第4話
樋口仁の第一印象は「変わった子」だった。授業中、先生に注意されても落書きだらけのノートに鉛筆を走らせ、休み時間になっても教室に一人残って何かを一心に描いている。給食の時間もそれは同じで、彼の両親が何度も学校側から注意されても変わらない。
その変人っぷりに周囲は彼をいじめのターゲットにした。
仁が大切にしていたノートを破り、筆記用具を捨てたのはまだ序の口で、陰湿な嫌がらせは次第に暴力へと変わっていった。
殴られても蹴られても仁は気にも留めない。それをいいことにいじめっ子達の暴力はエスカレートしていき、ついには階段から突き落とすという命にも関わる行為に走った。
上段から転がり落ちた仁は幸い
最初は嫌々届けていた。学校一の変人と関わりたくなかったからだ。
学校関係の書類を届けても仁はどうでもよさそうに受け取るだけ。
何度も仁の家を訪ねたある日、美織は「なんで絵を描くの?」と口にした。
「……分からない」
ややあって返ってきた言葉に美織は首を傾げた。
「分からないのに描くの?」
「あんたは呼吸をするのに意味が必要なのか?」
「呼吸と絵は違うじゃない」
「違わない。俺にとっては呼吸と同じだ」
いつもは変わらない表情が歪む。自分の言動に嫌だっているのは明らかで、美織は慌てた。
「なら、私も描いていい?」
は? と仁は口を開ける。
「描けば分かるかなって」
美織の提案に仁はしばらく長考し、渋々といった様子で頷いた。
あいにく、美織には芸術とはなんなのかさっぱりだったが不思議な事に仁とはその日以降、よく会話をするようになった。今までは先生であっても無視していたのに美織にだけは、筆を止めて頷き返してくれた。
その事を学校側から報告された仁の両親は、我が道を行く息子の変わりようにたいそう喜んだ。菓子折りを持って美織の家を訪ねて、会う度に感謝をいうぐらいには。
周囲の反応と仁の両親からの頼みもあり、美織は仁の幼馴染兼お世話係となった。
***
「何を笑っている」
頭上から降ってきた声に、美織ははっと顔を持ち上げた。
「昔の事を思い出していたの」
「思い出に浸るならカッターの刃をしまってからやれ」
ぶっきらぼうな言い方だが仁なりに心配しているのは分かっている。美織は苦笑しつつ、言われた通りに刃をしまう。
どうせ、カッターの役目はこれで終わりだ。長く慌ただしい引越し作業も終えて、運び込まれた段ボールは全て解体してしまった。掃除とは違う疲労感を味わっていると美織の目の前に裏返しになったキャンバスが差し出された。
「……なにこれ?」
「あの作品、完成したから、やる」
あの作品、というのは二十年も未完成だと言っていたやつだろう。あの話をして、まだ半年も経っていないのにもう完成? と思いつつキャンバスを受け取った。
「……これって」
美織は両目を大きく見開いた。
暖かな向日葵が咲いていた。その中央には一枚の、ぼろぼろの紙を眺めている少女が描かれている。真っ赤なほっぺたと緩んだ口元、優しげに下げる目尻から少女がいかにその紙を大切に思っているのかが伝わってきた。
——これは、かつての美織だ。
まだ幼い頃、仁から初めて似顔絵をもらった日の。
「あれ、捨てられたって言って悲しんでいたから」
「ありがとう……。ずっと描いていたのって、これだったんだ」
「やっと納得の仕上がりになったから……。嫌なら捨てればいい」
キャンバスを取り上げようと仁は手を伸ばした。
美織はキャンバスを抱きしめ、その手を払いのける。
「いらなくない! これ飾ってもいい? 飾りたい! え、額縁どうしようっ」
興奮し、まくしたてると仁は一瞬だけ呆けた表情を浮かべ、徐々に顔を緩ませる。目尻に挿した朱が、仁の感情を明らかにする。
「飾るってどこに?」
「リビングとか? あ、玄関もいいかも!」
なにせ引っ越したばかりの新居にはなにもない。ソファやテーブルは明日配達される予定なので、あるのは仁の仕事道具と美織の化粧用品や服だけだ。
「迷うなぁ」
「……なら、一緒に額縁を見に行くか。金色や黒、木製とか色々あるから、それを見て決めればいい」
珍しく外出を提案する仁に、美織は笑いながら頷いた。
向日葵の君へ 萩原なお @iroha07
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