第3話


 せんべい布団だといえども、さすがに食材が入った袋と一緒に持つのは難しいらしい。しかも洗って乾かしたことで分厚さが増している。試しに持ち方を変えたりして、どうにか持とうとするが帰宅の途中で落とすのが目に見えているので断念する。一度、仁の家に食材を置いてから取りに戻ろうかと考えていた時、美織の視界が薄暗くなった。なぜだろう、と顔をあげると不機嫌そうな仁が立っていた。


「仁くん」


 まさかの人物の姿に、美織は両目を丸くさせた。怒らせたので今頃、ふて寝していると思っていたのになんでこんな所にいるのだろうか。


「貸せ」

「いいよ。軽いし」

「いいから貸せって」


 普段、食事をまともにとっていない男が何を言っているのだろうか。筆よりも重いものは持てません、と言いたげな細い腕よりも美織のほうが遥かに力はあるはずだ。

 しかし、不満げな美織を置いて、仁は布団と買い物袋を手に持つとずんずんと先に進んでいく。美織は小走りで後を追いかけるが、すぐに息切れし、最後は早歩きになってしまった。

 その様子に気付いた仁は歩幅を狭め、美織が隣に並べるようにペースを落とした。


「ありがと。優しいね」

「うるさい」


 美織が両目を細めて笑うと、仁は鋭い眼光で睨みつけてきた。それでも美織の頬の緩みは治まらない。素直じゃない幼馴染は悪態を吐くものの優しさは変わらないのだ。


 しばらくすると仁が借りているアパートが見えてきた。築四十二年の年季が入った建物だ。経年劣化により色がくすんだ外壁や防犯意識の薄い窓は、お世辞にも綺麗とは言えない。家賃の割には部屋数が多いのだけが利点だった。

 この建物を見るたびに世界屈指の油絵作家なのだからもう少し良い所に引っ越せばいいのに、と美織は思う。仁の年収は知らないが美織に毎月支払われる家事への賃金はそこらのバイトと比べてとても高額だし、絵を描くこと以外に趣味はないのだから貯蓄もあるはずだ。


 しかし仁の脳裏には安全面や清潔感という概念がないのかもしれない。本人にしてみればキャンバスと向き合いひたすら没頭し、納得いくまで筆を動かし続ける。その空間さえ保てれば、ここよりもオンボロアパートでも、更に言えば電気や水道の通っていない洞窟でも住み続けるに違いない。

 呆れる美織を置いて、仁は慣れた足取りで階段を登り、二階へと向かった。美織も後を追いかけるが仁の部屋——その隣の部屋を通り過ぎる際に「あっ」と声を上げた。


「私、仁くんの隣に引っ越そうと思っているから」


 先月、ここに暮らしていた青年は彼女と結婚をすると言って引っ越していった。それ以降、この部屋は無人だ。

 美織の提案に、仁はぎょっとした表情をすぐさまいかめしいものへと変えた。


「駄目だ。もっとセキュリティがしっかりした所にしろよ」

「でも、近くの方が仁くんのお世話をしやすいし、今住んでるとこの更新期間もうすぐ何だよね」

「更新すればいいだろ」

「だから、お世話しにくいの。遠くて。ちょうど、仁くんの隣の人引っ越したからいいかなって」


 仁は目尻を吊り上げた。どうやら本気で怒っているようだ。だからといって、美織も今更物件を変えるつもりもない。どうしたものかと考えあぐねていると、先に口を開いたのは仁だった。


「なら俺が引っ越す」

「え?」


 唐突な言葉に思考が追いつかない。そんな美織を気にも留めず、仁は部屋へ入ると布団を廊下に投げ捨てた。買い物袋は丁寧にキッチンまで運ぶと床に置く。

 そのまま食材を冷蔵庫に仕舞ってくれるので、美織は昼食の準備に取りかかることにした。暑いので簡単にそうめんでいいだろう。変に凝ったの作ると夏バテした仁が食べないし。


「もう少し広いアトリエが欲しい。お前のとこならいい物件も多いだろう。俺がそっちに行くならお前が引っ越す必要はないはずだ」


 鍋でお湯を沸かしながら美織は目を丸くさせた。あのものぐさな、生活能力もコミュニケーションもない男が美織のために引っ越しという面倒な作業をするなんて考えもしなかった。


「多いけど、その分家賃も高いからな……」

「今住んでいるとこでいいだろ」


「いやー、もうさ、退居するって言っちゃって。家賃が安い割に防犯しっかりしているの、あそこぐらいなんだよね」


 どうしよう、と美織が悩ましげに眉を下げると仁はフンと鼻で笑う。


「バイト代を高くすれば問題ないな」

「普通に貰いすぎてるからこれ以上はちょっと……」

「わがまま言うな」

「言ってないじゃん。私がこっち引っ越せばいいだけなんだし。アトリエが欲しいなら私の部屋使いなよ」

「……ここの大家が、この建物を潰すから近いうちに出ていってくれと言っていた」

「え、初耳」

「今いったからな」

「だから最近、引っ越す人多いのか」


 美織が言い淀んでいると仁は大きくため息を吐いた。


「今のところを更新したくない、給料を更にもらうのも嫌だ、新しい物件も嫌、か」

「事務の給料って安いんだから仕方ないでしょ」


 沸騰したお湯にそうめんを入れて、箸でかき混ぜながら美織は顔をしかめた。どれほど仕事を頑張っていても給料は上がらず、正直言うと仁のお世話代がなければ生活もままならない。

 転職をしようにも仁の家に近く、お世話にいける時間があり、更に給料が高いとなると美織のような高卒は雇ってもらえない。何度かトライしたがほぼ書類選考で落とされた。

 渋い顔でそう伝えると仁は「なら」と切り出した。


「俺と暮らすか?」

「は?」


 美織は耳を疑った。


「なんて?」

「俺が家を借りるからそこに住めばどうだ? 家賃も水道代も俺が払うし、お前はこうして飯作って掃除してくれればいい」

「いやいや、それは……」

「もちろん、バイト代は別途で支給する。お前から金を請求するつもりはない」


 聞けば聞くだけ好条件だが、簡単には頷けない。美織が悩んでいるかたわらで、仁は鍋の中身をざるに移し換えた。


「あ、ごめん。ありがと」

「……嫌そうだな」

「仁くんは嫌じゃないの?」

「嫌なら提案もしない。恋人もいないから問題もない」


 それは知っている。仁という人間の性格を美織は彼の両親より理解していると自負している。美織のお節介が嫌なら今頃追い出しているはずだ。


 それに、恋人がいないこともよく理解していた。訪れる度にゴミ屋敷と化す部屋に異性を呼べるわけがないし、仁の外出着は全て美織が購入しているものなので彼がデートに着ていく服は持っていない。

 それでも首を縦に振らない美織に痺れを切らしたのか、恐る恐るといった様子で仁が口を開く。


「誰か、一緒に住みたいやつがいるのか?」

「いないけど」


 即答すると仁は安心したのか肩の力を抜く。そうめんを器に盛ると既製の麺つゆを入れて、テーブルまで運んでくれた。


「なら問題ないな」

「なんか強引だね。珍しい」


 仁の対面に座った美織はいぶしむ視線を送る。美織が身の回りの世話をする事は絵を描くためにしているとばかり思っていた。自分のテリトリーに招くなんて何かあるのだろうか。


「……別に」

「いつか彼女さんができた時、出てけって言わないでよ」

「言わない」

「ふうん、私のやることに文句いわない?」

「……内容にもよる」


 あまりにも嫌そうな顔をするものだから美織は吹き出した。それでも一緒に住む提案を下げないので、美織は不思議に思いつつもいい条件ではあると考える。仕事の傍ら、仁の世話を焼くとどうしても週に一回や二回程度が限界だ。共に暮らすなら毎日世話を焼くことができるし、家賃などがタダ。ありがたすぎる。

 でも、と美織は疑念する点を口にする。


「私、また怒らせるかもしれないよ」

「怒る?」

「あの絵、布がかかったやつ。気になったら見ちゃうから、仁くんがストレス感じちゃうかも」

「……あの絵は」


 ぽつり、と仁が言葉をこぼす。


「まだ、未完成なんだ。完成したら、美織に見せるつもりでいる。それを、未完成の状態で見られたくなかった」

「いつ完成するの?」

「……分からない。二十年も完成しない」


 ふうん、と美織は鼻を鳴らす。


「じゃあ、いつか完成したら見せて?」


 仁は返事をしなかった。だが否定をしないということは了承したと受け取ってもいいのだろう。美織は小さく笑みを零して、ふやけたそうめんを口にした。


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