【5】

 はるか遠く、緑豊かな丘の上に、真っ白いワンピースを着た少女の姿があった。

 そよそよと吹く風に揺れているだろう金色の巻き毛は、この距離からは見ることが出来ない。

 あの日から、少女は毎日、あんなふうに座り込んでいる。

 待って、いるのか。

 『神』の眠るこの島を見つめ続けていた、あの少年を。

「愚かしいのは、私たちなんだわ。『神』はとうに死んだのに、いまだ、『神』が作ったルールに縛られ、それを強いている」

 ルチカが、私の呟きに顔を上げた。

「あの男の子に、教えてあげればよかった」

「教えてどうなるものでもない」

 ルチカはぴしゃりと言い切り、また書類に目を落とす。

 この朴念仁、と、心の中で毒づいてやった。

 教えたところで、あの少年は信じなかっただろう。

 『使徒』にも魂が存在し、それに寄り添う心もまた存在していること。

 穏やかで、優しく、清らかなヒトビトよりもむしろ、『使徒』は、あの少年に近い存在であること。

 少年は私たちに、ヒトとして生きたこともなく、誰かを愛したこともない、と言った。けれど、実際のところ『使徒』になる前は、私たちも『使徒』によって選別される身だった。

 私たち『使徒』の大半は、『正しい』ヒトとして生まれること、穏やかで、優しく、清らかなイノチとして生まれることを許されなかった魂だ。

 あの少年と同じく。

 ルチカよりも私のほうが先に、『正しい』ヒトとして生まれていた。そして、テスト生だったルチカと恋に落ちた。先に恋をしたのは、私のほうだ。あの少年に、金色の巻き毛の少女が好意を抱いたように。

 あの頃のルチカには、いつも寂しそうな陰が寄り添っていた。その寂しい魂に引き寄せられるように、私はルチカに心惹かれた。

 私に惹かれるにつれルチカは葛藤の只中に放り出され、困惑し、逡巡し、それでも抗えず、ある夜、私にすべてを告げた。

 彼の涙を見たのは、その夜が最初で最後だ。

 ルチカは私の胸に顔を埋めて、泣いた。

 私たちは泣きながら一夜を明かし、そして次の朝、――そう、私たちがあの少年の家を訪ねたように、朝日が昇ると共に『使徒』の来訪を受けたのだ。

 ルチカに下された判決は、あの少年と同じく、『死刑』だった。

 私に下された判決は、あの少年の両親と同じく、『第七地獄行き』だった。

 私の両親はルチカにひどい言葉を投げつけた。ルチカは黙って、それを受けた。だけど私たちは、お互いの両親に謝ったりしなかった。

 私たちの生は、私たちのものだ。私がルチカを愛したことも、ルチカが私を愛したことも、何もかもすべて、私たち自身が選び取った未来だ。

 その結果が罪だというなら甘んじてそれを受けようと、二人で話し、決めていた。

 『死刑』になった魂が『使徒』になれることを知ったのは、ずっと後のことだった。

 ルチカは長く闇の中に繋がれ、私は一人、第七地獄で様々な苦しみに耐えた。耐えれば、もう一度ルチカに会えると信じていた。絶望だけはすまいと、心に決めていた。

 永遠かと思えるほどの時が流れた頃、あの朝私たちを訪ねてきた『使徒』が地獄を訪れ、私を連れ出した。

 そうして、私はルチカとの再会を果たしたのだ。

 ルチカも私と同じく、私との再会を信じて、闇の中で耐えていた。

 私とルチカは、『使徒』になった。

「……ねぇ、『使徒』が三人組で動くことなんてあるのかしら」

「ある、と思っておけばいい」

「……そうね」

 そう思っておいたほうが、いいんだわ。

 最後まで、両親を庇ったあの男の子。あの子を、最後まで抱いていた両親。彼らが希望を失わず、お互いに求め合い続けることが出来れば、彼らはもう一度出会えるだろう。――彼らの望む形ではないとしても。

 私は、遠い緑の丘を見つめる。

 少女の記憶の中に、あの少年の面影は残っていないだろうに。

 それでも、少女はまだ、あの丘に通う。

 自分が、何を待っているのか知りもしないで。

 もしかしたらあの少女も、再会する日があるのかもしれない。幼い心に芽生えた恋心を、大切に守り続けることが出来れば。

 そんな奇跡が、起きるといい。

 もはや『神』の存在しない、この世界で。

「『心』は、不思議だわ」

「――うん」

 珍しく、ルチカが素直に頷いた。

 私は嬉しくなって、ルチカのつやつやした黒髪を、ぐしゃぐしゃにしてやった。


 『心』は、不思議だわ。




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【天国】のはなし 花宮 @Hana__Miya

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