珈琲は月の下で No.1

久浩香

『恋の季節』から『琥珀色の情景』へ

 初めて私を見た男は、先ず、息を呑む。

 それから、喉仏を転がして、生唾を何度も飲み下す。

 カラカラに乾いた喉に、アルコールを一口。


 その先は、人それぞれ。


 今日、私を見た彼は、わざと顔を背け、

(お前には、興味は無い)

 とでも、言いたげ。

 自分に自信があるのね。

 素知らぬ振りを決め込んでいれば、私が興味を持つと思ってるんでしょ?

 冷たい態度で傷つけて、しょんぼりさせてから口説く。

 ニヒルぶった姑息な手になんか、引っ掛からないわよ。

 目を細めたら気づかれない。とでも思ってるの?

 どうせなら、ちゃんと視線も外してよ。

 ふん。

 ほんとに私に興味が無いなら、他のカウンターに行けばいいのよ。

 あんたなんかより、素直な坊やの方が、いくらも好感が持てるわ。


 ■


 観光都市を見下ろす丘の上には、完全会員制のホテル『GLOLY』が建ち、その中庭にある四階建ての遊技棟の中にある秘密クラブは『LADY-DOLL』と呼ばれていた。

 『LADY-DOLL』に出入りできるのは、政財界と何某かの関わりがある5人以上の推薦人のいる億万長者の会員の中でも、独身である事が条件につく、所謂“御曹司”という奴で、遊戯棟の中のホステスは同じく、所謂“絶世の美女”という人種であった。

 ホステス──DOLLは、彼女達に割り当てられた部屋に、透明の踏み板でできたダイナソーボーンの螺旋階段を降りてくる。そこは、一人につき四方をカウンターで囲われた6畳程の空間の中で、間仕切りのカウンター越しの対面には、一方につき3つの個室が設けられており、12人で満員の会員の前に、ベビードールやキャミソールといったランジェリー姿を晒す事が、彼女達の仕事である。

 DOLL達は接客はしない。会員達は先ず、元々はDOLLでありながら、契約違反や規則違反を犯して負債を負い、DOLLとしての価値もなくなり、ありきたりな娼婦に堕ちたバーテンダーを指名する。指名されたバーテンダーは、会員と共に個室に入り、DOLLに代わって会員に飲み物と、時には身体を提供する。

 しかし、あくまでバーテンダーは保険に過ぎず、会員のお目当てはDOLLである。会員達は、横にいるであろう個室の主に、自分がいる事が悟られぬ様に、DOLLを口説く。だが、その誘惑に乗らぬ自由がDOLLにはあった。誰と話し、誰のフェアリー(会員の宿泊するホテルの部屋へ泊るDOLL)になるかはDOLL次第。選択権はDOLLの側にあった。

 そんな人工の高嶺の花を口説き落とすのが、会員の愉しみであり、会員の親世代からしてみれば、そういう相手で免疫をつけさせ、後々、後くされのある女の誘惑に引っ掛からないようにする為の、インフルエンザの予防接種のような役割もあった。


 ■


 ノーマが恋をしたのは、18歳の時だった。

 その男性とは、ボランティアで知り合いった。

 背が高く、栗色の髪のハンサムな大人な彼は、ムードメーカーから、すぐにグループのリーダー的な存在となり、テキパキと采配を振るう彼に、ノーマの胸は高鳴り、それが“恋”だと気づくのに、そう時間はかからなかった。


 ノーマの両親は信心深く、保守的で、ノーマには教師になる事を求め、結婚相手には、同じ教会に通う、どこそこのだれそれがいい。などと、ノーマの意見には、一切聞く耳を持たなかった。それというのも、彼女が美人すぎる事が原因であった。

 両親は、自分達がきちんと管理しなければ、娘は、とんでもなく不埒な悪魔と契約するだろう。と、本気で考えていた。


 両親が、ノーマを籠の鳥として飼う事ができる程度に裕福で、童貞をこじらせた中年の男を、ノーマの夫にする事に決めた頃、ノーマは両親の目を盗んで抜け出し、彼との初めてのデートで水族館を訪れた。

 ノーマが、誰にも打ち明けていない『女優になりたい』という夢を彼に話すと、

「そうだね。でも、ノーマほど綺麗な子が、スクリーンに映し出されたら、皆、ノーマに恋をして、僕は心配で眠れなくなってしまうよ。今の内に言っておこうか。僕の睡眠時間を返せ!」

 ノーマは、幸せだった。


 水族館を出た二人は、そのまま海へ向かった。

 誰もいない砂浜で、ノーマは裸足になってはしゃいだ。

 その姿を母親に目撃されたら、「はしたない」と言って、ピシャリと手の甲を叩かれただろう。

 気づいた時には、門限の時間が差し迫っていた。

 今から帰っても、怒られるのは目に見えている。

 否、怒られるのが怖いのではない。この門限破りを理由に、更なる雁字搦めの生活を強要されるのが、目に見えていたのだ。

「帰りたくない」

 ノーマはポツリと呟いた。

 彼は、水平線に沈む夕日を見ながら、

「夜明けの珈琲を二人で飲まないか?」

 と、言った。

 彼が、照れ臭そうに言った台詞の意味が解らない年齢では無かった。ノーマは、こくりと頷いたまま、おずおずと彼のシャツを摘まんだ。


 泊まったヴィラは、カントリー調で、こじんまりとしていた。家族旅行さえ、まともにした事がなかったノーマは、そこが普通のホテルだと思っていたが、そこにいる使用人達は、ヴィラの宿泊客をもてなす為だけに存在していた。


 室内から中庭へ、中庭からプライベートビーチへ。そして海へ。

 愛し合う場所に際限は無かった。

 服を着る事さえ億劫で、メイドが食事が運んでくる時には、キルトのシーツが、彼女のドレスとなった。


 喘ぎ疲れ、忘我と失神を繰り返し、ヴィラの敷地内から出る事の無かったノーマと違い、彼は、度々、外出していた。

 初めて彼のいないベッドで正気を取り戻したノーマは動揺し、ドアから入ってきた彼に、しがみついて泣いた。

 泣き続けるノーマを抱きしめた彼は、髪を撫で、キスで宥めながら、

「君を一人にする事は無いよ。安心してお逝き」

 と、彼女をエクスタシーの彼方へといざなった。


『女優になりたい』

 そんな夢さえ、薄ぼんやりとしか思い出せなくなった頃、ノーマは、ようやくヴィラを出た。

「君の両親は、ようやく君を諦めたようだ。失踪届けは取り下げられたそうだよ。君が二十歳になるまでは、粘るかと思ったが、案外、早く、片が付いた」

 そうして連れて行かれたのが、ヴィラから山一つを超えた場所にある観光都市であった。煌びやかな街中を抜け、『GLOLY』の建つ丘の麓にある、街には不似合いな場所へ辿り着いた。外観は、いかにも寂れたホテルを装った建物であったが、実のところ、それはフェイクであり、その建物を塀とした、立派な豪邸が建っていた。

「おいで」

 おのぼりさんよろしく、天井を見上げ、ぽかんとしていたノーマだったが、彼に呼ばれた後は、もう、彼の背中だけを見つめ続けた。


 秘書とみられる女性が先導し、通された部屋はこの家の応接室であった。アンティークな応接セットの二人掛けのソファに並んで座り、緊張して震えるノーマを横目にしながら、

「大丈夫だよ。リラックスしなよ」

 と、秘書が主人を呼びに消えたのを良い事に、彼女の頬にキスをして、耳朶を甘噛みした。スイッチを押されたノーマが、その後に続く快楽の記憶でられた導火線がぜて、揃えた膝を開きかけた時、奥のドアが開き、グレーのドレスを着た、いかにも上品そうな初老の女性が入ってきた。

 彼女は、ノーマの上気した横顔を一瞥し、

「お待たせしたようね。でも、ここでは勘弁して頂戴」

 と、そうしようとしていた事に関しては、別段、気にする風も無く、優雅に一人掛けのソファに座った。

 ノーマは、羞恥に俯き恐縮していたが、支配人は、そっと彼女の頬に触れて、顔を上げさせると、柔らかな笑みを零し、

「まぁ。なんて綺麗な…。写真以上だわ。素晴らしいわ…そう、芸術ね」

 と、ノーマの美貌を丹念に観察しながら称えると、彼に視線を移し、

「幾つ?」

 と、聞いた。

「はい。19歳です」

 それを聞いた支配人は、微かに眉を顰め、ノーマ添えた頬から指を離し、思案した。

「ですが、もう二ヶ月もすれば、二十歳になります。ですから、どうか…」

 支配人は、仕方ない。と、言わんばかりに溜息をつき、秘書の携えたお盆の上に乗った用紙とペンを手に取った。

「いいわ。これほどまでに美しい子が娘になるのなら、それも、仕方ないわね」

 と、ノーマの前にその用紙をすいっと置いた。

「ノーマと言ったわね。これに署名サインして頂けるかしら?」

 それは、契約書であったが、アンティークな書体で書かれていた。読みにくい文字に前かがみになったノーマだったが、彼は、ノーマのウエストに手を回して指先で愛撫しながら、右手の甲にキスをし、

「さぁ。ペンを握って」

 と、優しく誘導した。ノーマは、思考を放棄し、彼の言うがままに署名した。彼が、息を荒く弾ませる彼女に口づけをしている間に、支配人は、署名済みの契約書とペンをお盆の上に戻し、何事かを秘書に指示していたが、彼の舌に翻弄されるノーマの耳には届かなかった。

 パンッ。

 支配人が両手を打った。

「さっ。もういいわ」

 支配人の拍手が合図であったように、彼は、ノーマを抱く腕を緩め、唇を離すと、彼女から移った口紅を拭った。

「サミュエル。貴方も悪い人ね。こんな綺麗なお嬢さんを誑かして」

 言葉とは裏腹に、満面の笑みを浮かべる支配人に対し、彼──サミュエルは、悪びれた様子もなく、

「運が良かったんですよ、マダム。…そんな事より」

「解ってるわ。ちゃんと手筈は整えてあるし、この件で、貴方が被るペナルテイも一切無いわ」

 ノーマは、火照った身体を突き放され、サミュエルとマダムの会話についていけぬまま、ただ、呆然としていた。

「ねぇ。サミュエル。貴方…これからも、こうするつもりは、無い? そうしてくれれば、社交界でも顔が利くようになるわよ」

「………申し訳ありませんが、マダム。本当に、今回は、運が良かっただけなんです。神様が、私とイヴリンの為に、ノーマを遣わせてくれたんですよ」

 ノーマは、ピクリと身体を震わせた。女の直感など使わずとも、サミュエルが自分よりも、イヴリンという女性に想いを寄せている事は、直ぐに解った。それでも、彼女は、それを認めなかった。

 すげなく振られ、マダムは、小さな息を吐く。

「変わってますね。どう贔屓目に見ても、イヴリンよりノーマの方が、ずっと綺麗だわ」

 マダムは、ノーマに流し目を送る。その目は蛇を思わせた。

「そうですね。…ですが、人には好みというものあるんです。ノーマは綺麗きれすぎるんですよ。それでいて、安っぽい。ちぐはぐしていて、居心地が悪い。…まして、最初からそのつもりで近づいたんです。愉しめるわけがない」

 ドアが勢いよく開き、ブラウスにフレアスカートを履いた、ブロンドにピンクの口紅が良く似合う美女が入ってきた。

「サミュエル!」

「イヴリン♡」

 サミュエルは、まるでそこにノーマがいないかの様に、すくと立ち上がり、イヴリンへと向かった。

「本当に来てくれたのね。嬉しい」

「ああ。イヴリン。逢いたかった♡。これからは、ずっと一緒だ♡」

 見比べた限りでは、ノーマの方が年上に見えた。ストレートのプラチナブロンドにアーモンド型ブルーアイの、端正な顔立ちをした正統派綺麗系の美人であるノーマに対し、イヴリンは、ふわふわした天然パーマの可愛い系の美人であった。

 ノーマは、自分の前を通り過ぎるサミュエルを瞳で捕え続け、抱擁し合う二人の姿を、ソファに座ったまま、後ろを振り返って凝視した。

「ノーマ」

 サミュエルは、イヴリンを抱きしめたまま、彼女の名を呼んだ。

「ごめんね。でも、嘘をついて君を騙した事は一度も無いよ。君が泣きじゃくっていたあの日。『君を一人にする事は無い』って言ったよね。あれだって、嘘じゃない。これからは、僕以外の誰かが、ずっと君の傍にいてくれるよ」

 そう言うと、サミュエルとイヴリンは、マダムに別れの挨拶をして、部屋を後にした。

 ノーマは、凍り付いていた。

 5分も経った頃、一向に動かないノーマに業を煮やしたマダムが、呆れたように口を開いた。

「まだ、事態が把握できないの? ノーマ。貴方はサミュエルに捨て…売られたのよ。彼はね、さっきの…イヴリンとの一夜で、すっかり虜になってしまったの。だけど、それまでの放蕩のつけ…とでも言うのかしら? 彼の御父様は、あの子の散財で支払いに窮するようになっていたの。だから彼は、正規の手続きをしないで、彼女と逃げだしたの」

「いやぁぁぁぁああああああっっ!!!」

「もちろん。逃げ切れるわけなんてなかったのだけど…あの子ったら、『代わりの女を用意するから、イヴリンを店に出さないで欲しい。女とイヴリンを交換してほしい』って、交渉してきたの。だから、3年の猶予をあげたのだけど…まさか、本当に、極上のDOLLを連れて来るなんて、思いもしなかったわ」

 マダムの言葉を遮って、ノーマは叫び声を上げた。マダムは、ノーマを気の毒だとは思いつつも、耳をつんざく声に「五月蠅い」と言わんがばかりに顔を顰め、サミュエルの事情を語り続けた。

 ノーマはソファの座面に縋りつくように、泣きじゃくり、サミュエルの名前を呼び続けた。

「DOLLとなる研修は、貴方が二十歳になったら始めるわ。DOLLの規約として、研修は二十歳から、実際にDOLLになるのは、21歳からと決まっているの。後二ヶ月で、自分の立場と折り合いをつけなさい」


 サミュエルが得た、『LADY-DOLL』にノーラを売った対価にして、ノーラが負った負債。それは、既に支払いがなされている金額も含めた、それまでのサミュエルの遊戯代。サミュエルとイヴリンの駆け落ち未遂という規約違反に対する罰金。駆け落ち未遂当日から今日までのイヴリンの仕事放棄に対する契約違反の罰金と生活費。それから、応接室のアンティークソファのクリーニング代であった。


 ■


 1年間とはいえ、淑女としての教育も受けたDOLL達は、彼等にはどうしようもない政略結婚などの縛りが無く、彼等の母親の理解さえあれば、会員達の羨望の眼差しの元、充分に、花嫁候補に名を連ねられる存在であった。ランジェリー姿を晒すといっても、それは、カウンター越しであり、DOLLの花を隠す草原も、二つの山の頂も覗く事はできなかった。

 それを暴く事は、DOLLに選ばれた者だけに与えられた特権であった。


わたくしは、未来を担う会員の皆様の御子息が、くだらない女性に捕まって蝕まれるのも嫌ですけれど、出会えさえすれば、その美貌に相応しい、相応の地位のある、素晴らしい男性との未来を築く事ができた筈の美しい女性が、貧相な生活を強いる事しかできない男の物になるのも嫌なのです。ですから、DOLLとなった女性には、沢山の男性方と会話をして、目を肥やし、彼女達が、本当に好ましいと思う男性としか、愛し合わないように。と、伝えています。ですが、貴方は、ヴァージンでも無いですし、背負う負債額も、あまりに高額すぎます。ですから、言い方は嫌ですが、フェアリーとして稼ぐ事も視野に入れなければ、とても賄えないかもしれませんね」


 DOLLとしての一歩を踏み出す直前に、ノーラは、マダムからそう忠告を受けた。


『LADY-DOLL』では、ヴァージンのDOLLには白の、アンチのDOLLには黒のパンティーとヒールを履かせていた。アンチはつまり『売約済み』となり、それまで口説いてきた会員達への最後の挨拶──見納め的な意味合いがあった。

 アンチでいながら、DOLLとしてスペースの中に居続ける事を選んだ女は、ごく僅かなワンチャンに賭け、蔦生い茂る森の中の沼の如きバーテンダーへの道へと分け入る選択でもあった。アンチのDOLLの個室に入るのは、遊び目的の会員が殆どであったからだ。


 ノーラはフェアリーにはならなかった。会員達は、賤しい願望を胸に、個室に入ったが、ブルーのベビーピンクを着たノーラの美貌に平伏した。彼女の個室には、押し寄せる会員を捌く為、前代未聞の1時間の時間制限が設けられた。

 かつてのサミュエルがそうであったように、マダムの意に反し、甘いマスクと、それぞれが携えるジョーカー+αの魅力を武器に、DOLL狩りを楽しんでいた海千山千のアンチ製造機達は、軒並み玉砕し、イタリア系マフィアの首領ドンの孫息子が、媚びを売るわけでも、微笑みを浮かべるでもない彼女に、

「サンタ・マリア」

 と、体面も無く、自分の傲慢を懺悔した逸話は、社交界では密かな語り草となった。

 フェアリーとなり、会員から支払われる別途のチップで稼がなければ、到底、支払えないだろうと思われていた彼女の負債は、25歳の誕生日を迎える前に完済された。


 マダムは、世界を牛耳る“十大老”と呼ばれるホテルの管理者達と協議し、ノーラを『LADY-DOLL』の後継者に指名した。彼女を縛る理由は消えたものの、彼女に目をつけたのは世界であった。誰のものにもならなかった彼女が、無防備に下界へ降り立てば、『LADY-DOLL』の規約の元で均衡が保たれていた枷が外れ、一小娘に過ぎぬ彼女には、不埒な危険が及んだであろうし、過激な信奉者達によるノーラ争奪戦から、戦争の火種となる危険性さえ孕んでいたからだ。

 名ばかりともいえる支配人となったノーラは、ホテルで行われるパーティーに、麗しいイヴニングドレス姿を披露する為に出席し、そこには、ホテルにさえ足を遠退かせた理由を知らぬ、他の会員によって引き摺って来られたにサミュエルが、出席する事もあったが、二人は、何の言葉も交わさなかった。


 還暦を過ぎたノーラは、月に一度のホテル慰問を条件に、ようやくホテルを後にした。

 彼女が終の棲家として選んだのは、ヴィラであった。


 ノーラとて、一度も揺らめかないわけではなかった。幾度か心がざわつき、肉体の飢えを覚える事もあった。しかし、熱く請う若者の瞳に崩れ、彼等の部屋のキーを握りしめる度、イヴリンを抱くサミュエルが嘲笑した。


 ある日の新聞に、後年、慈善事業に私財を投じ続け、未成年女性救済の活動団体へ全財産を寄付する事を遺言したサミュエル死亡の記事が載っていた。

 若いメイドは、お喋りであった。ダイニングの椅子に座り、新聞に目を通していると、ノーマの前にスープ皿を置いた後、それを覗き込んだ彼女は、

「あっ! 私、この人の講演会を見に行った事、あるんです。とってもダンディーな小父様オジサマだったんですよぉ。ほら、私って老け専じゃないですか。言ってる事はよく解らなかったんですけど、声もすっごく渋くって、痺れちゃいました。私、この人の奥様が羨ましいなって思ってたんですけど、司会者も同じ事を思ってたみたいで、そんな事を言ったら…なんと! 独身だったんです。婚約した女性はいたそうなんですけど、別れちゃったんですって。……ショック。死んじゃったんですねぇ」

 と、表情豊かにペラペラと喋った。


「ねぇ。マルグリット」

 ノーマは、新聞を畳んでテーブルに置き、メイドを見上げた。

「はい。なんでしょう? マダム」

 お盆を抱えたメイドは、屈託なく笑う。

「食後の珈琲は、中庭で飲みたいわ。運んでくれるかしら? あ、ブラックでお願いね」

 メイドは、クエスチョンマークを浮かべながら、

「は~い」

 と、軽く返事をした。


 食事を終えたノーマは、天上に浮かぶ月を見上げながら、寝室から中庭にゆっくりと出てきた。散り落ちた枯れ葉を踏みしめながら、ノーマがロッキングチェアの笠木に手をかけると、サイドテーブルの前で、スタンバっていたメイドは、布巾を外してソーサーをテーブルに置き、サーバーからカップの中に珈琲を注ぎ入れた。

「もう、遅いですよマダム。冷めちゃうじゃないですか。…でも、珍しいですよねぇ。マダムはいつもカフェオレなのに。それが、珈琲を飲みたいなんて、どんな心境の変化なんですか?」

 ずけずけと思った事を口にするメイドに、ノーマは柔らかく微笑んだ。

「ふふっ…いいから。…ごめんなさいね。一人にしてもらってもいいかしら?」

 疑問が解消されぬまま命じられ、メイドは後ろ髪をひかれながらもカートを押して、裏口を通ってヴィラの中へと入っていった。


 ノーマは、目の前に広がる砂浜と海を眺めた。

「…それでも、迎えに来てはくれなかったのね………馬鹿、ね。私」


 初めての朝。建物越しに陽光の降り注ぐこの中庭には、二脚の椅子とテーブルがあった。シーツで身を包んで座るノーマの前に、青いシャツを羽織ったサミュエルが、トレーに乗せて運んできた珈琲を置いた。

「どうぞ」

 と言われ、一口飲み込み、苦さに顔を顰めた。

「ごめん。砂糖シュガーがいったね……そうだ」

 その時と同じように、今も静かに波はさざなむ。


 珈琲の水面に月は映り、やがて歪んだ。



 The End.



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 後書


 自主企画

 主催者:香鳴裕人 様

[第2期] 同題異話SR -Oct.- 『珈琲は月の下で』


 参加用書下ろし作品です。



 書いていると、マリリン・モンローの『七年目の浮気』のあの場面が浮かんできた。何故だろう。


 途中で、

(あれ? 『マダム』じゃなくって『ミズ』もしくは『ミセス』じゃないか?)

 と、思ったけれど、それだと、苗字も考えなきゃ不細工だと思い、マダムのままで。


しかし…自分で書いててなんだが、どれだけ別嬪やねん。

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