終雪の墓標

青島もうじき

終雪の墓標

 ぱきん、と鋭い音が響いて、テムダは表情を曇らせた。振り返って少し目を凝らすと、案の定シューダはその場で丸く蹲っている。頭の中で咄嗟に薬箱に入っているヨモギの枚数を数えた。不測の事態のことを思えば心許なくはあるが、ペースとしては問題のない程度だ。

 テムダは溜め息をつくとともに雪に深く刺さった足を引き抜き、ざくざくと音を鳴らしながら元来た道を辿る。自らの足跡だけが刻まれた滑らかな雪原には、見渡す限りテムダとシューダ以外の生物はいなかった。

「いたた……。なんかこぼれしちゃったみたい」

 シューダの吐く息が白く漂って消える。この世界では、温かいものも冷たいものも同じ色をしている。テムダたちの歩くこの道を構成するのは黒と白、それから天の北極に鎮座する赤色超巨星の赤だけだ。二人だけでルッカリーを出てどれくらいになるのだろう。角度にして80度。生きている植物の緑がどんな色だったかを思い出せなくなって久しい。

「ほら、シート敷くから早くブーツ脱いで」

 テムダがそう促すと、シューダは照れ臭そうに笑いながら器用に片足立ちになってブーツを脱いだ。何重にも重ねたことでもこもこと膨れ上がった靴下も銀色の断熱シートの上に脱ぎ捨てて、素足をさらけ出す。久しぶりに見る顔以外の素肌だった。

「……そんなに出血はなさそうだね」

 これならばヨモギは節約できそうだ。ルッカリーに一台だけのフリーズドライ装置はさすがに持ち出せなかった。移動生活においては軽く、保存が効くことはなによりも重要だ。単純に凍らせただけでは薬効の薄れてしまう薬草だって、真空凍結乾燥させることで長期の持ち運びにも耐えうる状態になる。

 そんな機械を持ち出さなかったのにも、もちろん理由がある。第一に、装置が大掛かりでとても二人だけで持ち運ぶのにコストが見合わないこと。普段はルッカリーの力自慢が移動させているような装置だ。重すぎて二人だけで運ぶのは割に合わない。第二に、夜の世界にはフリーズドライで保存するに値するようなものは存在しないと考えたこと。夜の世界のことは大人から科学の理屈を交えて説明されていた。曰く、光が当たらないからあまりに寒く、植物の一つも生えていないのだとか。そしてその理屈が正しかったことは、今ならばわかる。

 そして第三の理由。これが一番大きい。移動生活に欠かせない装置を持ち出せば、私たちは必ず探し出される。ルッカリーにおいて、少女二人の価値は一つの装置よりも軽い。だから、確実に家出を果たすために二人は必要最低限の物だけをくすねてルッカリーを出た。それは薬箱であり、大量の衣服であり、銀色の断熱シートであった。

 一通りの治療を終えたテムダは手早くシューダに靴下を履かせた。くすぐったそうに無邪気に笑う声が頭の上から降ってくる。こっちは肉食の獣が私たちの声を聞きつけやしないかと気を尖らせてやってるのに。ひゃっひゃと笑う声がなんだか腹立たしく思えて、歯の刺さったであろう辺りを指で弾いてやった。「ひゃっ」と縮こまったシューダの膝を見て、テムダは留飲を下げる。

「ああ、スパイクの方は完全に根元から折れてるね。破片を探すのも難しいだろうし、しばらくは土踏まずの辺りの歯と交換してなんとか誤魔化そうか」

「はーい」

 ブーツの中から、テムダは歯を摘まみ上げる。これはルッカリーを出て10度くらいの位置で仕留めたシロギツネの犬歯だ。あの辺りはまだ比較的暖かかった。犬歯は雪原を滑らずに歩くためのスパイクとして使っていたけれど、すでにあれから70度歩いている。経年劣化だったのかもしれない。雪の中で保護色になるようにと進化してきたらしい、星明りを弾いて真っ白に輝く象牙質を、私は手早くブーツの中で移し替える。

「ほら、行くよ」

 履かせてやったブーツを挟み込むようにぱん、と叩くと、シューダは嬉しそうに足を踏み出した。歯の折れた破裂音は音を吸収する雪の中でもよく響いた。ほとんど生き物に出くわすことはないとはいえ、いつ肉食の生き物がやってきてもおかしくない。

 歯の折れたスパイクブーツでは歩きにくいだろう。そう考えてテムダは手を差し出した。無言でその手を掴んだシューダは、くしゅんと大きなくしゃみをしたのち、空を見上げる。その視線の先を追うと、空には赤色超巨星。二人の目指すべき方角は、いつもあの赤い星が教えてくれる。

 歩くたびに、シューダの欠けた薬指の先が、がさりとテムダの手のひらを擦り上げる。20度ほど前に転倒してついた傷から菌が入り込み、しばらくして壊死してしまったものだ。明るく振舞っているが、シューダはだんだんと弱ってきている。

 ルッカリーを出たころよりもずいぶんと低くなったその体温を左手に感じながら、テムダはざくざくと雪を踏み固め歩く。


 二人は、シューダの死んだ双子の姉を殺しにいくための旅を続けていた。


   ***


 かつてこの星は、もっと速く回っていたらしい。こちらから追いかけるまでもなく、目まぐるしく昼と夜が襲い掛かり、その天行によって細かく生活にリズムがつけられていたのだとか。テムダやシューダが誕生碑を迎えるまでの時間で以前のこの星は36周公転していた上に、自転なる現象まで存在していた。ルッカリーにはそう伝わっている。

 どうして昔と今とで変わってしまったのか、納得のできるような物語は伝わっていない。移動生活において重さは罪だ。日誌などの重要な書物を除いて、ルッカリーに本は保存されていない。

 テムダは、小さいころから天測が得意だった。移動民族の単位であるルッカリーにおいて、測量は生活の要となる。遥か昔からルッカリーで代々引き継がれてきた六分儀を片手に星を知り、その軌道を知り、翻って自らの現在地を知る。そんな天測のセンスにおいて、テムダはルッカリーの子らの中でも飛びぬけて優れていた。

 だから、テムダは自転が存在すると一体なにが起こるか知っていた。あまりに速く自転が起こると、朝と夜がなにもせずとも勝手に入れ替わっていく現象が起こるのだ。昼や夜の恐ろしさを小さいころから教え込まれてきたテムダは安堵する。公転が遅くてよかった。自転が存在しなくてよかった。と。

 自転が存在せず、公転の緩やかな現在のこの星では、惑星全体が二分されることになる。すなわち、光の当たっている昼の世界と、光の当たっていない夜の世界。その二つの世界は、ゆっくりと時間をかけて公転することによって徐々に入れ替わっていく。テムダたちが生まれてから人生の折り返し地点に入るくらいの時間をかけて、この星は恒星の周りをぐるりと回る。

 ルッカリーはその昼から夜になるちょうど間、夕暮れの世界と呼ばれる時間帯で常に生活している。昼の世界は常に光が当たるせいで生物が生存できないくらいに暑く、夜の世界は反対に光が当たらないため極寒の地獄と化す。夜明けの世界は、少し前まで極寒であったため植物が生えておらず、移動生活のよきパートナーである家畜を放牧するのに向いていない。だからルッカリーは夕暮れに住み着き、半生をかけてぐるりとこの星を一周歩くのだ。

 テムダもシューダも、ルッカリーで生まれた。テムダはシューダよりも惑星一周を360度としたとき、20度近く早く生まれている。20度というのは三語文を話すことができるようになる程度の発達具合であり、当然シューダが産まれたころ、テムダは物心がついていなかった。

 だから、シューダから聞かされるまでテムダはシューダの双子の姉の存在を知ることがなかった。

 その寿命を鑑みると、この星を二周する者は稀だ。だから必然的に、地上を一周することはすなわち人生の折り返し地点を過ぎることを意味する。この星を一周して初めて、ルッカリーでは一人前の人間として認められることになる。結婚が公に認められ、自らの家庭を持つことが認められ、族長を選ぶ会合にも顔を出すことが許される。ようやく、大人になれるのだ。

 そのため、惑星表面をひとなぞりし、元の位置、産まれた位置に戻ってきたことを示すが必要となる。そのために建てられるのが誕生碑だ。子の産まれたベッドの枕元に、成人した人間ほどの大きさの石を立て、それを誕生の証とする。いつかその地に帰ってきた子が見つけやすいようにと、精一杯見つけやすいような特徴のある石を選ぶ。

 誕生碑には、もう一つ重要な風習がある。記念品である。誕生碑の下には小さな箱が埋められ、その中には親が「大切である」と考えた、子に対する贈り物を一つ入れることになっている。

 例えば、貨幣。例えば、産まれたときに子をくるんだ毛布、例えば、産まれたての子を囲んだ家族写真。そういった種類の、贈り物がなされるのだ。家庭を持てるのは一周以降。惑星を二周する者はほぼいない。つまり、子が誕生碑を迎えるころには、親はもうこの世界にいないのだ。

 そんな記念品としてシューダの母親が選んだのが、シューダの双子の姉であった。

 彼女は死産だった。


   ***


「一緒に、時間を遡ってみない?」

 メソMesogleaの大きな傘の下で、シューダはテムダに問いかけた。当時、シューダは産まれて130度、テムダは150度であった。

 メソは移動家屋における屋根を担う部分であり、ルッカリーでの生活周期に深く根差した建材だ。というかつて存在したと伝わる生物にあったとされる含水率の高い傘状の構造に見立てたのがその名前の由来なのだという。吸水性の高分子化合物を主成分とするメソは、水を与えると膨らみ、乾燥すると縮む。そのため、屋根に使用することによって「乾燥したころに空が見える」という一種のタイマー的な役割を果たしていた。夜の空気が色濃くなってきたころ、ルッカリーはまた夕暮れを目指して移動を開始する。乾燥したメソは軽い。移動した先で水を与えて膨らませるまで、メソは屋根であるにもかかわらず子供一人でも持ち運べるくらいのシロモノになる。

 そのメソの隙間から、一番星が見えるような時期だった。小さいころに見ていた一番星とは違う一番星だ。人間が移動したことで、この星が公転したことで、夜を告げる小さな光は代替わりを果たした。常に夕暮れであるこの世界で時間の経過を教えてくれるものは星とメソ、それからそれぞれの身体の変化だけだ。

 両親が家畜の遊牧に行ってしまい、テムダたち子どもの仕事である洗濯や水汲みなんかが全て終わって、シューダはテムダの家を訪れていた。シューダが突拍子もないことを口にしたのは、そんな折だった。寝に戻るだけの子供の背丈ほどの家で、いつものようにごろごろと寝転がって二人で中身のない話をしていたテムダは目を丸くした。

「時間を?」

 時間、と口に出したのは久しぶりだった。いつまでも暮れることのない夕暮れの世界において、時間が意識されることは少ない。意識されるにしても、ノスタルジーを伴った、在りし日と在りし場所の分化されていない「過去」というものを振り返るときくらいの巨視的なスケールにおいてくらいなものだ。

 だから当然、テムダはこれまで歩いてきた道を思い出していたし、問題の台詞を口にしたシューダにしてもそれは同じだった。

「そう。これから二人で「これまで」を取り戻しに行くの。どうかな?」

 どうかな、なんて言われてもな。そう思ってごろりと寝返りを打ったテムダが見たのは、その口調とは裏腹に存外真剣なシューダの二つの目だった。シューダのその目は、常に夕暮れの赤に染まっている世界においてもどこまでも静かに見える低彩度の灰色だ。その双眸を向けられることが、テムダはひそかに好きだった。

 シューダは膝立ちになってテムダの耳元に顔を寄せてきた。内緒話の合図だ。誰にも聞かれたくない話をするとき、シューダはいつだってそうする。そんな可愛らしい仕草をするシューダのことを、テムダは妹のように愛していた。

「シューダは、天測が得意でしょ。だから、私だけじゃ戻れなくても二人でなら時間を遡れると思うの。それに、メソが縮んできているから、もうすぐ移動が始まるでしょ。荷物を整理するときにこっそり二人で東に向かうの。そうすれば――」

「ちょっと待って待って」

 耳元で囁かれ続ける言葉を、テムダは慌てて遮る。穏当でないことを突然口にしたそのシューダの真意がわからなくて、テムダも同じく膝立ちになった。自分のよりもひとつ分くらい下にあるその頭を見て、少しだけ平静を取り戻す。

「どうして突然そんなこと言いだすの。夜は到底生きていけないような極寒の世界だってことは知ってるよね」

 極寒、という慣れない言葉を使ってシューダを諭す。常に気候は安定している生活であるため寒さなどほとんど感じたことはないのだけど、それが恐ろしいことであるのは知っていた。そう聞かされて育ってきたから。

「知ってる。でも、どうしても戻りたいの。じゃなきゃ、生きてる意味がないから」

 シューダはぐいとテムダの手首を引っ張った。バランスを崩したテムダは床に手を突く。シューダとの距離が近づいた。

 その灰色の目に覗きこまれて、テムダは身動きが取れなくなる。

「私、お姉ちゃんがいるんだ」

 透き通るような声が、テムダの鼓膜を揺する。その背筋を駆け上がっていったものを「寒気」と呼ぶことを、テムダは後に知ることになる。

「お姉ちゃんが……? でも……」

 ようやく絞り出した声を、シューダは首を振って否定する。

「ううん、いるんだ。お姉ちゃんは、ずっと私と一緒にいる」

 その言葉に、身体がぞくりと震える。気味の悪さが半分。もう半分は、聞いたこともないような刺激的な話に対する快とも不快ともつかない興奮。そしてその後者は、常に夕暮れの中にあって時間や変化に乏しい環境においては得難い感情であった。

 テムダは産まれたときから優秀であった。同じ時期に生まれた誰よりも早く言葉を、計算を覚え、それらの知識を有機的に結び合わせていった。100度を越えてからは半周以上も離れた子供たちと一緒に天測を学ぶことすらあった。テムダには、想像力があった。

 天測とは、天のスケールに人類の時間感覚をチューニングすることに他ならない。人間の身の回りの規模では想像もつかないようなことが天体においては起こりうる。引き伸ばされた時間、互いに引き合う力、銀河の広がり。そういった諸々は人間の身で体感することはできない。数字という形に落とし込んで理解を放棄するか、人間の側から感覚を寄せるか、それが天と向き合う姿勢となる。テムダは後者が得意であった。天体の動きやその仕組みを脳内で3Dモデルにし、スケールバーにおける10の右肩の数字を自在に動かし、マクロとミクロを感覚で結び合わせていった。

 しかし、そうして育った感性は、ルッカリーでの生活に向かなかった。

 想像は、延々と変わることのない現実とのギャップを深めた。自転の存在する天体においては昼と夜が交互に訪れること。いくら歩いてもその時間に追いつくことはできず、むしろ頻繁に昼夜が入れ替わることでどの時間にも人間が生存できること。それがかつてのこの星の姿であったこと。そういった惑星においては場所と時間は必ずしも等価で結ばれないということ。そういったことが想像できてしまうだけに、ずっと変わることのないこの生活に倦んでいた。

 そんな中に在って、シューダの存在は救いであった。どこかテムダに纏わりついてそそっかしく色々な出来事を起こしてくれる20度離れたシューダの存在は、テムダの生活における最大の変数であった。テムダの生活に影響を及ぼす無数の要素――恒星の輝きやテムダ自身の成長、メソの乾燥、一番星がかつてと変わったことなど――の中で、もっともテムダをかき乱してくれるのが、感性を刺激してくれるのがシューダであった。

 そしてそのシューダの不確定なふるまいが幼さによるものであることも、テムダは承知していた。静かな灰色の瞳と、それに不似合いな天真爛漫な言動。その二つを併せ持って理宇シューダは、いずれ灰色の瞳だけを残していなくなる。きっと、誕生碑を迎えて大人になるまでには。ルッカリーに生きる大人は、変化のない生活の中でも、細々と命を伸ばすことに違和感を持っていない。自分も、シューダも、この星を一周する頃にはあの大人の一人になるのだ。

 そんな底のない沼のような絶望を、テムダは抱いていた。シューダの手だけが、テムダが意識と想像力を湛えた深い沼の底に沈むのを引き留めてくれている。

 そんなシューダに姉がいるという話は、テムダも聞いたことがなかった。

「お姉ちゃんがずっと一緒にいるって……そんな子、私見たことないけど」

 シューダの子供らしい高い体温をその手に感じながら、テムダは反論した。その声を半分無視するように、シューダは自分のペースで話を広げた。

「テムダは、誕生碑の中になにが入ってるの?」

「誕生碑に? 私のは折り畳み式のメソだって聞いるけど……」

 突然始まった誕生碑の話に首を捻りながらも、それを思い出させたシューダに理不尽だとは思いながらもほんの少し苛立ちを感じる。

 テムダの母親がシューダの誕生碑にメソを入れたのは、大人になったら自分のように家庭を持つことになるだろうからという理由であった。家庭なんて持ちたくない。あんなに退屈そうな大人になんてなりたくない。なにより、そういった未来を当然だと思って産まれたての子供に押し付けることが、許せなかった。

「なんでそんなこと聞くの」

 少し声が尖ってしまったことを自覚しながらも、テムダはその苛立ちを否定することはしなかった。シューダはそれに気づいていないようで、一段と声を落として、直接私の鼓膜に振動を伝えるような声でつぶやいた。また一つ、背筋をなにかが駆け抜ける。

「私の誕生碑には、お姉ちゃんが入っているの」

 乾燥したメソが、頭の上でがさりと音を立てた。私は、あまりのことに声も出せなかった。

「私ね、本当は双子だったんだって。産まれたときにお姉ちゃんは死んじゃって、私だけが生き残ったって、お母さんが言ってた。それでお母さんはお姉ちゃんを私の誕生碑に入れたんだって。お姉ちゃんが寂しくないように、ずっと私と離れないでいられるようにって」

 シューダの誕生碑は、同時に双子の姉の墓碑でもあったのだ。シューダの生は、その姉の死を慰めるために相殺された。

「それが許せないんだ。お姉ちゃんなんて、私は知らない。私は私のために生きたいのに、私はずっとお姉ちゃんと一緒に夜に取り残されているんだって。お姉ちゃんが可哀そうだからってだけの理由で」

 だからね、とシューダは続けた。私たちを見つめているのはメソの隙間から差し込む一番星の明かりだけだ。その弱々しい光を灰色の瞳に宿しながら、シューダは私を見つめていた。

「二人で一緒に、私の誕生碑からお姉ちゃんを引っ張り出そう。ちゃんと殺して、私のためだけの誕生碑にしよう」

 その言葉に、テムダは気付かぬうちに頷いていた。延々と続く夕暮れへの倦怠、大人になることへの抵抗、私が止めてもシューダは一人で行くのだろうという確信、姉殺しという言葉への高揚、そして、そのシューダの唯一無二の静かな瞳。それらが一挙にテムダの胸の中へと流れ込み、首を縦に振らせたのだ。

 シューダはそれを見て顔を輝かせた。テムダのこれまでの人生で、一番理解することのできない、かけがえのないものだった。その笑顔だけで、これから先の旅のすべてと釣り合いが取れてしまうような、そんな笑顔だった。

 きっと、この度は道半ばにして途絶えるだろう。極寒の世界を130度も遡り誕生碑にたどり着けると思いこめるほど、テムダは愚かではなかった。だからこの旅は、死出の旅であった。姉のためでなく自らのために生きることを望んだシューダの、大人と倦怠を拒むことを望んだテムダの、二人だけの逃亡であった。

 そうしてテムダとシューダの二人は東を、夜を、誕生碑を目指した。六分儀を背嚢に詰め、フリーズドライの薬箱や食料をくすね、洗濯したての白い服を何枚も何枚も集めた。全て、片道だけの分量を想定して。

 メソが乾ききり、ルッカリーの移動が始まるころ、二人は人目を忍んで時間を遡り始めた。シューダの死に続けた130度を取り戻すために。そして、その旅の途中で行き倒れるために。


   ***


 シューダが血を吐くようになった。ルッカリーを出て110度近くが経過したころであった。問い詰めれば、以前から血便が出るようにもなっていたらしい。色々な疾病が考えられるが、おそらくは鉛臓を損ねてしまい大腸癌が発生し、それが血管に入り込むことで転移して肺癌を引き起こしたのだろう。シューダは貧血のためか、青白い顔をしていた。

「黙っててごめんね」と謝るその声も、どこか弱々しい。薬指の先が欠けて以来、シューダは双曲線のグラフのように時間とともに元気を失っていった。

 ずっと続く夜の世界に来たことで、テムダは時間という概念を体験した。歩けば歩くほど疲れ、しばらく獲物を見つけられないままだと徐々に空腹になり、なにより少しずつではあるがその感覚でわかるほどに、シューダは弱っていった。いつしかシューダは、テムダの時間となっていたのだ。

 この星にいわゆる惑星磁気が存在しないことは、テムダも知っていた。自転していたころのこの惑星には磁気が存在した。流体ダイナモ説によると、惑星内部の鉄やニッケルを含む核が自転と熱対流によって電流を生み出し、惑星全体が一つの電磁石としての働きをしていたのだとか。

 そしてその惑星磁気が存在しないとどうなるか。恒星のフレアや銀河宇宙線、1次宇宙線など、宇宙からの放射線が遮られることなく地表へと降り注ぐことになるのだ。放射線は遺伝子にもたらす。その結果起こる病気には様々なものが存在するが、その代表例の一つが癌だ。腸や生殖器などはとりわけ放射線に弱い。

 その放射線から身を守るために人間が獲得したのが鉛臓だと、テムダは教わっていた。

 人体の中でも特に放射線から守りたい場所――頭頂部や腸壁など――に、人間は人口の細菌を共生させた。ミトコンドリア、葉緑体に次ぐ、細胞内共生の第三の例である。重金属を用いた酸化反応によって生存に必要なエネルギーを生産する細菌の排出物に目を向けた人類は、鉛を含むコイル状のタンパク質を生み出すように重金属耐性細菌へゲノム編集を施した。

 デンプンがコイル状であることでヨウ素液のヨウ素を捉え青紫色を抵触するようなものだ。癌になりやすい臓器付近をコーティングするように、放射線を積極的に捉えるタンパク質を生産する組織を張り巡らせたものが、鉛臓だ。強いオートファジー性やアポトーシス性を持ち、惑星磁気の存在しない環境下においてもある程度生存できるような仕組みになっている。

 しかし、その鉛臓が損なわれてしまったのだろう。あるいは、鉛臓自体が癌化してしまったか。いずれにせよ、ここから先、健康が改善される見込みはない。

「私、死ぬのかな」

 ずっと変わることのない白い景色をそれでも前へと歩き続けながら、シューダは呟く。長い間着ている服は、ルッカリーから持ち出してきたころの純白を思えば、ずいぶんとくたびれた色になってしまった。

「まだ死んだら駄目だよ。だって、まだシューダは産まれられてないんだから」

 そう言うと、シューダは少し左目が曇り始めたように見える灰色の瞳をふっと細めた。微笑んでいるのだと気付くまでに、少し時間がかかった。

 時間を遡っているはずなのに、シューダはどんどん死に近づいている。私だって背が伸びた。頬がこけた。時間と場所が異なるものなのだということは、この旅が教えてくれた。

 すぐに終わると思っていたこの旅も、ここまで意外なまでに続いている。目的地であるシューダの誕生碑まで、20度のところにまで来ている。130度の行程のうち、85パーセントほどの地点にまで到達したことになる。

「ねぇ、テムダ」

 その吐く息が相変わらず白いことが信じられないくらい、シューダの手は冷たい。

「どうしたの」

「本当だったら、私たち今ごろ何度ぐらいだったのかな」

「どれぐらいだろうね。ルッカリーを出たころ、私が150度でシューダが130度だったけど、20度ぐらいは進んでるんじゃないかな」

 位置と時間を同一視できていたのは、天球における恒星の位置を一つの基準としていたからだ。それが崩れた今、二人は自らの成長を、産まれてからの時間を示す言葉を持ち合わせていなかった。

 自転が止まって以来の人類が長らく持ち合わせていなかった時間という感覚を、二人はほとんど動くことのない満天の星空の下で見つける。死にゆく君、遡っているはずのに戻ることのない時間、損なわれてしまった鉛臓。それらは全て、二人で見つけたものだった。

 とうに、シューダの心から姉殺しという目的は消え去っていた。

 姉殺しが単なる手段であり、目的は自らの時間を生きることであったことに気付いたからだ。

 とうに、テムダの心は満たされていた。

 延々と続く夕暮れから解放され、公転とは違う方向にベクトルの向いている時間を発見したことで、その厭世の源となる倦怠が消え去ったからだ。

 それでも二人がこの雪原を進むのは、二人がこの旅自体を新たな目的として、自らがその限られた時間の中で果たすべき目的として選び取ったからであった。二人の得た時間という概念の使い道は、話し合わずとも自然に共有されていた。

 欠けた薬指と旅の中で大きく薄くなった手を絡ませながら、二人は公転に逆らうようにして東を目指す。ルッカリーを出たころの一番星は、いつの間にか西の空の向こうに消えていた。

 シューダの意識が途切れがちになったのは、誕生碑まで残り5度というところだった。


 ***


 口元から白い息が漏れていなかったら、生きていることに確信を持てていなかったかもしれない。シューダの軽い身体を抱き上げながら、テムダは歩を進める。風が吹くたびに積もった雪が巻き上げられて、テムダの視界を塞ぐ。

 シューダの分のシロギツネの歯はすべて捨てた。彼女が再び歩けるようになる日は二度と来ないであろうと悟っていたから。少しでも荷を軽くするために、今後不要となるようなものはすべて捨てた。薬箱、替えの衣類、腐り落ちたシューダの右腕。すべて。

 そんな中でも捨てられないものが一つあった。シューダの誕生碑の場所を示す座標の書かれたメモ紙だ。夕暮れという同じ時間の中で惑星を一周することを前提としていた座標であったが、星の動きから計算しなおすことはできた。一度は十桁の数字が二つ並んでいるだけなので覚えてしまおうかとも思ったのだけど、自らの記憶が薄れてしまうことを考えたテムダは手元にその紙だけは残すことにした。そして、結果としてそれは正解であった。

 夜の時間が長くなれば長くなるほど、気温は下がる。そのため、東へ東へと進むにつれ、徐々に気温は落ちていく。生息している生物も少なくなり、食料となるシロギツネやトガリウサギなどの姿もほとんど見られなくなり、深刻な栄養失調に陥っていることが自分でもわかった。

 加えて、シューダが歩けなくなったことがテムダの歩みを遅らせていた。時々シューダが腕のなかで血を吐くため、テムダの服は胸元だけが赤黒く染まっている。遠くから肉食獣に自らの姿を見つけられることを、テムダはもう恐れていない。それよりも、自らの肉体を罠にしておびき寄せた肉食獣を食料にできないかと考えていた。

 しかし、いくらの栄養も残されていない二人の肉体を食べようとする獣は雪原に存在せず、二人は飢えたままに東を目指す。

 それでもテムダが意識を途切れさせることがなかったのは、時折意識を取り戻すシューダが「あと、どれくらい」と尋ねてくれるからだった。その答えとなる数字が4度、3度、2度と小さくなってくるにつれて、尋ねられる頻度も下がっていった。テムダの身体がぐったりと力をなくす瞬間も多くあった。

 すでに氷の塊を抱えているようだったけれど、その口元からはささやかに白い息が漏れている。シューダは、まだ死んでいない。

 骨と皮だけになった身体をそれでも二人分運びながら、自身も鉛臓を損ねて血を吐きながら、当座をしのぐためだけの栄養とすべくその血をシューダに与えながら、テムダはメモの示す座標にたどり着いた。シューダの130度の人生を遡り切ってみせた。

「ついたよ」

 とっくにかすれ切った声を腕のなかの命に向ける。頬骨の浮き出た顔からは、微かなうめき声と、白い喉の上下が返ってきた。

 シューダの誕生碑と思しき石はすぐに見つかった。大人ほどの身長のあると誕生碑はもうテムダの身長と大して変わらない。その誕生碑は、シューダの静かな灰色の瞳と同じ色をしていた。

「本当に、綺麗な色だね」

 この色が大好きだったのだと、テムダは思い出す。乾いたメソの下、ルッカリーを出ることを決意させたその瞳の色を、長らくテムダは見ていなかった。

 吸い込まれるような黒い星空を押し返すような地面の白。ほんの少し地面が天に手を伸ばしたような灰色の石碑の前に、シューダの身体を下ろす。その胸に広がった血の沁みだけが、世界に彩りを添えていた。夕暮れの世界では私をこんな世界にまで誘うにまでにありふれていた赤が、目の前に唯一つ。

 きっともう、声は帰ってこない。だからテムダは一方的に話し続ける。

「やっと、産まれられるんだよ。今度は本当に、あなただけの人生になる。あなたの好きなように、時間を生きることができるの」

 そう言いながら、テムダは長い時間をかけて降り固まった雪を掻き分けてその下の地面を探す。ここに埋まっているはずなのだ。シューダの生を打ち消した、この世界に留まったままになっている死が。

 手の感覚はもうない。爪が剥がれているのか、雪は血に染まっている。それでもテムダは雪を掻き分け続ける。雪の上に横たえたシューダの胸がごくわずかに上下しているのを横目に眺めながら。

 指先が、地面に触れる。砂に触れたのは、いつ以来のことだろう。地面を素手で削っていると、薬指が取れた。シューダの指先が壊死したことはずっと覚えている。肉体の変化が、死へ向かうシューダの身体は、テムダに時間という認識を与えてくれた。そしてその世界の広がりこそが、テムダを沼から掬い上げたのだ。

 その瞳は、静かな灰色をしていた。

 指先が平らなものに触れた。血で滑るそれを地面と雪の底から引っ張り出す。

「ほら、シューダ。あなたが一緒に殺そうって言っていたものだよ。これを殺せば、私たちは産まれられるんだよ」

 テムダはもはや手の形をとどめていないそれで箱を掴み上げ、シューダとの間にごとりと置いた。その音に反応したのか、シューダはまた血を吐いた。無彩色の世界に在って、ここだけが色を持っている。

 シューダの喉は血を吐いた後もまだ小さく動いている。なにか言葉を口にしようとしたのか、機関に詰まっている血の塊を吐き出そうとしたのか、テムダには分からなかったが、もはやそんなことはどうでもよかった。テムダは白くぼやけてきた視界を血の零れ続ける手でぬぐい続けながら話す。

「代わりに開けるね、シューダ」

 ぬるぬると滑る石の箱の蓋をそれでもなんとか掴み上げると、そこには50㎝ほどの塊が入っていた。シューダの、双子の姉の死体であった。

 テムダは死体を抱き上げる。夜の世界に取り残され冷凍されていた死体は、腐敗が進んでおらず、そのままの形を保っている。姉の死体を、テムダはシューダの隣に置いた。いつの間にか身長が伸び、顔の輪郭もシャープになっていたシューダであったけれど、その死体からはどことなくシューダの面影のようなものが感じられた。

「ほら、誕生碑から外に出してやったよ。これで、シューダだけの誕生碑になったんだよ」

 もう聞こえているのかもわからないその耳に向かって、出ているのかもわからない声を出す。ようやくこの旅が終わるんだ。二人で見つけた時間という概念を、目的を、本当の意味で果たす時が来る。

 その時、テムダは大人になることを拒んだ自分がなによりも嫌悪していた言葉を思い出した。誕生碑にたどり着いた人間には、祝福の言葉が与えられる。その人生の折り返しを見つめ返し、これまでとこれからを分ける唯一の基準となる、かつて存在した時間の名残のような言葉が、ルッカリーには伝わっていたのだった。

 かつてシューダがそうしたように、テムダはシューダの腕を引いた。もう姉の死体と変わらないような体温になったシューダは、それでもまだ身体が凍り付いてはいない。

 耳元に持っていった唇から、白い言葉が紡がれる。


「誕生、おめでとう」


 ふっと、シューダの口元が緩んだ。いつかの天真爛漫な笑みを思い出すような表情であった。

 シューダの身体から一切の力が失われる。それと同時に、テムダも気力を使い果たしたかのようにその場にくずおれた。

 二人の身体が、シューダの姉の死体に触れる。

 死体は雪原を転がる。凍り付いたその死体は、弾みで瞼の薄い膜を壊した。

 その奥から現れた瞳は、かの灰色と同じ色をしていた。

 シューダの姉の墓碑であった石は、テムダの誕生碑として、そして二人の墓碑として意味合いを替えた。

 灰色の双眸は、東の空を見つめていた。その空は徐々に色を取り戻している。はじめは藍色に、長い時間をかけて徐々に星が消え、青が空を占めていく。夜明けの時間の訪れだ。

 シューダが産まれて、ちょうど半周の時が経っていた。

 光は徐々に地面に温もりを与える。灰色の石の周りに転がった三つの死体にも、その温もりは与えられた。雪が融け、辺りは水で満たされ、細菌が活発に活動を始める。

 二人が長い旅の中で得たこの世界で二人だけの時間の概念、その最後に訪れる、腐敗という工程が始まろうとしていた。

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終雪の墓標 青島もうじき @Aojima__

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