最終話・星灯が彩る世界で。

 私達の間を、黄色いボールが何回行き交っただろう。

 打ち込まれたり、打ち返したり、取りこぼしたり、阻まれたり、オーバーしたり、ドロップしたり。

 それは常にせわしなく、それは時に儚く、それはまるで、これまで抱いてきた互いの感情を剥き出しにしてぶつけ合っているようで。

 箱から出したばかりの新品だったそれは、あっという間にくすんでいく。

 ——デュース

 私が媛崎先輩を左右に揺さぶっているはずなのに、崩れた体勢からも返ってくる打球は強烈で。

 ——アドバンテージレシーバー

 もう、あと一点取られたら負けというところまで追い込まれてしまっていて。

 ——デュース

 死力を尽くして試合終了を阻止しても。

 ——アドバンテージレシーバー

 段々、ラリーの回数は減っていって。

「……ゲーム」

 肺が痛い。足が動かない。腕が痺れて、心臓が張り裂けそうだ。

「私の勝ちだね、有喜ちゃん」

「…………頑張ったん、ですけどねぇ」

 まだまだ体力が有り余っていそうな媛崎先輩は私の元まで駆け寄ると手を差し出してくれた。握って立ち上がっても離されることはなく、私達はそのままベンチへ移動して腰を下ろす。

「安心した」

「…………へ?」

 互いに呼吸を落ち着かせながら今にも雨が降り出しそうな厚い雲を眺めていると、不意に媛崎先輩が言った。

「有喜ちゃんがちゃんと強くなってて安心した。他の女の子と遊んでる暇はなさそうだね」

「だから言ったじゃないですか。割と本気で励んでるんですよ」

「うん。疑っちゃってごめんね。……でも、だって……」

 うつむいた媛崎先輩が少し拗ねたような声を出したので顔を覗き込むと、素早く伸ばされた両手に頬を挟まれて唇が重なる。

 深く、長く、試合で昂ぶった熱を交換するように。

「……ねぇ、今の私は、有喜ちゃんが好きって言ってくれた私のままでいられてる?」

 ようやく離れた口から零れた言葉は震えていて、私を見つめる瞳は夕日の輝きを受けて赤紫に潤んでいる。

「……全然、違うかな」

「えぇ!?」

「でもね、そんなのって当たり前だと思うんだ。関係が変われば呼び方が変わるように、関係が深まれば互いが互いを変えていくんじゃないかな」

「変わっちゃっても……いいの?」

「当たり前でしょう? 私の知らない茜ちゃんを見つけるたびに戸惑って、それでも好きっていう気持ちが溢れてくる」

 かつて私に大きな影響を与えた【永久歪】の著者、香流先生が先週発売した新作のタイトルは【ホメオスタシス】。

 元の状態を維持する機能を意味するそれは、怪我をした皮膚を治したり、傷めつけられた心を癒やしたり、新しいことを始めようとするのを恐れたりと人間に欠かせない働きをしている。

 私は思った。

 一度大きく歪んだ人間の心も、ホメオスタシスによって元の状態へ戻るのならば、 そんな、生命を守るために存在する恒常性を持ってしても――永久に消すことのできないこの歪を――私は、愛と呼びたい。

「どんなに変わっても、茜ちゃんを愛してる。今までいろいろあったからかな……とても自然に、そう確信できるの」

「……有喜ちゃん」

 記憶を取り戻した夜と同じように、ベンチの上に彼女を押し倒して白い首に唇を押し付ける。

 まだ少し明るいけど、この衝動を抑えられないことは重々承知。ああでも、せっかくならあの時みたいに、満天の星空の下で絡み合いたかったなぁ。

 雲は黒く重くじっとりとした威圧感をはらんだまま、冷めた目で私達を見ていて退いてくれそうにもない。

 仕方ないか。贅沢は言わない。コートの鍵を返す時間にはまだ余裕があるし、試合のお返しだ、ちょっぴり……いや、たっくさん意地悪して、たっぷり鳴いてもらうとしよう。


×


 などと思った私が馬鹿でした。

 結局先輩の服に手を掛けるより早く降り出した大雨のせいで、私達は急いでコートを片付けて鍵を返す羽目になった。

 少し予定を早めて私が一人で暮らしているアパートに移動し、二人でシャワーを浴びて出ると先輩は満面の笑みで、

「はい、有喜ちゃん」

 と言って目隠しを差し出した。内心にった、勝負の賭けについては忘れているかもというささやかな期待は打ち砕かれ、

「有喜ちゃん……大丈夫? 痛くない?」

「…………痛いって言ったらやめてくれるんですか?」

「やめないよ? でも痛くないように調節する」

 今に至る。

 ベッドと固定するように手錠も付けられて抵抗の手段はゼロ。それなのに、

「よし、じゃあこれもつけるね」

 やや紅潮した先輩の声が聞こえた次の瞬間、私の耳が何かに包まれて世界から音が消える。

「えっ? ……先輩? ……ねぇ茜ちゃん?」

 勝手に装着させられたのはたぶん、ヘッドホン。ノイズキャンセリング機能が付いているらしく、微細な電子音以外は何も、聞こえない。

「どこにいるの……? 茜ちゃん、何をしてるの?」

 問いかけても反応はなく、私の体に触れられることもない。

 真っ暗闇の中で自分の心音だけがどんどん大きくなっていって。

 比例するように恐怖が――誰にも理解されないと諦めて生きていたあの頃の孤独が、独りぼっちの恐怖が――満たされた今だからこそ膨れ上がって。

「せん……ぱい……どこ……?」

 媛崎先輩が意味もなくこんなことをするわけがないから、暴れてヘッドホンを無理矢理外すようなこともしたくない。

 でも、怖い。

 暗闇と不自由と静寂にいよいよ耐えきれなくなり、大きな声をあげようと決心した時、

「わー! 有喜ちゃん! ごめんね!」

 慌てた声がノイズキャンセリングヘッドホンを貫通した。

 すぐにそれと目隠しを取り外してくれた先輩は「ごめんね、怖かったね」と言いながら私の目元を拭ってくれている。どうやら自分でも気づかなかった、頬を伝う涙に気づいてくれたらしい。

「怖かったです。もう二度としないで……って、それ……」

 手錠も外してもらえるチャンスだと思って涙を利用した批難を実行しようとしたものの、視界に映った彼女の姿に、息を飲んでしまって叶わない。

「…………どう、かな」

「……似合ってます。最高に。なんて……綺麗なんでしょう」

 媛崎先輩は、去年のクリスマスに着用を拒否した私からのプレゼント――真っ赤なレースで一部が……いや、大部分が透けてセクシー過ぎる――ネグリジェを身に纏っていた。

「こんな格好させるなんて……有喜ちゃんは本当に変態さんだね」

 私を拘束しておいてどの口が、と反論しようとするのも、彼女の首元に揺れるものを見て憚られる。

「めったに付けてくれないから、あんまり好きじゃないんだと思ってました」

 それは高校生の時、私が初めてプレゼントした紅いスピネルのネックレス。 貯めていたバイト代を注ぎ込んで、大人びたジュエリーショップで背伸びして買った……若気の至りって言うのかな。そこまで昔じゃないけど。

「だって有喜ちゃんからもらった初めてのプレゼントだよ? 宝物だよ?  気軽には付けられないじゃん! 」

 そうだ、これを渡した日、私は媛崎先輩が涙を流す姿を初めて見たんだ。

 あれからお互い、いろんな種類の涙を流しながらも私達は今日まで繋がっている。だからきっと、これからどんな涙を流すことになっても、繋がっていられるだろう。

「でねでね、見てほしいのは、こっち」

 そう言った媛崎先輩が部屋の電気を消した2秒後、青白い光が弾けて拡散し、部屋の中に満天の星空が生み出された。

「うまくセッティングできなくて時間が掛かっちゃったの。怖がらせて本当にごめんね」

「…………すごい……」

 じわりと胸の奥から澄み切った涙が込み上がってきて、暗闇の中で燦々と煌めく北斗七星がぼやけてしまう。

「これ、どうして……?」

「だって久々に会えたんだから……特別なことしたいでしょう? それで有喜ちゃんに最高の彼女だーって思ってもらって……それで……」

 相変わらずこの人は、私の望みを密かに感じ取り速やかに決行するスペシャリストだ。不器用な私には到底、真似できない。

「茜ちゃん、もういいからこの手錠外して。最高の彼女に最高のご奉仕をさせて」

 だけど私は私で得意分野がある。この感動に報いるためにも、私の全てを――喜びに震える全身を駆使して彼女を悦ばせよう。

「ダーメ」

 しかし、心の中で熱く決意していた私へ意地悪な笑みを魅せた媛崎先輩は、手錠の鍵をどこかへ放り投げてしまった。

「今日はたっぷり、私がいじめてあげる。私以外の人なんて一切興味がなくなるくらい、たーっぷりと、ね」

「そんな、私はいつだって……ちょっと、待って……もう、茜ちゃん!」

 窓の外が闇を深めるにつれ言葉は少しずつ、淡く掠れて――

「……有喜ちゃん、ずっと……ずっと一緒だよ」

 吐息と、嬌声と、星灯ほしあかりが彩る世界で――

「うん。茜ちゃん……愛してる。何があっても、いつまでも」

 切に求め合い、獰猛に絡み合い、心の奥深く、体の隅々まで愛し合い――

 ――果てしない私達の夜が、静かに明けていく。

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君が永久に歪ませた 燈外町 猶 @Toutoma

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