死神のペンは何を書く

高村 芳

#1

 入道雲が居座っていた空には、いつの間にか鱗雲がしきつめられていた。建物の二階にある面談室には窓が東側に据え付けられており、朝と昼の境目の光が差し込んでいる。窓を大きく開いて爽やかな空気でこの部屋を洗い流したい。そう思うほどに、室内の空気は重い湿りけをおびていた。針と数字だけの時計だけは、何にも左右される淡々と音を刻み続けている。


「――そういう訳でして……もう私には生きる気力も、資格もありません……」


 これまでに幾度となく耳にした言葉に、坂巻徹太郎の心は1ミリも感銘を受けなかった。皺だらけのスーツの初老の男は、光を反射しない暗い目をしてチラチラと坂巻の表情を窺っている。パイプ椅子にふくよかな身体を丸く押し込めるその姿は、自ら窮屈な箱に入り込んでいる鼠のように思えた。坂巻は男からの視線を感じながら、あくびを噛み殺すことに必死になっていた。背筋を伸ばした姿勢を崩さず、男の次の言葉をおとなしく待つ。


「だからわたくしは、『安楽死要望書』を提出したしだいです……いかがでしょうか?」


 坂巻は男が提出した書類にいま一度目をとおす。入社して以来、若くして中間管理職までのぼりつめたものの、上からの圧力と下からの突き上げに悩み、家族や会社の目から逃れつつギャンブルを繰り返した。結果、借金が数百万円にまで膨れ上がってしまい、首が回らなくなったという。よくありがちな要望書の内容だった。

 男はすがるような目で坂巻を見つめている。底が見えない沼へ落ちていく人生への絶望と、それがもう終えられるかもしれないという小さな希望、その二つを半分ずつ混ぜた、濁った絵の具の色をしている。

 坂巻は赤ペンで手元の書類に大きく斜線を引いて判子を押した。


「残念ながら、貴方は『安楽死法』の認定基準を満たしておりません。今回は安楽死認定できませんので、お困りでしたら当番弁護士を紹介させていただきます。必要であれば、お近くの心療内科も併せて紹介しますが、いかがなさいますか?」


 坂巻が淡々と説明した直後、男の顔は明らかに絶望の配分が多くなった。薄くなった頭髪をなでつけ、脂で七色に光っている眼鏡をシャツの袖で拭う。男の唇は震えていた。坂巻は貼り付けた笑顔そのままに、男の返答を待っていた。


「おおお願いします!もうわたしは死にたいんです!生きたくない!」


 男はパイプ椅子から立ち上がったかと思うと、汗が滲んだ額を床に押しつけた。男の土下座を視界に入れながら、坂巻は小さく溜め息を吐いた。男の必死の土下座も坂巻には日常茶飯事なので、坂巻は男を尻目に言葉を続ける。


「お気持ちお察しします。辛かったでしょう。しかし、安楽死は法律で認定基準が定められておりますので、貴方には生きる『義務』がございます。ご安心ください。私どもが全力でサポート致します」

「お願いします……お願いしますう……もう妻にも娘にも苦労させたくないんですお願いしますう……」


 坂巻は椅子から立ち上がり、嗚咽をもらしながらもまだ土下座を続ける男の前でしゃがみ込んだ。瞬間、男は坂巻のスラックスを掴み、壊れたオモチャのように「お願いします」とつぶやき続けた。坂巻が男の肩を叩くと、男は涙に濡れた顔を跳ね上げた。一瞬、希望の光を含んでいたその目は、一転、深い暗闇に包まれた。


「すみませんが、ここにサインをお願いします」


 坂巻は微笑みを絶やすことなく、男の鼻の先に「安楽死不認定」の判子が押された書類とボールペンを差し出していた。



   *



 坂巻徹太郎の肩書きはいわゆる、“ただの一県庁職員”だ。幼い頃から要領のよかった坂巻は、周りの期待にほどほどにこたえつつ、水草が川の流れに従ってゆれるようにのらりくらりと生きてきた。学生時代、それほど目立つ行動はなかった。宿題はすべて提出し、テストは七割をキープし続ける。将来の夢はと聞かれると、「サッカー選手だ」と答えていた。大人たちは将来が楽しみね、と子どもも坂巻を微笑ましく見ている。無論、坂巻は物心ついたときからスポーツ選手になりたいと思ったことは一度たりともなかった。大人が喜ぶ答えを返していただけの、賢しい子どもだったと、坂巻自身、自覚していた。土に根をはる力を持っているが、地表に流れる水に逆らうことのない生活が、坂巻にとって当然のことであり、彼のひとつの生き方であった。

 エスタレーターで大学に進み、親に言われるまま公務員となった。親の言いなりになったわけではなく、それがいちばん自分の生き方を全うできると考えたからだった。就職後、何年かして女性と結婚して家庭を築く、そんな堅実な生活が送れればいいと思っていた。

 坂巻に突然辞令が出たのは、彼が二八歳、社会人になって六年目に突入する春のことである。


 直属の上司であった荒川に個別に呼び出された坂巻は、当時なぜ呼び出されたかまったくわからなかった。取り立ててミスもしていないし、仕事をしていないわけでもない。そつなく仕事をこなしているつもりだった。

 応接室では、恰幅のよい荒川がいつになく身体を強ばらせてソファに腰掛けていた。太い枝のような両手指を顔の前で組みながら落ち着かない様子の荒川に、坂巻は率直に問いかけた。


「荒川課長、御用件は何でしょうか」

「……坂巻くんは『安楽死法』がもうすぐ施行されることをもちろん知っているね?」


 その荒川の言葉に坂巻は表情を強ばらせた。知っているも何も、その話題を知らないのは赤子くらいのものだろう。小学校でさえ話題にあがるその法律は、ここ最近のニュースでは真っ先にとりあげられている。


「存じております。自殺や自殺幇助問題が深刻な昨今、自殺者数を減らすために作られた法律ですね」


 海の向こうの経済対策の失敗が、日本の海岸を浸食しつつあった。雇用率がじわじわと降下を見せており、それに対して政府は決定的な施策を打てず、政権交代をかけた選挙に尽力している有様だ。経済の悪化と反比例するかのように、自殺者数は近年増加の一途を辿っている。感情的な政府は国民の不安感を抑えようと、先に自殺者数の減少を目的として「安楽死法」を施行することとなった。


「ある一定の基準を満たす自殺志願者には国から認可が下りしだい、保有財産を国に譲渡して合法的に安楽死を認めるもの、ですよね。自殺防止が第一の目的なので、基準を満たさない者にたいしては安楽死を認めないぶん、国が税金でメンタル面のサポート行うとか。まあ、国家がお金ほしさに安楽死を増やすという噂がたっても何ら不思議じゃないと思いますが」


 公務員だとは思えない意見も交えつつ、テレビのニュースや新聞で得た知識を要約して坂巻は表情ひとつ変えず述べる。坂巻の毒を含んだ口調に慣れている荒川は、元々細い目をさらに細めて熱い緑茶の入った湯呑みに口をつけた。


「そこまで知っているんなら話は早い。君に辞令が出た。安楽死法施行によって新しく県庁に設置される部署に異動してもらう」


 荒川はスーツの胸ポケットから一枚の紙を机の上に差し出した。坂巻はそれを確認することなく尋ねた。


「新しい部署での業務内容はどのようなものなのでしょうか」


 荒川は少し黙り込んで、ハンカチで額を拭った。


「安楽死志願者と面談を行い、認可基準を満たしているか調査する仕事だ。しかしまだ配属決定、というわけじゃない。まず候補者本人の意向を確認し、合意した者は国の指定する精神鑑定や思想鑑定を受けることになる。それらの鑑定結果を経て問題ないと判断された者が最終的にその部署に配属されるということらしい」


 これだけ重大で倫理観や道徳観を覆されてしまうような仕事をしなければならないのだから、至極当然のことだろう。自分の身にふりかかっている事実なのに、妙に冷静な自分がいることに坂巻自身驚いていた。膝の上に置いた握り拳に滲む汗は恐怖のせいなのか、興奮のせいなのか。坂巻はためらうことなく、机に置かれていた白い紙に手を伸ばした。紙には「異動に関する意向調査」と書かれており、坂巻の名前が印刷されていた。



 坂巻に正式に鑑定結果及び配属決定通知が届いたのは、それから間もなくのことだ。通常は一都道府県庁に二、三人はその仕事に就くらしいが、坂巻の県庁では坂巻が唯一だった。あとは女性職員がひとり配属されたが、彼女は補助として事務作業担当だった。風の噂によればあと二人、候補者として声をかけられていたが、異動を拒否し、もうひとりは鑑定で引っかかったらしい。坂巻にはあまり関心のないことで、むしろ関わらなければならない人間が少なくなって楽だ、と思っていた。県庁での面談業務運用開始まで、あと一カ月をきった頃のことだった。

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