スープの跳ねた眼鏡まで
佐倉島こみかん
スープの跳ねた眼鏡まで
一番星が震えているのは木枯らしのせいだろうか、それとも滲む涙のせいだろうか。眼鏡でもギリギリ0.8しかない視力では、それすらも曖昧だ。
駅で待ち合せた薫は私の様子にただ「行くよ」と一言促して、行きつけの豚骨ラーメンの屋台に連れてきた。
「ほら、先に食べな」
「うん」
薫に促されて割り箸を取り、先に渡されたラーメンに顔を近づけた。外気で冷えた眼鏡のレンズが湯気で曇る。
「で、理由は?」
隣で同世代の大将からラーメンを受け取りながら訊く薫を横目に、ずずうっと硬めの細ストレート麺を啜る。豚骨のまろやかさと大蒜の効いたパンチのあるスープが跳ねて眼鏡につく。それを拭うのすら億劫で、そのまま麺を飲み込んだ。
「繕わないといけないのが、しんどくなって」
辛うじて返した声は掠れていた。
「あの人が好きなのは、綺麗に着飾って、料理が得意で、彼の言うことをよく聞く、周りに見せびらかせる恋人であって、私そのものじゃなかったの」
気温に馴染んで、じわじわと曇った視界が晴れていく。口にしてしまえば、滲んでいた涙が重力に負けてレンズに垂れた。帰ったら洗剤で洗わないと、なんてどうでもいいことが頭の隅をよぎる。
「違和感は、度々あったの。でも、こんな条件のいい人は他にいないしって、色々気づかないふりをしてきたんだ」
ぐす、と鼻をすすってから、チャーシューの脂身に箸を入れて切る。
「で、今日は目の調子が悪くて、眼鏡で会いに行ったの。そしたら『なんだ今日は眼鏡かよ』って、あからさまに不機嫌になって。それを見たらもうなんか、無理だって、突然、糸が切れたみたいに、虚しくなって」
こぼれそうになる嗚咽を飲み込むために、一口大より大きいチャーシューを頬張る。醤油ベースのトロトロに煮込まれたチャーシューは、こんな時でさえ美味しい。
「あの証券マン、自分も眼鏡なのを棚に上げてそういうこと言う!?」
いつの間にか生ビールを頼んで飲んでいた薫が、ジョッキを勢いよく置いて言った。
「美和は本当によく頑張ったし、この眼鏡姿の可愛さが分からない奴は付き合う資格ない!」
「でも眼鏡にスープが跳ねてもそのままラーメン食う女だよ」
「馬鹿ねぇ、そこが可愛いんでしょ。次はスープの跳ねた眼鏡まで愛してくれる人を選びなさい」
「居るかなあ、そんな人?」
薫の優しい笑みに私もつられて苦笑する。
「あの、ここに居ます」
驚いて顔を上げれば、すぐ目の前の大将が、おずおずと手を挙げていた。
スープの跳ねた眼鏡まで 佐倉島こみかん @sanagi_iganas
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