第2話


「……さて、と。ここら辺でいいかな」


 布団は後でコインランドリーに持ち込むとして、次にどこを片付けようかと視線を彷徨わせていると、ある部屋の扉が目に入る。仁がアトリエにしている部屋だ。

 アトリエは物でごった返しているが寝室やキッチンと比較して綺麗さを保っているのと、芸術家という生き物は自分のテリトリーに足を踏み入れることを嫌がると聞いたことがあるので美織がすることと言えば、空になった絵の具等を集めて捨てるだけだ。最後に掃除をしたのは一週間も前なのでだいぶゴミは溜まっているはずだ。

 ゴミを回収すべく、美織は扉を開けた。

 すると強烈な油絵具の香りが飛び込んできた。乱雑に置かれたキャンバスや使い古された道具に埋め尽くされ、床が見えない程だ。窓から差し込む光だけでは部屋全体を見渡せない暗さだが、壁に飾られた大小様々な絵画でアトリエの中は彩られている。


「あれって」


 小さく呟いて、美織はアトリエの奥を見つめた。一枚のキャンバスに布がかけられているのが気になった。仁はどんな作品でもああして隠すようなことはしない。なぜ、隠すのだろうか。好奇心から美織はゆっくりと絵に近づいた。

 床に散乱する道具を踏まないように細心の注意を払いながら、キャンバスの前へと辿り着く。絵を見ようと布に手を伸ばした時、


「それに触るな!」


 怒りを含んだ声が聞こえた。驚いた美織は伸ばした手を引っ込めて、振り向くと、風呂から上がった仁がこちらを睨みつけていた。


「ご、ごめん……」

「見たのか?」

「まだなにも」


 美織が首を振ると仁は安堵の息を吐く。そんなに自分に見られたくない絵だったのだろうか。ちくり、と美織の胸が傷んだ。その痛みから目を逸らすために、美織は仁の隣を通り過ぎると布団の元へ駆け寄る。


「買い物ついでに、これ洗ってくるね」


 仁の返事もまたず、美織は布団とシーツを引っ掴むと足早に玄関へと向かった。




 ***




 残された仁はぐしゃぐしゃに乱れた髪をさらに掻き毟り、苛立たしげに舌打ちした。

 美織の足音が遠くなるのを確認しながら、先程まで美織が触れようとしていたキャンバスへ近づき、布を剥ぎ取った。


 現れたのは一枚の絵画だ。A4サイズの紙を大切に胸に抱える少女が向日葵のような微笑みを浮かべていた。

 仁は愛おしげにキャンバスのふちをなぞる。幼い頃から絵を描く事に没頭していた仁を美織だけが軽蔑も嘲笑いもしなかった。彼女の似顔絵を描いて手渡したら、まるで宝石のように目を輝かせて喜んでくれた。そんなに上手くもない、さっと描いただけの下手くそな絵だったのに。


「……美織」


 この絵は未完成だ。もう二十年も近く、下書きの段階から先に進まない。何度も絵具を重ねて、何度も筆を滑らせたのだが、どれもあの日の美織の笑みとは遠い。


「完成したら、その時は……」


 ぽつりと呟いた声は誰に届くでもなく、空気に消えた。


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