#2

「安楽死法が施行されるまでは毎年四万人を越えていた自殺者が、施行された途端激減し、今では安楽死認定者は年間約一千人強までになった。国に譲渡された安楽死者たちの財産は、自殺防止の為の資金として使われる――」


 安楽死法が施行されて三年が経ち、坂巻は嫌と言うほどに吐いてきた台詞を改めて呟いた。

 坂巻は配属されてからこれまで、情に流されることなく淡々と志願者を一定の基準でさばいていった。仕事にリストラされたサラリーマン、余命いくばくかの主婦、モラトリアムから脱出できない大学生、恋人から暴力を受け続ける女性……。何度も何度も読んだ認可基準資料に従って、わめかれようが殴られようが泣きつかれようが、基準を満たす者には認可を、満たさない者には各支援窓口を紹介し続ける日々だった。

 そんな坂巻のことを、周りの職員が陰で「死神」と呼んでいることを彼は知っている。黒いマントの代わりにスーツを纏い、鎌の代わりに赤ペンを持った死神には違いない、と坂巻は心の隅で静かに思っていた。坂巻が書類にペンを走らせるだけで、人間の生き死にが左右できるのだから、そんなふうに囁かれるのも仕方ないとよくわかっていた。



   *



「坂巻、どうだ調子は」


 昼休みに自販機でコーヒーを買っている坂巻に声をかける人間がいた。同期の笠原だ。


 「死神」と呼ばれる坂巻なので、坂巻に声をかける職員は限られていた。同じ部署で働く事務の女性職員である平岡と課長の荒川、そして同期の笠原だった。笠原という男はなんとも社交的な男で、敵を作らないというか、作りようがないといってもいいほど誠実な人間だった。背はひょろりと高いのだが少しばかり目がたれていて人当たりもよく、たわいもない話を交わしただけで笠原の柔らかなペースに巻き込まれてしまうのだ。仕事もそこそこにこなし、妻もある笠原は、坂巻にはないものをたくさん持っていた。

 坂巻はプルタブを開けながら答える。


「今日はあと一件ある。午前中は疲れた」


 笠原は「そうか」とだけ答えて坂巻と同じ缶コーヒーを買う。坂巻の業務は特に情報漏洩に厳しいことがわかっているので、笠原もそれ以上のことを問おうとはしなかった。


「そういえば」


 笠原がコーヒーを一口飲んでから思い出したように言った。


「もうすぐ子どもが産まれるんだ。弥生が重たいおなかしてんのに、坂巻さんまた家に来てくれないかな、なんて言ってたぞ」


 笠原の妻は元々県庁に勤めていたひとつ上の姐さん女房だ。坂巻とも知己で、笠原と同じように誰にでも分け隔てなく接する女性なので、何回か笠原の家に訪問したこともあった。


「そうか、もうそんな時期か」

「ああ、予定日まであと一ヶ月くらいだ。女の子なんだけど産まれたらどっちに似てるか弥生と喧嘩になるだろうから、坂巻が見にきて決めてくれ」


 大して量の入っていない缶コーヒーを飲み干して坂巻は言う。


「いや、止しておく」

「なんで?」

「『死神』だからな」


 ハハ、と坂巻の乾いた笑いだけが響いた。笠原の顔からは笑みが消え、いつになく眉を寄せて真剣な表情を見せた。


「坂巻」

「冗談だよ。赤ん坊には嫌われる質で苦手なんだ。姉の子どもに散々泣かれたんだ」


 空き缶を自販機横のゴミ箱に投げ入れて坂巻は笠原に背を向けた。


「泣かなくなったらお姫様に会いにいくよ」


 そう言って戻って行く坂巻の背中を、笠原は缶を握り締めながら見つめていた。



   *



「坂巻さん、午後の書類です」


 平岡は茶封筒を坂巻の目の前に差し出した。礼を言って受け取ると、平岡は坂巻の机の右斜め前にある机でデスクワークを再開した。後れ毛なくまとめられたポニーテールが揺れている。決して愛想が良いとは言えない女性だが、仕事はきちんとこなすし、偏屈なわけでもなく、ただやるべきことを淡々とこなそうとするその姿勢を坂巻は気に入っていた。


「……若いな」


 茶封筒から取り出した書類に目を通す坂巻が呟いた。そこには様々な個人情報が小さな手書きの文字で書かれていた。


「女子大生、か」

「彼氏にフラれでもしたんじゃないですか?」


 パソコンから目を離すことなく手を止めることもなくそう言い放った平岡の台詞に、坂巻は思わず笑った。


「早く終わればいいんだがな、男の愚痴を聞かされるのはごめんだ」


 今度は平岡が短く笑った。死を望んでいる人間のことを話している割には不謹慎だと見られるかもしれない。でも、人の生き死にに触れすぎて、笑ってないと仕事が続けられない。その気持ちがお互いにわかる二人だった。

 予定の時間まであと三〇分。坂巻は目を瞑り、椅子の背もたれにからだを預けた。このまま椅子に溶けてしまいたい、と何度思ったことかわからない。



   *



 机をペンで叩くのは、坂巻の幼い頃からの癖だった。母親に何度も止めるよう叱られたのだが、社会人になった今でも集中すると時々出てしまうのだった。書類に何度も目を通す。とりこぼしのないように、でも入れ込みすぎないように。頭の中でもう一人の自分がそう囁く。

 乾いたノックの音に返事をすると、平岡のあとをついてくる細身の影が見えた。平岡の背後から姿を現した彼女の第一印象としては、学生時代、クラスにひとりいるかいないかくらいのマドンナっぽいな、と坂巻は思った。今時珍しく髪は染めていないようで、光り輝く黒髪が肩で波打っている。美人、と言えるほど目鼻立ちがくっきりしているわけではないが、灰汁なく整った顔をしている。


 どうぞ、と椅子を勧めると彼女は頭を下げ、何も言わず腰を下ろした。平岡がふたり分の緑茶を持ってきて退出したところで、坂巻から切り出した。


「貴方を担当させていただきます、坂巻徹太郎と申します。法律に則った適正な判断をする義務が私にはありますので、私からの質問にはなるべくはっきりと具体的に述べていただきたいと思います。あと、会話が録音されることはどうか了承願います。ではよろしくお願いします」


 坂巻がマニュアルどおりに進めると、彼女の口から「よろしくお願いします」と弱々しく漏れた。小さな、震えた声をしていたが、坂巻は気にすることなく進行した。


「ではまず、お名前をお願いします」

「……里村葎、です」


 続けて生年月日、血液型、職業、家族構成、健康状況、経済状況などありとあらゆることを坂巻は書類と照合していった。その間も彼女――里村は表情を変えることがなかった。坂巻はその表情に違和感を覚えていた。


 通常、安楽死法が適用されるかどうかに関しては、書類上で八〇パーセント決まると言っても過言ではない。経歴や経済状況、健康状況などでたいてい安楽死を望む理由を察することができるし、その時点で基準に達しているか否かがわかる場合もある。

 わからない場合でも、会話しているときの表情で多くのことを感じられる。自身の後ろめたい事情で安楽死を望んでいる人間は、たいてい青ざめて汗をかいて、目が虚ろなものだ。もう誰にも、神様にも助けてもらえない、助けてくれるのは死神しかいない、という考えが透けて見える佇まいをしていることが多い。しかし、彼女には微塵もそのような雰囲気がなかった。慎重にならなければいけない。坂巻の経験則がそう囁いた。


「里村さん。早速ではありますが、なぜ安楽死を希望されるのか、理由をお聞かせ願えますか」


 坂巻がいつもどおりメモをとろうとペンを握りながら返答を待ったが、なかなか里村は口を開こうとしなかった。それまでの質問には戸惑いながらも慎重に確実に答えてくれていたのに。彼女の微かな吐息が聞こえた。彼女は膝の上で組まれた手の甲を見つめながら、ぽつりと言った。


「殺してください」


 平岡がキーボードを叩く音が続いた。平岡は補佐として、安楽死志願者と坂巻とのやりとりを録音、記録することが義務付けられている。平岡はその骨ばった細い指で、何度「殺してください」「死にたいんです」などという言葉を打ったのだろう、と坂巻は思う。


「里村さん、私は安楽死法に基づいて貴方に安楽死を選択していただけるかどうか、という判断を行なっているだけで、実際の執行者ではありません。ですので私は貴方を殺せません」

「殺してください」


 理由を述べない志願者はよくいる。安楽死を望む理由など、通常他人に語るべき内容でないことが多いからだ。坂巻も平岡も「またか」といった感想しか持ちえなかった。


「安楽死を志願される理由をお教えいただけないのなら、こちらも判断できません。このままお帰り、もう一度お気持ち整理いただいてから再面談することもできますが、いかがなさいますか?」


 坂巻はもう何千回とつくってきた、“思いやっている顔”を里村葎へと向けた。


「……また来ます」


 里村はパイプ椅子から静かに立ち上がり、平岡が案内するよりも先にドアノブに手をかけて出ていった。平岡は後を追いかけ、面談室には坂巻一人が残った。

 「帰る」でもなく、「もういい」でもなく、「また来る」と彼女は言った。背中を椅子に預け、ため息をついてから独りごちた。


「二十歳の誕生日の翌日に面談に来るか? ふつう……」


 坂巻は里村との短いやりとりを瞼の裏で反芻した。一度も彼女と目が合わなかったことに、坂巻は気づいた。


 それから二週間後、また里村から面談の申請があったと、平岡から申し送りを受けた。宣言通り、彼女は「また来た」のだった。気になりつつも、坂巻は機械的に面談日程をスケジュールに書き込んだ。



   *



 またしても里村は坂巻の目の前で、パイプ椅子に腰をかけていた。秒針の音だけが響き、坂巻も里村も平岡もしばらく沈黙を守っている。


 今まで面談してきた安楽死志願者をみて、志願者は二種類に分けられると坂巻は考えている。「逃げるために死を望む人間」と、「本当に死を望む人間」だ。里村は明らかに後者だ。落ち着きすぎているのだ。彼女は明らかに「自分が死ぬことが当然で、むしろ生きている今の状況の方がおかしい」とでも言いたげな目をしている。こういう人間との面談は、一層神経が尖る。坂巻は声色がいつもと変わらないように気を付けながら、沈黙を破る。


「里村さん。何度も申し上げておりますが、安楽死を希望される理由をお教えいただけませんと、私どもも判断のしようがございません」


 里村はいま、何を思ってそこにいるのだろうか。うつむき、自身の膝の上で組まれた枯れ枝のような指を見つめながら。重たい前髪の隙間から覗く目に、光は映っていない。


「もう一度お尋ねしますが、安楽死を望まれる理由をお聞かせください」


 平岡が軽やかにキーボードを叩く終えると、またしても時計の音だけが空気を伝わってくる。平岡がアルミフレームの眼鏡の奥で、視線をパソコンの画面から里村の横顔に移す。その間も、彼女は動かない。

 坂巻は溜息ともいえない息を吐いた。書類の上に視線を落としてから、もう一度彼女に声をかけた。


「里村さん、今回は不認可ということで……」


 不認可を言い渡そうとした途端、部屋にパイプ椅子が倒れる音がした。里村が勢いよく立ち上がり、まっすぐに坂巻を見つめていた。坂巻の頭の中で警告音が響いた。


 平岡の短い悲鳴が聞こえた瞬間から、音が聞こえなくなった。


 里村が隠し持っていた剃刀で左手首を掻っ切った瞬間、坂巻は考えるより早く彼女の方へ手を伸ばした。里村が膝から崩れ落ちると同時に、彼女のもとへ駆け寄る。平岡に救急車を要請するように指示を出したはずだが、床にポタポタと落ちる赤い血ばかりが目についてはっきりと思い出せない。なぜか嗅覚だけは冴えわたり、気を抜くとむせてしまいそうな香りが辺りを埋め尽くした。傷口より心臓に近い二の腕をすばやく自分のネクタイで縛り上げながら、ハンカチで傷口を抑える。青いチェックの綿のハンカチは、少しずつ黒色に変わっていく。


 赤みを失っていく里村の表情は、ちっとも安らかなんかじゃなかった。

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