第4話:その最期
書き忘れていたが江帾は盛岡藩に帰参した際、那珂通高と改名している。亡兄の息子も養子にしている。しかし混乱を避けるため、あえて本稿では江帾五郎で通す。
さて、奥羽越列藩同盟である。
奥羽諸藩と越後諸藩で結成されたこの同盟について、詳しく触れたい色気もある。しかし、ここでは割愛し、その後会津藩と庄内藩を庇う形で結成された同盟のその後について触れよう。
まず河井継之助が筆頭家老を務めた越後長岡藩は、1ケ月以上新政府軍を向こうに回して奮戦した。継之助の戦死により瓦解すると、全軍が会津藩に襲い掛かった。
会津藩は袋叩きにあった。少年藩士の白虎隊の殆どが自決するなど、新政府軍の攻撃は呵責なく続いた。藩主松平容保は全面降伏した。
越後長岡藩と会津藩と急先鋒で戦ってきた両藩が降伏したことで、奥羽越列藩同盟は体をなさなくなった。次々と諸藩も膝を屈していった。
当然各藩の代表も処罰の対象となった。盛岡藩も処刑者が出た。ただし、それは江帾五郎ではない。江帾は、首の皮一枚で命が繋がった。
彼の命を救った者、それはかつての旧友吉田松陰だった。もっとも既に松陰はこの世にない。木戸孝允。松陰を兄のように慕っていた男で、幕末の頃は桂小五郎と名乗っていた。
木戸は、江帾が松陰のかつての友人ということで助命嘆願をしたのだ。半ば目を背けていた旧友との縁が、彼を生き永らえさせた。江帾にとっては皮肉かもしれないが。
命を救われた時、彼はどう思ったのだろう。無様に生き延びたと感じたのか。それともー。
江帾が涙したのはその後のことだという。長州が薩摩と共に天下を取ったこともあり、長州藩士特に松下村塾の志士は争うように明治新政府の要職に就いた。
薩摩では、西郷隆盛・大久保利通を筆頭に加治木町内で生まれ育った者たちが人材の梁山泊の如く称えられた。
対する長州は、松下村塾出身の志士がそれになぞらえ山県有朋のように僅か1日しか出入りしてない者までその栄光に浴した。
そして彼らの師匠である松陰も注目を浴び、若い頃の日記が出版物として刊行された。江帾も当然読んだ。驚いた。
そこには、松陰から見た若き頃の自分との交友が書かれていた。それを読んだ時、江帾は涙した。それは歳月を経て、松陰からの友情を感じたゆえのものだったのか。
すべては、江帾五郎本人のみが知り得る。
その後明治4(1871)年に罪を許された江帾は、文部省に入り小学校の教科書の編纂などに携わったという。
吉田松陰、宮部鼎蔵と旧友が鬼籍に入った中、彼らの影響を受けた者たちが栄達の道を歩んでいった。そんな時世に、ある種江帾は居心地の悪さを感じたのではあるまいか。
その鬱屈を晴らすために、昔のように酒に逃げ場を求めたのだろうか。その最期はあっけなかった。明治12(1879)5月1日没。酒の席でだという。
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日本史語らずにいられない! 江戸嚴求(ごんぐ) @edo-gon
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