりたいから外ではみんなの真似をしてみてる。だけど、それってすごく息苦しいの」

 しおらしげに香月は目を伏せる。そこで初めて彼は香月を見ていたことに気がづいた。彼は小さく息を呑む。香月は続けた。

「そのときに見つけたのがここだった。ここだけだった。私が軽くなれたのは。だからどうしても重くて重くて仕方がなくなったら、ここに来るようになって、いつの間にか通うようになった。さしずめ、安息地なんだよ。ここは」




 耐えきれなくて、辰也は言葉を吐いた。

「逃げちゃいけないよ」

「あら、何故?」

「何故ッて、そりゃあ。逃げるのはだめだから」

「だから、どうして?」

 何度答えても香月はどうしてを繰り返す。それが段々と辰也をさいなませた。あたかも足元も見えない濃霧を手でく登山者のように。たまらず、辰也は声を荒げようとして、やめた。


 彼女は静かに辰也を見ていた。諦観も悲哀もいない無の顔面は、只々暖かい。なのにその両眼は彼の言葉を、その内を一片たりとも見逃すまいと鋭く瞬いている。

 彼女は始終、真剣だったのだ。





 見ていられなくて、辰也は手元へ視線を反らした。マグカップの中は凪いでいる。黒い水面に映る自分は歪んで見えた。

 あッと香月は短く声を漏らす。

「そろそろ行かなくちゃ」

 香月はいそいそとトートバッグを肩にかける。明日も会えるかと聞いた彼女へ、辰也は何も答えなかった。そんな彼に彼女は僅かに眉根を下げる。しかし一瞬だった。じゃあねと告げて、彼女は離席する。


「さっきの、忘れて良いから」



 頭の上で流れているジャズより小さい声だった。それでも辰也はマグカップを見つめていた。

 ドアノッカーの音を聴いてから、徐に彼はコーヒーを一口含む。慣れているはずのぬるさが、今は酷く心地悪いと思えた。

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