道徳のテストで0点を取る女

春海水亭

道徳をテストするな、計算式を感情で書くぞ

「おにいちゃん、これ……テストの」

鈴励りんり 輝小丸でこまるが小さい手で差し出した複数の答案を、

兄である厥頼それより 京才けいざいが受け取った。

名字が違うが血の繋がった兄妹である。

別に名字が違うということにも大した理由があるわけではない、

ただ単純に、夫婦別姓が適用されるようになり、

京才が父の輝小丸が母方の名字を名乗るようになったに過ぎない。

そんな両親も揃って海外に行ってしまい、

今は小学四年生の輝小丸と高校二年生の京才の二人で暮らしている。


「あー、テストね、あいあい」

試験といっても、小学四年生のテストなのだからそう大仰に構えることもない。

中学、高校ならいざ知らず、

小学校のテストなど、ぼんやり生きていてもそれなりの点数は取れるものであるし、

別に取れなかったとしても、まぁ、別に良いのではないかと京才は思っている。


勿論、通知表にCが並ぶようなことがあれば、さすがの京才も焦るが、

少なくとも今までにそういう事態に出くわしたことはなかった。


国語、算数、理科――どれも90点を超える答案を、

羨ましいものだなぁと思いながら、ペラペラとめくっていく。

「あのね……おにいちゃん」

「ん?」

おとなしいところはあるが、根は真っ直ぐな少女である。

そんな彼女が、病気でもしたような小さく震えた声で言葉を発するのを聞いて、

京才は答案をめくる手を止めて輝小丸を見た。


「わたし、その……0点取っちゃって……」

いつもならば、ばれないようにこっそりと背伸びをするような妹が、

小さい身体を更に小さくして、申し訳無さそうに続けた。

成程、と京才は納得する。

「名前でも書き忘れたか?テスト中に寝ちゃってたか?

 まぁ、小学校の0点なんて別に大したことねぇよ、次頑張りゃいいだけだからな」

本人にとってみれば重要な問題なのだろうが、いくらでも挽回の機会はある。

笑って、京才は言った。

「俺も、問題の意味がわからなくて解答欄に文章丸写ししてたことあったしな」

京才が小学二年生の物心がつくか、つかないかの頃である。

小学四年生の彼女とは年齢が違うが、似たようなものだと考えている。

つまり年齢を重ねれば、どうにでもなる。

大体、他の教科で9割以上正解しているのだから、

致命的にどうしようもならないということはないはずだろう。


「で、0点?どれよ」

ぺらぺらと渡された答案をめくって、京才はそれを探す。

輝小丸には悪いが、宝探しのような心持ちである。


「その、ね……」

「あっ、これか」

名前欄に書かれた『鈴り 輝小丸』の文字と

その右に、赤く大きく無慈悲に書かれた0と下に引かれた上斜め右に伸びた二重線。

さて、何の教科で0点を取ったものか。


『道徳』

「道徳なの……」

「道徳かぁ……」


教科の名前は道徳。

二重の驚きがあった。

そもそも、京才は道徳でテストが行われるなどと思っていなかったし、

そして、妹がよりにもよって道徳で0点を取るとも思っていなかった。


(いや、道徳に点数をつけるなよ!!!)

いっそ叫びたくなったが、それで妹を怯えさせたいなどとは思わない。

とにかく冷静に話を聞く他にないだろう。


「なにこれ」

「道徳……」

「いや、まぁ……」

道徳ということはわかるのだ。今となってはこれっぽっちも覚えてはいないが、

小学校の時、確かに京才にも道徳の授業を受けた記憶はある。

だが、これは点数をつけて良いジャンルであるとは思わない。

というか、道徳に点数をつけた場合、

日本の教育に激震が走るどころかトライアスロン完走しかねない。


「担任の育橋いくはし 大兄ビッグブラザー先生がね」

「親の国語と道徳の点数が気になる名前出てきたな」

「どうせ道徳が通知表で評価されるなら、

 いっそのこと複数回道徳試験を行って点数を基準にした方がいいだろって」

「思いやりとか優しさの真反対みたいな発想来たな」

「それで、道徳の授業のノート書き写しや、

 暗記作業を経て、道徳のテストに挑むこととなったの」

「高得点であることが、道徳的であるわけではなさそうだな」


ふう、と京才は大きく息を吐いた。

輝小丸の目は僅かに潤み、その身体は少し震えている。

針を前にした風船のように、少しの衝撃で感情が溢れ出しそうだ。

無理もない、道徳のテストなど間違っている。

しかも、それで0点など妹の人間性が否定されたようなものである。

京才は身を屈め、妹と同じ目線に立って彼女の頭を撫ぜた。


「こんなもんで0点取ったから、どうしたってんだよ。

 道徳で0点?道徳のテストをする方が間違ってる。

 俺は知ってるよ、輝小丸が優しい妹だってことは」

「…………うん、ありがとう」


改めて、京才は道徳のテストに目をやった。

ふざけたテストである、そもそも人間の心は数値で測れるものではないのだ。


問1『道路でおばあさんが倒れています、どうやら病気のようです。

   アナタはどうしたら良いと思いますか』

答1『死は救いなので、はやくそのようにしたほうがよいとおもいます』


手作りのテストに、妹の丸みを帯びた字が絶望を具現させている。

京才に信仰心はない。テスト前日にだけ頼る都合の良い神がいるだけである。

そんな京才が心の底から、祈った。神に祈り、世界に祈り、己に祈り、妹に祈った。

目の錯覚か、脳の錯覚であってくれ、


答1『死は救いなので、はやくそのようにしたほうがよいとおもいます』


「おべぇ!」

「おにいちゃん!?」

思わず、奇声が京才から漏れた。不安げに輝小丸が京才を見る。

妹の目に嘘はないのだろう、心の底から自分のことが心配なのだろうと京才は思う。

だが、自分はおそらく、その数十倍ほど妹の道徳心が心配なのである。


「これ1つ目の問題さぁ……」

京才は妹の目を真正面から見据えた。

どのようにして聞けば良いかわからない、だが避けては通れない。

頼むから、ふざけていたとか、漫画に影響を受けたとかであってくれ。

「惨憺たる生が死の安寧を上回るとは言えないと思うの。

 死の腕で優しく抱擁することが出来るのならば、

 それこそが他者に贈ることの出来る最上の救済であると私は思うの」

(思うなよ!!!)

言いあぐねた問いに、形になるのを待たずに答えが返された。

意志のある強い言葉だった。

そしてそれは、最も望まない言葉であった。


(もう、この時点で大兄ビッグブラザー先生に感謝の言葉を送りたいわ!)


道徳のテストというディストピア的な発想が、誰もが想定しない方向で功を奏した。

この試験の方向性の先にあるものは、

結果にそぐわないものへの矯正であろうのだろうが、

だが、しかし、この試験によって京才は妹への教育の機会を得たのである。


「なぁ……輝小丸」

「大丈夫、わかってる。わたし気にしないよ。

 道徳のテストが0点でも、そんなこと関係ないんだよね!」

(関係あるんだわ!!!)

つま先立ちになった輝小丸が身を屈めた京才よりも、背を伸ばして笑っている。

ゆらゆらと揺れながらも、自分を大きく、成長したと見せたいその姿は、

大変に微笑ましいが、それで笑っていられるラインは大幅に超えていた。


「いや、道徳のテストは点取らないとマズイわ」

「えっ」

突然の兄の掌返しに、ぐらりと輝小丸が大きく揺れ、背伸びをやめた。

信じられぬ者を見るように、輝小丸が京才を見るが、

京才だって信じたくないものを見ているのだ。


「道徳のテストで0点取ったら、そりゃもう通知表の道徳項目、

 三段階評価なのにA,B,Cじゃなくて、おそらくZとか付けられるしさぁ。

 最悪道徳の単位とれないで、もう一回小学校四年生やることになるかもしれんよ」

「えぇ!?ほんとに!?」

(道徳に単位があってたまるかよ!!小学校に留年があってたまるかよ!!)

心の中で、京才は二度叫んだ。嘘もいいところである。

いくら成績が悪くても、流石にそれで留年は無いだろうし、

三段階評価でZが付くほどの大幅なインフレ学歴バトルは発生してはいけない。

だが、そんなことはどうでもいいのだ。

不安感を煽り立ててでも、

道徳の点数を――というか表面上だけでもまともになってほしいのだ。

後は年月が解決すると信じているから。


「えーと、問2アナタは友だちと喧嘩をしてしまいました、どうしましょう、か」

京才は道徳のテストの問題文を読み上げる。

(とりあえず、試験の傾向を知りたい。そして輝小丸の解答が……知りたくねぇ!)

「身体の傷は構わない、だが私の心の傷はどうしてくれる。

 友情は永遠であると信じていたのに、なれば、仕方がない貴様を――」

「仲直りしような!もうごめんねって言おう!」

妹の詠唱を止めるように京才は叫ぶ。

これは妹の心の闇なのか、それとももっと恐ろしい何かであるのか。

答えを知りたいとは思わない。知るべき答えは道徳のテストの正解だけで良い。


「夜間、街路灯などで明るい繁華街を走るときは、前照灯をつける必要はない。

 ○か✕か……」

(道徳で選択問題出すのもどうなんだよ!)

「明るいならつけなくていいと思う」

「つけろ!」

「祖国を愛しているか……道徳心の方向性!」

「とくになにもおもってないけど……」

「嘘でもいいから愛していると言え!嘘でもいいから抱きしめろ!」

「担任教師を殴ってはいけない」

「時と場合に……」

「よるな!✕だ!」

(いや、っていうかこの問題もしかして……既に殴られて……いや……今はいい!)


「神を信じるか?」

「私は神を見た、あの絶望の闇夜に射す月の光の中に、

 僅かに道筋を照らす小さな星の瞬きの……」

「神はいない!」

「それって正しいの!?私の心の自由を先生の答えで決めてしまっていいの!?」


京才は考える。

確かに妹は間違っている、だが――道徳の問題文の方向性も危うい。

かなり、危うい。だが。


「間違っている……間違っている、が……

 道徳で高得点を取れば、それはもう道徳に強くなるんだよ!」

「道徳に強くなる……?」

「強い道徳で誰にも文句を言わせるな!

 表面上の道徳がどうであろうとお前の心は自由だ!

 だから、とりあえず……道徳で高得点を取ってくれ!数値だけでも優しくあれ!」

「……うん、わたしがんばる!」


道徳の教育は幾日にも及んだ。

熾烈を極める京才の道徳教育、

しかしスポンジのように輝小丸は点数を取れる道徳を吸収していったのである。

そして、京才は幾度の道徳のテストに挑み、とうとう通知表を受け取ったのである。


「おにいちゃん!」

「ああ……よくやったよ!輝小丸!」


通知表の道徳評価はB、良くも悪くもない評価である。

だが、輝小丸の恐るべき道徳心を考えれば十分に評価されて然るべきである。

そして、道徳のテストは70点。

文章題は落としたが、選択問題は全て正解であった。


――――

問1『道路でおじいさんが倒れています、どうやら病気のようです。

   アナタはどうしたら良いと思いますか』

答1『死は救い、それだけは誰にも曲げることは出来ない絶対の摂理』


問2『アナタは家族と喧嘩をしてしまいました、どうしましょう』

答2『ばれないように頑張る』


道徳に対する担任からのコメント

『7割取れていたので、道徳的に問題は無いと思います』

――


最も変わって欲しい部分が変わらなかった。

だが、点数は取れていた。

本質的な部分で道徳が0点でも、輝小丸は道徳70点の女に成長したのである。

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道徳のテストで0点を取る女 春海水亭 @teasugar3g

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