#4
平岡が緊張しているのが傍目から見てもわかる。珍しく書類の中でケアレスミスをしているし、昼食も少ししか食べていないようだ。無理もない。午後の面会予定欄には里村の名前が連なっている。彼女がここで自殺を図ってから三週間が過ぎていた。
予定の時刻になり、平岡が里村を伴って部屋に入ってきた。里村の表情をうかがったが、里村の自宅で会ったときと何も変わらない。青みを帯びた白百合のような顔をしていた。少し風が吹きすさんだだけで、その花びらはいとも簡単に散ってしまいそうだ。左手首に巻かれた包帯を、まるでお守りのように彼女は右手で触れていた。坂巻は着席を勧めた。
いつもは坂巻と平岡、そして申請者の三人しかいない空間に、今日は荒川がいた。里村の正面に坂巻が、坂巻の右斜め前に平岡が、そして里村の右斜め後ろ、壁のそばに荒川が着席している。以前、里村の自殺未遂騒動は問題として報告されているため、上司である荒川の同席が余儀なくされた。荒川自身は、坂巻がミスをおかしたとは考えていない。今まで三年にわたり、大きな問題もなく坂巻はこの業務をこなしてきた実績がある。しかし、坂巻を信用しすぎる荒川でもない。里村の背後に位置どることで、もし里村が再び自殺を図ろうと、それを止める役割も担っている。里村は背後に座る荒川に一瞥もくれることなく、太ももの上に組まれた自身の両手を見つめていた。
「傷はどうですか」
坂巻は書類を横に置いて、まっすぐに里村の方を見つめながら尋ねた。「ふさがってしまいました」、と、小さな声が聞こえた。平岡の指が、わずかな時間だけ止まる。里村にとって、傷がふさがったのは不本意なことだったのだろう。坂巻は「良かった」とも「不本意ですか」とも言わず、沈黙を守った。おそらく、里村が求めている言葉はどちらも違うのだと思った。
「里村さん、貴方は今でも安楽死を望まれますか?」
マニュアルにはない質問を坂巻はする。里村はやっと顔を上げ、長い前髪の間から目をのぞかせる。片目しか見えないが、その目はしっかりと坂巻を捉えている。
「それはもう、切に」
そのとき、坂巻は初めて里村の微笑みを見た。
『人が人でありたいと願っているのにも関わらず、その願いが満たされない人たちがいます。その方たちの声に耳を傾け、願いを叶える一歩を踏み出させることです』
瞬間、その言葉が、頭をよぎった。
彼女の願いは、死ぬことなのだ。
「この間、貴方の自宅を訪ねたとき、ご自宅近くのメンタルクリニックの処方箋を見つけました」
里村の家に行ったことは荒川にも平岡にも伝えていない。里村の後ろに座っている荒川の眉が少しひそめられたのが見えたが、坂巻はそのまま続ける。
「大変差し出がましいことと思いながら、そのメンタルクリニックに私も伺いました。貴方は一年半ほど前から通っていらっしゃるそうですね?」
里村の笑顔は張り付けられたように固まった。口元は笑っているが、目の色が明らかに変わったのがわかる。まるで差し伸べられた手で叩かれたような気持ちなのだろう。
彼女の担当医は、黒く太い縁の眼鏡をかけた若い男性だった。神経質そうに髪が整えられており、最初は警戒の色が強かった。が、坂巻は彼女の個人情報を書類で読み込んでいるため、隅々まで頭に入っていたことを利用し、彼女の病状を聞き出した。勝手な真似をしたことについてあらかじめ里村に詫びてから、坂巻は続ける。
「貴方の担当医から聞きました。貴方は十四歳の頃からしばらく、当時の義父に性的暴行を受けていたそうですね」
彼女の顔からは張り付けたような笑顔さえも剥がれ落ち、視線は落ち着きなく床の上を這いまわっている。
今回、里村には特別に持ち物チェックを行った。前回のように刃物など、自殺できるようなものは持ち合わせていない。この面談室は窓にも格子が嵌められており、飛び降りることもできないようになっている。里村の手に目をやると、重ねられた右手の爪が左手の甲に食い込んで、皮膚が引っ張られているのが見えた。自殺を図る可能性はほぼないと言っていいが、念には念を重ね、坂巻は慎重に言葉を選ぶ。
「私には、貴方が体感した精神的、身体的苦痛を理解することができません。ですが、想像することはできます。どれほどに……」
坂巻はそれ以上、うまく言葉を紡ぐことができなかった。
彼女の当時の記憶ははっきりしないようだと、担当医も言っていた。詳しいことは何も彼女の口から語れない状況だったらしい。ただ見慣れた天井をまっすぐ見つめながら、ずっとただ一言を繰り返していたという。
早く終われ、早く終われ、早く終われ、早く終われ、早く終われ――と。
「貴方がどれほどに、辛い思いをされたか……」
上司の荒川から見ても、普段の坂巻は冷静で、頭の回る人間であると思う。安楽死申請者たちというマイノリティと対峙しながら、自身の職務を全うするために、しっかりと私見と客観性の間にラインを引いている。杓子定規というわけではなく、人間の道徳的観点からそのラインを踏み越えることもあれば、書き直すこともある。坂巻が内面に持ち合わせているその人間としての葛藤が、他人からは見え辛くても確かに存在していることを、荒川は確信している。
ただ、今、同じ部屋の中央に座している坂巻は、自身の心の中でラインを引きかねているように見えた。おそらく書いては消し、書いては消しているのだろう。彼女が安楽死を臨む理由を知った今、坂巻がどこにラインを引くのか。彼女の安楽死が認可されるか否かが、そのラインにかかっている。
里村が、何か小声で呟いた。この部屋の誰もが聞き取れなかった。坂巻が尋ねると、彼女は自分自身を抱き締めるようにした。
「もう愛せないんです。自分の体が……」
里村の肩が震え始めたと思いきや、彼女は自分の腕を引っ掻き始めた。長袖なので傷になることはないであろうが、彼女が自分の体を愛せないどころか、傷つけずにはいられないのだということを、坂巻は悟った。平岡は、静かに眼鏡を外し、ハンカチで目を一度だけぬぐった。
坂巻は一呼吸、深く深く息をした。
「里村さん」
坂巻の声に、彼女の手が止まった。里村と目が合った。絶望という絵具を溶かした水があふれだしそうな目だった。坂巻は乾く唇を一度湿らせた。
「私が思うのは……。あなたに必要なのは死ではなく、“救い”なのではないですか?」
彼女は黙ったまま、坂巻の目を見つめ続けていた。坂巻も目をそらさなかった。
「あなたは2年前からクリニックに通い始めました。そのときは、どういう思いを持ってクリニックのドアをたたかれたんですか? 担当医の方がおっしゃっていました。『里村さんの治療は一歩進めば、一歩後ろに下がるようなものだ』って。でも歩幅が変われば、進む方向が変われば、また違う景色が……目の前に拓ける可能性もあるかもしれません」
坂巻は、机の上に広がっている里村の申請書類を束ねた。県庁のマークが入った封筒に入れ、彼女の目の前に差し出す。
「ひとつ、約束してください」
坂巻の声は静かに耳に染みわたっていくようだった。
「もう一度死にたくなったら自殺せず、ここに来てください。そのときは私が必ず認可の判子を押します」
里村はゆっくりと書類に手を伸ばし、今にも落としそうな危うさで受け取った。椅子から立ち上がったかと思えば、生まれて間もない雛鳥のような足取りでドアへと歩いていった。
「また来ます。必ず」
そうこぼして、里村はドアの向こうへ消えていった。書類を受け取った後の里村の表情を、坂巻は見ることができなかった。
*
里村との最後の面会から二週間後、坂巻は大きく「回覧」と書かれたクリアファイルに挟まっている資料に目を通していた。それは毎月月初に共有される、県内における前月の自殺者と自殺未遂者のリストであった。安楽死が不認可だった人物が再度自殺を図ることはなかったかを確認するためだ。坂巻が担当している三年間のうち、自殺未遂者は毎年数十名、安楽死を申請することなく自殺する者も数名いた。白い紙に書き連ねられている名前の一つひとつを確認したが、里村葎の名前はどこにもなかった。
坂巻は缶コーヒーの残りを勢いよく飲み干した後、目頭を押さえたまましばらく動けなかった。罪悪感と後悔に苛まれるか、束の間の安堵感を抱くのか、毎月渡されるその紙に結果は書かれている。おそらく自分は、この仕事を続ける限り、この紙を確認するたびに息がうまくできなくなる瞬間を味わわなければならないのだろう。そう坂巻は思った。
*
笠原の子供が生まれたと連絡があった。生まれた三日後の夕方、笠原は仕事が終わるやいなや、坂巻を引きずるようにして病院に連れていった。「普通、出産直後の見舞いには男は行かないものだろう」と何度も言ったが、笠原は「産んだ本人が来てくれって言ってんだから」と聞く耳をもたない。
通常の入院病棟とは少し違う匂いのする廊下を肩身狭く進んでいく。赤子の声が廊下の奥から聞こえる中、ひとつの病室の扉を笠原が開ける。
夕陽が差し込む部屋の中、ベッドに腰掛ける女性が「坂巻くん」とこちらを向く。笠原の妻は化粧もしていなかったが、以前とは違う温かみのある笑顔を浮かべた。ああ、これが「母」の顔なんだな、と坂巻は思った。
坂巻はお祝いと労いの言葉をかけた。ありがとう、もうすごく痛かったよ、でも生まれてきたときはホント泣けてきちゃって、などなど、笠原の妻は堰を切った川のように言葉を紡いでいく。圧倒されるがまま話を聞いていたが、思い出したように、
「そうだ。子どもの手、握ってあげてよ。まだ名前も決めてないんだけどさ」
と、傍らの小さなベッドで寝息を立てていた子どものほうを見た。手の近くに指を持っていくと掴むぞ、と笠原は肘で坂巻をこづいた。
なんとなく子どもに触ることを避けようとしていた坂巻であったが、その両親に背中を押されてしまっては無下にできない。恐る恐る、寝ている子どもの左手の近くに人差し指を持っていった。
小さく短い指がやおら開いたかと思えば、ゆっくりと坂巻の指を包み込んだ。坂巻は、その熱に心が溶かされていくようだった。
途端、赤子の顔が難しくなったかと思えば、目を閉じたまま泣き出した。両手に収まるほどの身体なのに、とても力強い声だった。赤子はぱっと手を離した。
笠原の妻はいそいそと準備し、「授乳室に行ってくるね」と言って、赤子を抱きかかえて部屋を出ていった。その背中は陽に照らされて、とても眩しく見えた。あの子は、生きている間ずっと“人”であり続けられるだろうか。
いっぱい泣け。いっぱい甘えろ。いっぱい叫べ。
坂巻は赤子の泣き声を聞きながら、まだ残る指の熱を感じていた。
了
死神のペンは何を書く 高村 芳 @yo4_taka6ra
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