美に入る傘

ヤノヒト

美に入る傘

さめざめと、その日の空は泣いていた。


夕暮れの焼けるような茜色は鬱蒼とした雲と電線なる紐に隠れ、姿を隠していた。

黒い紐は幾重にも重なり、空に細く境界線を描いたと思えば……時には鴉の止まり木となり歪んだ黒点を打つ。


かの紐さえ無ければ、空はより一層輝くはずなのに。

そう思いを馳せた所で、この身が輝かしい晴天を目にする事などありはしないのだと――どこかで諦めていた。

諦めざるを得なかった。


"こんな体では"などと……。


しとしと、と爽やかな雨粒が道路を濡らす頃。

我が身はコンビニエンスストアなる露店の軒先にてぼんやりと町を眺めていた。


目の前を行き交う自動車は濡れた路面とゴムの塊を擦り、しゃあしゃあと不快な音を鳴らす。

車の往来が丁度二十を超えた頃、ようやくこの身は動き出した。


灰色の"けぇす"から抜け出して、ボタンを一つ押し込んで――"びにぃる"の膜を張る。


持ち手の白い傘。


「この身」こと……びにぃる傘が一つ、透明な花を咲かせたのだ。


お値段は、約壱百円程也。


***


傘は、話さない。


少なくとも傘の持ち主はそう信じ切っている。


傘もそうだと思う。


傘は傘であり、物であり、よほどのことがない限り勝手に動くことなどありえない。

人や風、時には動物その他諸々に依ってはじめてその場を動くというものだ。


無論、傘に命はない。

感覚器官がなければ感情なる物を持ち合わせてはおらぬのだ。


感じもしない、生きてもいない……そんな傘がなぜ物思いに耽るのかといえば数多の人間の手に渡る事でいつしか骨に張り付いた『付喪神』なるモノの仕業に相違ない。


故に傘は物を想う。


動物の如く自由に肢体を伸ばすことが傘には出来ぬ。

傘には想うことしか、許されてはおらぬのだ。


考えることが傘にできる唯一の「行動」なのだ。


前置きはこの程度に。


……傘は、話せぬ。

しかし想った言葉をただ反芻することに傘は飽きた。


故に、傘は思う。


この想いを誰かが聞いてはくれないか、と。


つまり。


ここから先の言の葉は、すべてが傘の独り言。


人間でも、動物でも構いはしない。


そこのよくわからない黒い"もやもや"でも構わぬ。


この、物思いに耽る事しかできない憐れな傘の下らない幻想をただただ聞いてはくれないだろうか。


持ち主も、しばらくは歩みを止めそうには無いもので。


***


考えることで得たものが、ある。


感情を持ち合わせぬとはいえ、僅からながら傘は傘らしい状況を好む習性を持っていた。

例えば、今。


雨粒を弾く……その一瞬一瞬が傘の物思いをより潤滑に、明快にさせる気配を知った。これが人間で言うところの"楽"、あるいは"安堵"なのかは知る由もないが……少なくとも傘にとって思考を止めさせる様なものではない事を知っている。


傘が傘らしく在る――その時ばかりは眼に見えぬ何処かに熱を帯びる気配さえ、傘は想起することが出来たのだ。


良い事ばかりでもない。


傘が傘らしく在れば細やかに――それこそ傘がこれまで幾万と弾いてきた、雨粒の如く矮小な変化成れど――温かさを覚える一方で傘らしからぬ傘には幾ばくかの憐れみを覚えることもまた、ある。


傘は透明な膜を、美しいびにぃるを張っていたい。

傘がこのように考える事さえなければ、そもそも全ての傘は傘足り得たが、骨が折れ、布が裂け、持ち手の曲がりし傘は傘足り得ぬ事を傘は認識した。


『壊れた傘』だ。


傘足り得ぬ傘だ。

あれになる事を傘は拒む。


傘はいつまでも傘でいたいと思うのだ。


***


その点、今の持ち主は傘に少なからず情を向けているようだった。


持ち主の部屋に入るたび傘は力強く振られ、雨粒を概ね弾いた上で仕舞われる。

金属で出来た細長い"けぇす"には綺麗な状態で仕舞われることを傘は好んだ。


もう、何度となく変わった持ち主ではあるが……当分の間、傘は傘でいられるのだと安堵した。


しかし。


一つだけ、懸念があるとすれば……持ち主の不規則な外出が増えた事だろう。


春が終わり、夏が始まる少し前。

所謂"梅雨"なる季節というのに……持ち主は休日になると

音の鳴る金属製の板を何度も耳に当て、上擦った声で板に話しかける。


"あれ"が如何様な道具であるか、傘には皆目見当もつかぬのだが、強いて言うなれば何らかの音を伝える装置らしく。


持ち主は板への独り言を終えると、手早く着替えを済ませ外へと駆けるのだ。

さすれば、板の向こうで音を聞き届けた人間が持ち主を待っているようで……言うなれば待ち合わせの為の合図を送っているらしい。


無論、梅雨の町並みを全力で駆ける持ち主に握られて、傘は無事役目果たすことが出来るのだから別段悪い事ばかりでもない。

しかしながら駆け出した際の持ち主の素行は傘にとって安堵出来るものではなく。

"がぁどれぇる"なる白き金属板によくぶつかるわ、電柱に擦れるわ……危なっかしい、という言葉がよく似合う。


身長からして、幼子とはとても言えぬ体躯をしてはいるものの

駆ける際の持ち主はとても大人とは思えぬはしゃぎようである。


こうして傘は僅かながら嘆くのだ。


……噂をすれば、なんとやら。


持ち主がまたかの面妖な金属板に話しかけているではないか。

日も暮れる頃だというのに持ち主は一体何故、かの人間と逢いたがる。


――傘は、本日弐度目の役目を果たすこととなった。


先ほどとは天候が打って変わり。

玄関の外ではびゅうびゅうと風が鳴っているのも聴かずに、だ。


***


この時期は天候もかなりの荒れ模様だと、傘は知っている。


四季を一通りこの身で経験しているからだ。


一夜限りの雪を受け止めた、物静かな季節は風情があって好みである。

実りの季節を支える、ゆったりとした重みのある雨も悪くない。


だが、骨を揺るがす強風はなるべく避けたいと傘は思う。


ごうごうと唸る風にねじ伏せられて何度か骨は反り、びにぃるに僅かな窪みを付けたことがある。


今の持ち主は荒々しい使い方をしないから済んでいたものの。

今日ばかりは……傘は傘としての形を保てないのかもしれない。


持ち主の表情が空の如く、曇る。


ばちばち、と雨粒はびにぃるの上で弾けていった。


強風に煽られた雨粒は何れも鉛のような重さで持ち主や町並みを打ち付けている。

ビル街の狭い隙間まで例外なく濡れていくのが見て取れた。


持ち主は一体何を考えているのだ。


傘は話せぬ。


故に時折……人のする行動が見当つかぬ時が、くる。


子供が傘同士をぶつけ合う時。


何も手に持たぬ人間が勝手に持ち主のふりをして、傘を身代わりにして嵐の中を突き進む時。


他、様々。


その時は大抵傘にとっての最期の時で。

持ち主との別れの時で……。


「寒い」と思った。


傘には温度を知る器官はない。


それでも、だ。


傘は傘だ。


持ち主からの情を知らぬ傘ではない。


情が逸れた事を傘は感じ取ったのだ。


――突如として、傘は風に流された。


透明な膜は風に煽られ、飛び上がる。


持ち主の表情を伺うに、例の人間と出会えたのだろう。

持ち主は傘を捨て去ってまで喜びを両手で表したのだ。


大きな大の字を作り、風よりも速く走っては……もう一人の人間を両手で包み込む。


あぁ、そうか。


あれは"番いつが"なのか。


さすればあれは……求愛の踊りなのだろうか。


否、人間にそんな習性はなかったか。


やや、傘の思考も鈍ってきた。


あの雲の如くもやもやとした何かが傘を濡らす。

電線のような隔たりが傘の思考に黒点を打つ。


持ち主と別れてからは数分とも経ってはおらぬが、僅かな時間がまるで四季の巡りの如く長く思えた。

どれほどの距離を転がったか、傘にはすでに分からない。


今夜にも傘は傘足り得ぬ傘になるのだろう。


風は鳴り止まぬ。


まだこの身が町を転がるという事は……びにぃるはまだ破けてはおらぬという事だろう。


滑る。


転がる。


何度も転がり、山の方へと。


風に煽られ宙ぶらりんの骨のまま。


けれど傘は安堵した。


まだ、傘は傘である。


……これが最後の安堵に成らぬことを傘は夜空に願うのだった。


***


翌朝の事だ。


傘は、元居た町を転がり落ちて……トンネルを下った小さな町に横たわっていた。

場所は変われど、打ち付ける雨粒の強さは変わらなかった。


一晩中転がり続けた傘は骨が一部内側に凹み、平らな部分が出来ていた。

傘は平らな面で地面を捉え滑る形となり、延々とアスファルトの上を移動したのだ。


そう。


骨は折れ、傘は傘足り得ぬ傘となったのだ。


寒い。


傘に温度は分からぬが、それでも傘は想う。


寒いのだ、と。


けれど、だ。


その寒さが和らいでいく。


持ち主は再び変わり――今度は明らかな子供。

傘の骨とほぼ同じ程度の身長で、かの子供は何をするのだろうか。


傘を見つけるなり、体躯に見合わぬ大きなソレを引きずって……。

空地の奥にある小さな茂みにまで連れ込まれた。


待っていたのは、数多の傘足り得ぬ傘。


他にも破れた風呂敷など、不可思議な物品が並んでいた。


子供は傘を未だ引きずる。


奥へ、奥へ。


小さな体躯では持ち上げる事すら困難な傘を……ついに茂みの中まで運び込んだ。


子供はそこで手を止める。


そして、誇らしげな表情で傘を見つめてきた。


傘に問うことはできない。

傘は話すことができない。


されど、この子供が何らかの城を築いたことだけはわかった。



透明なびにぃるの奥では数冊の漫画なる紙の束が連なっている。

傘はあれらを雨風から防ぐ為の外壁なのだろう。


一部の凹んだ傘は石でも乗せれば地面に固定され、そよ風程度ではびくともしない壁になった。


他の傘足り得ぬ傘も同様に、布やびにぃるの膜を石で固定され――いささか歪な城壁を形作った。

かの子供はこういった材料を集めるのが趣味なのやも知れぬ。


一塊の大きな傘は茂みの全方位を囲い、大きな傘と見違える形になっていた。


これが転がった傘の――傘足り得ぬ傘の一つの末路。


傘に感傷もなければ感動もないが。


傘に感情などない、はずなのだが。


美しくて歪な"びにぃるの城"を形作ることがやけに――誇らしい。


傘足り得ぬ傘の……これはこれで一つの美しい果てなのか。


否、この城はいくら頑丈なれど子供基準。


台風なる猛威はきっと防げない。


一見完全に見える城。


だが、隙間風が新たな持ち主を予感させた。


もって夏までだろうか。


けれど。


当分はこのびにぃるの城となることが傘の傘たる所以にしよう。


この日の空も、優しく泣いていたのだが。


それでも電線なる境目のないこの空を長らくは眺めたいと、傘は想った。

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