第5話 神上がる刻

下北沢に着くと、山葉さんは眉間にしわを寄せて車から降りた僕の周囲を見回していたが、やがて笑顔を浮かべて言った。

「和美さんの霊はいなくなったようだな」

僕は義男さんに和美さんの言葉を伝えることに気を取られていたが、僕に取り憑いた和美さんの霊を除霊することが本来の目的だったのだ。

「本当ですか」

「きっと、気がかりだったことを弟の義男さんに伝えられたので安心したのだ」

彼女が嘘をつくとも思えな。僕は今夜から安心して眠れると胸をなで降ろす思いだった。

僕が雅俊と一緒に、カフェ青葉を後にしようとしていると、細川オーナーと山葉さんが見送るようにして裏口まで来ると僕に言った。

「実はアルバイトしてくれる人を募集しているのだけど、夕方や休日にウエイターや食器洗浄の仕事をしてみませんか」

細川さんは温厚な笑顔を浮かべて僕を誘う。

「私が祈祷をするときの助手も兼ねて引き受けてもらうとありがたい」

山葉さんも神妙な表情で僕に言った。

ぼくは魅力を感じないでもなかったが、少し考えさせてくれと答えてその場を辞した。

「なんで断っちゃうのかな。単純にアルバイトとして考えても条件はいいと思うぜ。

カフェ青葉から帰る電車の中で雅俊は僕をなじる。

「断った訳じゃない。ちょっと考えさせてくれと言っただけだよ」

「そう言ってから連絡取らないで放置するのが婉曲に断るときの常套手段だろ」

僕も大学に入学して以来、お小遣い稼ぎのためにアルバイトをしたいと思っていたのだが、僕には即座に「はい」と言えない理由があった。

「おれは幽霊とか心霊現象というものはすごく苦手なんだよ」

ぼそっとつぶやいた僕の顔を雅俊が見た。

「そういえば、ウッチーが今朝訪ねて来た時の顔色は、はっきり言ってひどかったもんな」

「そのウッチーってなんだよ」

「内村だからウッチーでいいだろ。今朝のおまえの顔色は、本当に土気色だったのだよ。なまじ霊感とかがある人は何かを感じるせいですごく恐がるというのは本当なのだな」

僕は和美さんが夢枕に立った後、夜が明けるのを待って雅俊に助けを求めるまでの長い時間を思い出した。

「栗田准教授のアルバイトの件もあるから、一度西村さんに報告してから良く考えてみるよ」

僕の言葉に、雅俊は仕方なさそうにうなずいた。

その夜、先週以来の陰陽師にまつわる顛末をパソコンのワープロソフトでA4用紙一枚にまとめた僕は、西村さん宛にメールで送った。

報告したのは山葉さんのいざなぎ流に関連した活動の状況とその儀式の内容についてで、依頼者の妹が僕の夢枕に立った話は抜いておいた。自分が絡む部分は報告したくなかったからだ。

しばらくして、西村さんから返信が来た。

「お疲れ様でした。詳しく書いてくれたので、このまま准教授に提出します。数日中に報酬を支払うためにこちらから連絡します」

簡潔な文面。自分が報告した内容で良かったのか不安になっていた僕はようやく一息ついた。

数日後、四コマ目の授業を受けていた僕は授業用に大学から配布されているタブレットにメールが届いていることに気がついた。

講義が終わって、僕がメールを開けようとしていると雅俊が寄ってきた。

「ウッチー何もったいぶってメールを開いているんだよ?どうせID登録したサイトからのジャンクメールだろ」

メールを読み終わった僕は雅俊に言った。

「栗田准教授からだ」

ちゃんとしたメールを読んでいたと知れば雅俊は恐縮するかと思ったが彼は更に僕を挑発する。

「つまんないレポート書いたから研究課から除名するとか」

「違うよ。四コマ目が終わったら准教授室まで来いと書いてある」

准教授室は一年生には敷居が高い空間だ。僕は雅俊の僕への絡み方から判断して彼が暇なのだと判断した。

「雅俊。おまえも一緒に来てくれないかな」

「いいよ。どんな講評が聞けるか楽しみだ」

准教授の研究室は教養部のキャンパスから少し離れた所にある。

キャンパスから一度外の道路に出て歩いていく途中で、雅俊が口を開いた。

「陰陽師カフェのアルバイトの件はどうするんだよ」

「未だに悩んでいるよ。彼女が祈祷とか浄霊みたいな活動をしていなければ即座にアルバイトを始めたいと思うのだけど」

そんな話をしているときに、僕のスマホが鳴った。

表示されているのはカフェ青葉の固定電話の番号だ。

通話ボタンを押した僕は、通話の相手がオーナーの細川さんだとわかり、微妙に気落ちしている自分に気がついた。

「内村君かい。ちょっと頼みがあって電話したんだけど」

「どうしたんですか」

「あなたも関わってくれた谷脇さんが亡くなったの。山ちゃんが葬儀の祭祀を頼まれたのだけど、人手が足りないから手伝いに来てくれないかしら。アルバイトの件とは別で今回限りでもいいからお願いするわ」

「谷脇さんは日曜日にはちゃんと話もできていたのに」

「癌の末期はそんなものなのよ。急変したらいつ亡くなるかわからない状態だったのね。葬儀は土曜日の午後なので朝十時くらいにうちに来てほしいのだけど」

僕は日曜日のことを思い出した。谷脇さんが差し出してくれた手のやせ細った感触とそこから使わった温かい何か。

「わかりました。十時に行ったらいいのですね」

横から、雅俊が僕の脇腹を突っつきながら自分を指さしている。

「日曜に一緒にいた東山も連れて行っていいですか」

「いいわよ、二人来てくれた方が助かるわ」

通話を切った僕に雅俊がつぶやいた。

「あのじいさん死んじまったんだな」

「ああ、山葉さんが葬儀の祭祀をするって」

僕たちは寡黙になって先を急いだ。

准教授室では、栗田准教授と西村さんが迎えてくれた。

准教授とは新入生歓迎会の時に顔を合わせているはずだが、改めて対面した印象は、学究肌というよりは、エネルギッシュな実業家のようだった。

「今回はご苦労だったね。本物のいざなぎ流の陰陽師が都内にいるとは思わなかったよ」

「これが報酬。私もちょうど忙しくてばたばたしていたから助かったわ」

西村さんが報酬の入った封筒を僕に手渡すのを見ながら准教授が言う。

「先方とのコミュニケーションもとれているみたいだし、もう少し調査を継続してくれないか」

「バイト代は必要経費+成功報酬を出してくれるそうよ」

西村さんが補足する。彼女は准教授のアシスタント的な役割もしているようだ。

僕は雅俊と顔を見合わせた。雅俊はやれと言うようにあごをしゃくる。

「是非やらせてください」

「よし、それでは問題の陰陽師がいざなぎ流の祭文を詠唱するときはこれで記録してくれ」

栗田准教授僕に渡したのは、コンパクトだがフルハイビジョンで録画できるムービーカメラだった。

「レポートを書くときには、祭祀が行われる状況と、できれば祭文の種類を聞いておいてほしい」

「わかりました。可能な限りメモをしておきます」

僕が答えると、栗田准教授は満足そうな雰囲気うなずいていた。

准教授室を出てから、僕はカメラキットの入ったポーチを見ながらつぶやいた。

「外堀からどんどん埋められていく感じだな」

「おまえはあそこで陰陽師の助手を務める運命なんだよ。あ、こら俺を撮るなよ」

「撮影の練習だよ」

僕はいやがる雅俊をムービーカメラで撮影しながらカフェ青葉のアルバイトの事を考えていた。

この状況ではカフェ青葉のアルバイトを引き受けないわけにいかないが、僕の心の中には根強い抵抗感が残っていた。

次の土曜日に僕と雅俊は、山葉さんのお手伝いをすべく青葉に集合した。

細川さんに案内されて、濃紺の袴と白の半着に着替えた僕達がガレージに入ると巫女姿の山葉さんが和紙でできた様々なアイテムを準備していた。

顔を上げた彼女は僕と雅俊に言う。

「無理を言ってすまなかったな」

「いいえ、喜んで手伝いますよ」

雅俊が答える脇で、僕は積み上げてある木の枝を手に取った。

「この木の枝は何に使うのですか」

「それは榊と言って神事に使うのだ。仏教で使う樒に相当すると思ってくれればよい。こちらの和紙で作った式神や式王子と分けてプラケースに入れてくれ」

「祈祷をするたびに山から採ってくるのですか」

「神社関係で需要があるから樒と同様にちゃんと流通しているよ」

彼女は苦笑しながら作り終えた式神をプラケースに入れ始めた。

「谷脇さんの葬儀は杉並区の斎場で執り行われることになった。火葬場に併設された式場で葬儀もできる施設だ」

「それ、俺の下宿の近所じゃないかな」

雅俊も僕と一緒に榊をプラケースに詰め込む。

「式場の準備は別の業者がやってくれるからうちは祭祀をするだけでいい。君たちには基本的に祭祀に必要な祭具の運搬と設営をしてほしいのだ」

山葉さんは簡潔に指示して荷物の積み込みを再開する。

「山葉さんは葬儀に呼ばれることも多いのですか」

「それはあまりないな、病気の時にうちにお祓いを頼んでも、葬儀は仏式でというのがほとんどだ」

日本人は宗教に関してアバウトと言われる所以だ。

斎場では葬儀は粛々と行われた。谷脇家は家族だけが参列するコンパクトな葬儀にしたかったようだ。

義男さんの遺体が安置された祭壇の前で山葉さんはいざなぎ流のみこ神の祭文を詠唱し、

葬儀は粛粛と進められた。

遺体が荼毘に付されてから拾骨までは少し時間があったので、僕は斎場の庭園に出てみた。

少し歩くと、由佳さんと山葉さんも同じように外に出ているのに出会った。

「今の火葬場では、煙とか見えないものなのですね」

「フィルターとかが進歩したのですね」

由佳さんと山葉さんは空を見上げて話している。

「父のことではお礼を言いたかったの。あなた達のおかげで父は安らかに最後を迎えられた気がするから」

「お父さんの大事な葬儀を任せていただいて恐縮です」

謙遜気味に頭を下げる山葉さんを見て、由佳さんはフフッと笑って首を振った。

「言ったと思うけど父は神仏を一切信じない人だったの。自分が死んだら葬儀のあとは遺灰を故郷の海に撒けと言っていたくらいですから」

「無茶なことを言われると家族の方々も困りますね。葬儀というものは残された家族のためにあるようなものなのに」

山葉さんは苦笑気味に由香さんに答える。

「ええ。結局、本人も自分の死期を悟ると、自分は死ねば跡形もなく消えてしまうと考えて恐ろしくなっていたみたいなの。あなた達のおかげで最後の数日が心穏やかに過ごせたと思うわ」

「そういっていただけるとありがたいです」

山葉さんは低調に頭を下げ、由佳さんは僕に気がついて言った。

「あなたが叔母の言葉を伝えてくれたおかげで、父は死後も何かが残ると信じたみたいね。これまでの父なら叔母が夢枕に立っても自分の潜在意識が作った幻想だと切り捨てていたと思うわ」

そろそろ戻らなければと言い残して由佳さんは斎場の中に戻っていった。

山葉さんは深々と礼をして由佳さんを見送る。

後に残された僕達は何となく空を眺めていた。

「人の命って儚いものなんですね」

あまり人の死に際などに立ち会ったことがなかった僕はつぶやいた。

「人は流れていく音楽のようなものだといった人がいる。それぞれが奏でる旋律は流れ、やがて消えていくというのだ」

彼女の言葉は、僕の耳には人という音楽の旋律が紡ぎあげられた後には空しく消えていくものとして響いた。

なんだか寂しく思った僕は振り返って彼女の顔を見る。

「それぞれの旋律がめぐり逢い、美しい和音を奏でる瞬間に居合わせたらそれは幸せだと思わないか」

山葉さんは柔らかな笑顔を浮かべて僕を見返す。彼女が伝えようとしたのは僕が感じたものとは違ったようだ。

僕は山葉さんの言葉を聞いて、谷脇さんのやせた手に触れたときの温かい感覚を思い出した。

死期が迫り冷え切っているはずの病人の手から感じたものは体温とは異なるものだったと僕は思う。

僕は山葉さんの考え方を好ましく感じ、もう少し彼女と一緒にカフェの仕事やいざなぎ流の祈祷の仕事をしてみようという気になった。

「アルバイトの件ですけど、僕を雇ってくれますか」

僕が懸案だったアルバイトを引き受ける意思を伝えると彼女はうれしそうな表情を浮かべる。

「本当か。霊感があっても口寄せで言葉を伝えられる者はそういないし、それでなくても一緒に祈祷を手伝ってくれるだけでも私はずいぶん心強いのだ」

その霊感が関わる部分に抵抗があるのですけどと言いかけた僕は口をつぐんでその場に佇んだ。

彼女が本当にうれしそうな顔をして微笑んでいたからだ。

花が終わり、新緑が瑞々しい桜の木を背景に巫女姿の彼女が微笑んでこちらを見ている。その情景は僕の心に鮮やかに刻まれた。

僕は、幽霊に遭遇する羽目になっても我慢しようという気になって、彼女に向かってうなずいた。

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