第3話:それからの江帾五郎

結論から言ってしまえば、江帾は仇討ちもしなかったし死にもしなかった。仇である家老が失脚した後、病死してしまったのである。

とはいえ、失脚してから亡くなるまでの間いくらかのタイムラグはあったはずである。目指す兄の仇を討とうとしなかったのは、江帾にいささかの躊躇いがあったのだろう。

仇討ちの意味がない、と。しかし後でこれを聞いた松陰は激怒した。なんたる腑抜けと思ったのだろう。江帾を口先だけの輩と思い知らされ、我が不明を噛み締めたに違いない。

松陰こそいい面の皮だった。彼は脱藩を見逃したために謹慎を命じられていた友人を救うため、藩邸に出向いて処分を待った。

さすがに切腹を命ぜられなかったが(松陰はそのくらいの覚悟はあっただろうが)、藩の重役の言を聞かず脱藩した罪は許し難いと断罪された。

士籍を剥奪された上、禄も没収された。なんのことはない、浪人となったのである。その後松陰は、翌々年再来したペリーの艦隊に乗り込もうとして失敗。重罪人として長州藩に送られる。

松陰にしてみれば、常に自分は命がけで事に臨んできた。実際後に起こった安政の大獄では、老中暗殺の計画を立てていたとして処刑される。

そんな彼から見ると、仇討ちを公言しながら手をこまねいていただけの江帾は口舌の徒にしか思えなかっただろう。

実際その後、松陰が江帾について語ることは終生なかったという。同じように江帾も松陰について語ることはなかった。

江帾にしてみれば、女の一人も抱けぬかつての友が故郷で自分の志を受け継ぐ教え子を多く輩出した。それだけでも、眩しく感じる。

それだけでなく密航未遂を起こしただけでなく、幕閣を害そうとして逆に幕府によって殺された。良くも悪くも行動の人であり、口先だけの自分とは違うと劣等感を持ったのではないか。

その後の江帾は、脱藩していた南部盛岡藩に帰参し後身の育成に努めた。松陰にできたことが、自分にできないはずがないと言わんばかりに。

しかし時勢は江帾を安穏とさせなかった。薩長を中心とした倒幕運動が展開し、最後の将軍となった徳川慶喜は徹底恭順で矛先をかわした。

幕府に徹底的にいじめ抜かれていた長州にしてみれば、拳の振り上げどころを失ってしまった。そこで京で、長州藩士を中心とした志士を直接弾圧した会津藩に復讐の刃を向けた。

その際、他の奥羽諸藩は新政府軍と名乗った薩長軍に味方するかどうか決断を迫られた。

盛岡藩も例外ではない。藩の代表の一人にまで上り詰めた江帾にも、藩主から意見を求められただろう。

しかし、彼が江戸など諸国を回っていた時代とは何もかも変わってしまっていた。むしろ、会津藩討伐に加われとせっつく薩長こそ悪の権化と見たのではないか。

結局同じく会津藩討伐を命じられて反発した越後長岡藩も加え、奥羽諸藩が今こそ結束して薩長軍を迎え討とうということになった。

奥羽越列藩同盟が結ばれた。

※この稿、続く。

※このブログは、毎月第2、第4日曜日に転載予定です。

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