#3

 県庁から救急車のサイレンが聞こえなくなった後、呆然としている平岡に声をかけた。さすがの彼女も目の前で起こった出来事に、冷静ではいられなかったようだ。里村には上司の荒川が付き添っていった。掃除中の平岡の手には赤く染まった雑巾が握られている。その手は少し震えていたけれど、坂巻にはどうすることもできなかった。


 その日、坂巻はまっすぐ家には帰らず、普段は買わないビールを携えて公園のベンチに座っていた。県庁を出たときはまだ空も明らんでいたが、気づけば遊んでいた小学生たちは一人残らずいなくなっていた。ぽつぽつと街灯がともり、公園をぐるりと囲む街路樹の向こうには主婦や仕事帰りのサラリーマン、自転車に乗った学生らが忙しそうに行き来しているのが見える。ビールはすっかり温くなってしまっていた。


 坂巻は、自分がこの部署に配属された当初のことを思い出していた。何もかもが手探りだった。同じ仕事をしている人間が近くにいないので、自分のやり方が正しいのか、一つひとつ慎重になっていた。省庁が開催している研修に参加したり、様々な関係者に話を聞いたりしながら何とか業務をこなしていた。

 「死神」。周囲が自分のことを何と呼んでいるか、坂巻は知っている。自分のペンが書類の上を走ることで生まれる結果も。生み出してきた結果も。初めて書類の「認可」欄に判子を押したとき、指が震えて書類を何枚か駄目にしたことも、その日は朝まで寝室の窓から月を眺めていたことも、鮮明に覚えている。


 ビールを一口煽る。冷たさを失った琥珀色の液体は苦みを増していた。

 たぶん今日も眠れない夜を過ごすのだろうと坂巻は思った。



   *



 いつもと同じ時間に出勤すると、平岡は定位置で既に仕事にとりかかっていた。坂巻も席で近くのコンビニで買ってきた缶コーヒーを飲む。お互いに挨拶以外、声をかけることはなかった。


 昼前、荒川のデスクに呼ばれた。荒川はまず坂巻と平岡を気遣った。坂巻は「問題ありません」、と一言だけ答えた。

 坂巻自身、荒川は公務員として特筆優れているというわけではないと考えている。しかし、平岡の目の下のクマであったり、坂巻が冷静に業務をこなそうとしていることに気づく誠実さがある。その点が周りに評価されて人望があついのだということを、坂巻は改めて実感する。

 荒川の話は、予想通り里村の経過についてだった。里村の手首の傷はそれほど深くなく、意識もしっかりあったため、昨日の夜だけ大事をとって入院したが、今朝のうちに退院したそうだ。昨晩、荒川が病室に待機していると里村の母親がつめかけた。腰くらいまで伸びている長い髪に白髪が混じっている女性だった。顔色も良くなく、疲れた顔をしていたそうだ。

 原則、安楽死申請者の情報には守秘義務があるため、荒川は名乗ることはできても、里村が安楽死を望んで面談に来ていたことは明言できない。伝えあぐねているところ、里村の母親から尋ねられたという。


「もしかして、この子は安楽死を希望していたのですか?」


 里村自身が自殺を図ったことは、ある意味「事故」と言えど、県庁で起こったことだ。荒川は里村が安楽死を望んで申請を行い面談に来ていたこと、その面談中に自身で手首に剃刀を引いたことと、謝罪の意を伝えた。母親は寝ている自分の娘の顔を一瞥してから、「ご迷惑をおかけしました」と頭を下げた。顔を上げたときには、皺の深い目尻に涙が滲んでいた。


「あの子は、今までも何度も……。部屋で申請書を見つけたことがあったので、もしかしたら、と思ったんです……」



 里村の自傷行為が始まったのは中学三年生の頃だった。その一年ほど前、里村が中学二年生のときに母親が再婚したこと、進学校への受験時期が重なったことによるストレス過多で、手首には傷が増えていったという。自傷行為のことは、書類には一言もなかった。


「葎には可哀そうなことをしてしまいました……。当時の父親はいきなり中学生の娘ができたことに動揺していたのか、葎には一切関心を示さなくて。葎が高校を卒業する頃に離婚したのですが、少々人間不信になったようで……」


 母親はくたびれたハンカチで目元をぬぐい、そこで話は終わったそうだ。



   *



 里村は五年ほどに渡り、死に囚われ続けている。

 中学時代からずっと、彼女の心が死を見つめているのは、なぜなのか。

 彼女は、死ぬことで安らかになれるのか?


 坂巻はデスクに戻ってから、事務処理に没頭した。そうしないと、坂巻自身が死に囚われてしまいそうになるからだった。この仕事で一番いけないのは、「引きずられる」ことだということを坂巻は身をもってわかっている。落ち着こうとしていた。落ち着いていないということを自覚しているからだ。


 『安楽死の認定は、人を殺すと判断することではありません。人が人でありたいと願っているのにも関わらず、その願いが満たされない人たちがいます。その方たちの声に耳を傾け、願いを叶える一歩を踏み出させることです』


 この職に就くとき、研修で講師がそう言っていたことを覚えている。


 安楽死の認可作業は、それを担当する者の精神を否応なく削ることになる。認可担当者は半年に一度、カウンセラーとの面談の機会を必ず設けなければならないし、そこでカウンセラーからストップがかかれば、早々に誰かに仕事を引き継ぐことになっている。それでなくとも三年単位で人員が入れ替わることが多いこの部署で、四年目に突入している坂巻は全国的にも異例な存在だ。

 今まで面談してきた、数々の人間。不認可の判子を押して追い返した人間がほとんどだが、自分ではもう話すこともできない末期患者の書類に、認可のサインをしたこともある。男も女も、若者も老人も死神の前に座る。ただ、その人たちも、里村も、「死にたい」わけではないのだ。


 きっと、「人」でありたいのだ。



   *



 坂巻は、県庁から車で一時間ほどの団地にいた。その団地は交通の便がよくなく、どこに行くにも車が必要だと思うほどだった。二〇年ほど前に区画整備された団地が整列された積み木のように連なっている。家賃の相場も低く、近くに大手メーカーの下請け工場が集まる地帯があることから、若い世代が移り住んでくることも多い地域だ。団地の間の細い隙間に詰め込まれた小さな遊具と樹木が、どこかくたびれたように佇んでいる。


 錆びれたアパートの、角部屋の一室。「里村」と手書きのサインペンで書かれた表札を前に、坂巻はもう一度スーツの襟を整えた。呼び鈴に指を伸ばした。外まで乾いた電子音が聞こえ、しばらくしてから少し錆びたドアが開いた。母親が顔を出した。目元が里村とよく似ている。いきなりの訪問であったが、県庁職員だと名乗った坂巻を部屋に招き入れた。決して広いとは言えない居間に通され、熱いほうじ茶を振舞われる。母親は荒川の話に聞いていた通り、少しやつれた表情をしていた。だが、目尻の下がり方や、ふと見せる視線の下げ方に、里村葎との血のつながりを感じさせた。

 坂巻が里村に会いたい旨を伝えると、母親は警戒しながらも彼女に伺いを立ててくれた。しばらくしてから母親が居間に戻ってきて、部屋に来るように言っていると告げられた。正直面会できると思っていなかった坂巻は驚いた。


 彼女の部屋を母親がノックし、扉を開けた。六畳ほどの部屋の奥にはベッドが設置されており、そこに里村は上体を起こして座していた。カーテンが薄いのか、外の光が仄暗く透けている。母親は心配そうな表情を浮かべつつも席を外してくれた。立ち尽くしている坂巻に、里村は「座ってください」と声をかけた。部屋の中央に置かれているローテーブルのそばに、坂巻は正座した。


「もう、傷は大丈夫ですか」


 ここに来るのは正しい行為とは言えない。申請者との面談以外の接触は原則禁止されている。それを認識しているがゆえ、荒川にも平岡にも伝えることなく、独断で里村を訪れているのである。坂巻は、謝罪した方がいいのか考えあぐねていた。謝らなければ、と思いつつ、心のどこかで、謝らなければいけないのか? という疑念が、坂巻の中で渦巻いていた。坂巻には、里村の考えていることがわからない。だから少しでも理解したくてやってきたのだ。謝ることが理解に近づくのか、それが彼にはわからなかったのである。


「この前はすみませんでした」


 里村は坂巻の方を見ることなく、言葉を布団の上に落とした。坂巻は不意をつかれた。逆に里村に謝られることは微塵も想定していなかった。里村は続ける。


「あの女性の方にも伝えておいてくれませんか」


 彼女が平岡への気遣いも見せたことに、坂巻は驚いた。死を熱望している人間の落ち着きとは思えなかった。左手首に厚く巻かれた包帯だけが、彼女が死を望んでいることを表している。


「必ず伝えます。こちらこそ、無神経な対応をしてしまい、大変申し訳ございませんでした」


 坂巻は彼女の方を向き直り、正座のまま、頭を下げた。里村の言葉を待っている間、坂巻の心臓は大きく跳ね続けている。


「坂巻さん」


 正直、彼女からどんな言葉をかけられるのか想像もつかなかった坂巻は、ゆっくりと頭を上げた。先程まで自身にかけられた布団の皺しか見つめていなかった彼女の双眸は、しっかりと坂巻を捉えている。


「また伺います。そのときは……どうぞよろしくお願いいたします」


 彼女は続けて、少し疲れたので寝たい、と言ったので、坂巻は離席した。母親にも礼を言い、早々と里村の自宅を後にする。


 「また伺います」と彼女は言った。やはり、彼女の中で「死ぬ」ことは揺るぎない要望なのだ。それが自殺なのか安楽死なのかは関係ないのだろう。彼女はあの一言で坂巻にそのことを伝えた。そして、「次、安楽死が認可されなかったら」という事態のことも、坂巻は容易に想像できた。


 本当に、それしか道はないのか?

 なぜ、彼女はこの世から去りたいのか?


 彼女が語らないまま、彼女の安楽死を認可することはできない。彼女が「人でありたい理由」を、坂巻は知らねばならない。

 彼女の部屋に入ったとき、ローテーブルに置いてあった、一枚の処方箋。一瞬で目に焼き付けたクリニックの名を反芻しながら、坂巻は停めている車に乗り込んだ。

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