第2話:軽薄才子

江帾(えばた)五郎。今回司馬遼太郎の、『世に棲む日日』を再読するまでこの志士の名を失念していた。いや、果たして志士といえるのだろうか。

本編によると、南部藩出身のこの人物は肥後熊本藩の宮部鼎蔵(ていぞう)と共に若き頃の吉田松陰に多大な影響を与えた友人だという。

江帾は感激家だという。酒を飲んでは往年の赤穂義士などに話が及び、艱難辛苦の末主君の仇討ちをするくだりに話がいくと真っ先に江帾が泣き出すという。

次に宮部が泣き出し、松陰も感極まって同じようなありさまになるのが常だという。

松陰はこの友人たちとの会合を泣舎と名付けていた。暇さえあれば、酒の席で泣き出していたわけである。

もっとも江帾の肩を持つとしたら、この男にはよんどころない事情も抱えていた。彼には、兄の仇として狙っていた人物がいた。

同じ南部藩の家老で、江帾はこの人物に藩内の権力争いで兄を謀殺されたのだ。家老が相手ではなかなか手出しができない。

しかしひるむことなく、江帾は家老が参勤交代で藩に帰るところを仕留めようと画策した。嘉永5(1852)年に松陰らと計画した東北旅行がそれだった。

おまけに出発日を赤穂義士が討ち入りに成功した12月15日にしたあたり、江帾の仇討ちに対する意気込みが感じられる。

ところがここで一つの齟齬が生じる。松陰がうっかり過書手形(通行手形の一種)の申請をするのを忘れていたのである。もちろん手形なしでも、旅行へ行くのは支障はない。

しかし後から幕府の詰問が及ぶのを恐れた長州藩は(当時の長州は、幕末の頃の過激分子の巣窟とは真逆だった)、手形を発行するまで旅行は取り止めよと松陰に命じた。

明らかに松陰の片手落ちだったし、江帾らに延期を持ち掛けても仕方がないはずだった。しかし松陰はここで飛躍する(良くも悪くも、それが彼の思考原理であり行動原理だった)。

今回の旅はただの旅に非ず。江帾の仇討ちも兼ねた死出の旅でもある。恐らく仇討ちが成功するにしろ失敗するにしろ、江帾とは今生の別れとなろう。

死を賭けた友人に旅を延期しようと言えないではないか。結果、松陰は脱藩した。奇妙な脱藩と言わざるを得ない。当時の日本人の間で、今日で言うところの友情の概念はないに等しかった。

ましてや他藩ともなれば、現代の外国ほどに思考にも隔りがある。江帾も、松陰をおかしな奴だと思っただろう。

しかし松陰にしてみれば、友人との約束一つ守れない人間に大事を成すことなどできないという信念があった。

この思考原理が、後の松下村塾で教えていった多くの若者を幕末の志士へと育て上げた一因となったのだろう。

松陰が脱藩する形で前倒しされた東北旅行は、後から江帾と宮部鼎蔵が合流する形で進められた。

途中仇討ちのため江帾と別れることになった松陰らは、目に涙すら浮かべて別れを惜しんだという。

これが江帾五郎との永遠の別れと信じて。

※この稿、続く。

※このブログは、毎月第2、第4日曜日に転載予定です。

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