いつかすべてを爆破するために

さちはら一紗



 この町を出る日をずっと、夢に見ていた。


 卒業式の前日。静まり返った校舎の中を何も持たず足早に私は進む。

 三年を共に過ごした窮屈なセーラー服とはもうさよならだ。

 春用のジャケットにショートパンツで、上履きも履かずタイツ一枚、足音を立てずに部室に辿り着く。


 扉を開けるなり、制服のままソファに寝っ転がっていた後輩、ミチルが甘ったるい声で悪態を吐いた。


「遅いですよセンパイ。いつまで待たせるんですか、って……どうしたんです? その目」


 ミチルは私の顔を見て、白い眼帯にぎょっとする。


「ものもらい」


「あぁ、だるいやつ」


 ミチルはソファの腕置きにだらしなくつっかけていた長い足を床に下ろし、ソファから立ち上がる。


「ミチル、なんで制服着てるの?」 


「フツウに学校に行くふりして出てきたんで私服、持ち出せなかったんですよ。やばいですよねー、補導とか。あ、センパイ、夜になったら服貸してください」


「いいけどミチルに似合う服なんてないよ」


「大丈夫、あたしなんでも似合いますもん。それから、センパイ、私服姿もとってもカワイイです」


「お世辞は別にいらないんだけど」


「あたし、カワイイに嘘は吐かない主義なんですけど」


 むくれた顔をされたがミチルが変なことを言うのはいつものことだ。

 軽く無視して私はロッカーに隠していた、黒くて大きなリュックサックを取り出す。

 ミチルはいつもの合皮のスクールバックを肩にかける。


 仕度はおしまい。

 あとは濁さず発つだけだ。

 ミチルの大きな瞳が私の片目を覗き込み、悪戯っぽく口角を上げる。


「いきましょっか」


「うん」


 頷いて、笑いかえす。

 目元が痛まないようにと気をつけたから、笑みは不恰好になった。

 完璧な笑顔の作り方を知っている後輩は、私を真似るように顔をくしゃくしゃにする。

 悪くない気分だ。


 薄明るい校舎の中。

 息を潜めて、溢れそうな笑い声を飲み込んで、階段を駆け下りる。

 誰にも見つからないように、誰にも咎められないように。


 私たちは今日、この町から逃げ出すのだ。


 





 ひとつ年下のミチルは田舎町の高校には似付かわしくないほどに、華やかな女の子だった。

 明るい栗色に染めた髪をふんわりと巻いて二つ結びにし、毎日化粧を整えて学校に通うミチルは目を引く。

 容姿スタイルは抜群で、成績はそれなり。

 家柄もよく、聞いたところによるとこの町から見えるいくつかの山はミチルの家の所有物だとか。

 同じ学校に通っていても別世界の住人だ。


 それに比べると私は圧倒的に地味だった。

 無駄に背が高いだけの貧相な身体も、ろくに手入れもしてない黒髪も陰気なだけ。

 さいわい空気になるのは得意だから、特別誰かに嫌われたりもしない。

 特別好かれたりもしないけど、学校生活はそれなりに円滑に回る。

 誰の特別でもない路傍の石、それが私だった。


 それなのになんの間違いか、完璧な女の子であるはずのミチルに、「センパイ」なんて慕われることになっていた。

 大した経緯じゃないけど、そのことは、くすんだ私の人生の中で一番、「悪くない」ものだった。



 三年生の夏休み前。

 ミチルに初めて出会ったその日、私はとても疲れていた。


 この町から出る。

 そのためにはどうしてもお金を貯める必要があって、私は朝も夜もバイトを詰めていた。

 慢性的に寝不足だったけど保健室の常連でいるのも限度がある。

 何せ新任の養護教諭とあまり相性がよくなかったから。

 ミチルに出会ったその日の放課後、私はバイトの時間になるまで安眠でき、かつ冷房のある場所を探して校舎を彷徨っていた。

 

 そうして、私は扉が半開きになっている部屋を見つける。

 普段の教室に比べると随分と狭い部屋だ。

 肝心の冷房も問題なし。

 棚がたくさん並べられているから物置か何かだろう。

 部屋の隅に寝心地の良さそうなソファが置いてあるのが見えた。


 電気は消えているけど、部屋の鍵をかけ忘れた誰かが戻ってくるかもしれない。

 侵入したら怒られそうだしやめておいた方がいいな、と考えたけど誘惑に勝てなかった。

 眠気はとっくに限界で、私はソファにふらふらと引き寄せられる。

 身体を折り畳んで寄り掛かったソファからは、花のような甘い匂いが残っていた。



 眠りに落ちるのは早かった。

 早いなりに浅かった。

 僅かな休息の時間は、部屋の電灯が点いたことで打ち切られる。

 警戒心と一緒に目を開くと、真上には私を覗き込む顔があった。


 垢抜けた、可愛らしい女の子。

 長い睫毛を瞬かせ、さりげないカラコンを入れた大きな瞳が頭上から迫る。


「お目覚めですね。どちらさま?」


 甘い声で慇懃に、けれど愛想はこれっぽっちもない。

 表すのは多分、警戒心。

 仄かに漂う大人っぽい香水の匂いが童顔と合わなくて毒々しい。

 私は体を固くする。獰猛な猫を前に、縮こまる鼠みたいに。


「あ、思い出した。あなた、この前まで骨折してた人だ」


 彼女はソファから離れ、まじまじと私を見るのをやめる。

 合点がいった途端、にっこりと愛嬌のある笑顔を浮かべた。

 不審者疑惑は早くも解除。

 どうやら一方的に知られていたらしい。


「いや、折れてはなかったから。ちょっと安静にしてろって言われただけ」


「あ、そうなんです? 吊ってたからてっきり」


 最近のバイトが忙しかったのはその遅れを取り返すためでもあったけど。

 知られ方が不本意で、少しむっとしたらこっちの緊張も解けた。


「それで、おやすみだったみたいですけど。ココ、一応ウチの部室なんですよね」


 彼女がちらりと視線をやった先には「旅行部」と書かれた看板がある。初めて聞く部活だ。


「ごめん、すぐに出て行く」


 寝覚めでくらくらとする頭でそう答える。けれども立ち上がった私の手を、彼女が掴む。


「いいですよ。ココで寝てても」


 大人が好きそうな笑い方。嫌な予感がした。それは媚びとへつらいだ。奥に何かがある。


「なんならいつだって貸しますよ、ココ」


「……条件は?」


「あたしのセンパイになってください」


 先輩。上級生になっても私には無縁だった肩書き。

 よくわからないことを求めた彼女は、相変わらずうすら笑いを浮かべていたけど、ふざけているようには思えなかった。

 疑った目で瞳を見返しても、青味がかった灰色のコンタクトの裏では、何を考えているのか不透明。


「先輩って、なるとかならないとか、そういうものだっけ……?」


「んー。たしかに上級生は全員先輩ですけどー。そういうのは、間に合ってるんで」


「じゃあ君は、えっと」


「ミチルって呼んでください。呼び捨てで」


 多分下の名前だろう。

 普通下の名前で名乗るかな。社交性の高い子はそういうものか。

 違和感を覚えながら、私は聞く。


「ミチルにとっての先輩って、何?」

「そうですねー」


 人差し指を小さな顎に、わざとらしく小首を傾げる。爪がきらきらとして眩しい。

 ミチルは少しの間視線を余所にやり、口の端をゆるやかに上げた。



「人生のやり方を教えてくれる人、ですっ」



 ふざけきった甘い声音に反して、選んだ言葉はなんだかとても大袈裟だった。

 なんだそれ。それなら私は「先輩」として落第点だと思う。

 私の人生は、その日その日を生きるだけで精一杯だ。

 素敵なものなんて、何もない。


 溜息を吐く。

 美人とか社交性とか関係なしに、ミチルが変な子なんだってことが薄々わかってきた。


「まあまあ、そんな難しい顔しないでください」


 ミチルは私から離れ、棚に刺さったクリアファイルから書類を取り出す。

 入部届けだ。


「潰れかけなんですようちの部活。本気で頼めばいくらでも入ってくれる人は見つかるけど、そーゆーのめんどくさいじゃないですか。あたしの頼みを聞く人なんて、あたしのことが好きってことですし? 放課後くらい誰にも気を使いたくないんです」


 ミチルは仕方なし、といった様子で一気に被っていた猫を脱いできた。

 ああなんだ、先輩ってつまりそういう意味か。


「こちらは場所の提供くらいしかできませんけど、悪い話じゃないと思いますよ? センパイ」


 決定事項みたいにそう呼ばれて。


「まあ……別に、いいよ」


 そんなこんなで私は入部届に名前を書いて、ミチルの先輩になったのだ。


 多分それは、私の些細な「高校生活」への未練だったのかもしれない。

 部活なんて入ったことはなく、まして後輩なんていたことはなかった。

 そしてミチルは私なんかの興味を引くには十分すぎるほど、素敵な女の子だった。




 きっかけこそ変だったけど、一見正反対な私たちは結構相性が良かった。お互い程よく相手に興味がなかった。

 私はもともと他人の視線が嫌いだったし、普段は人気者をやっているミチルも息抜きがしたい。

 会話は少なめで、余計な詮索はなく、二人して置物みたいに部室を使う。

 距離感は丁度よく、卒業までの一年に満たない期間、私はそこで何度も眠った。


 部活動にやる気はないと公言していたミチルだけど、意外にちゃんと部活をしていた。

 旅行部なんて銘打って、予算はないからたいしたことはできない。

 ただパンフレットを眺めたり、架空の旅行計画を立てたり、遠い国の写真を雑多にコルクボードに貼り付けたり。


「計画を練るのが好きなんです。行きたいところを考えて、想像して、浸るの。いい趣味でしょ? 安上がりで」


 知らない世界の住人は、私の知らない台詞ばかりを言う。

 さいわい私は知らないものが、初めて触れるものが嫌いじゃなかった。


 私はミチルの計画書をよく見せてもらっていた。

 それは大抵現実離れしていて突拍子もなくて、確かに趣味がよかった。


 コルクボードの写真は小まめに入れ替えられていたけれど、何故か隅にはいつも花火の写真が貼られていた。

 いつどこでだれに撮られたものか、ということは聞けば大体教えてくれたけど、花火の写真を飾る理由は「ひみつ」だってはぐらかされる。

 何か特別な思い出があるのかもしれない。


 私は本物の花火を見たことがない。ないけれど、見たらきっと好きになる。


 あの綺麗な炎は、黒々とした重たい空もどんなに暗くて息苦しい夜も、爆破してくれるはずだから。




 先輩らしいことなんてひとつもしないまま、季節は過ぎ去り、卒業も目前になる。

 必要な単位も取り終わった。

 通帳の残高はまだ心もとないし、進路は白紙だけど構わない。

 ようやく私の十八年が終わる。


 機嫌よく訪れたある日の部室では、ミチルが突っ立ったまま壁のコルクボードを眺めていた。

 冬らしく、遠い雪国の写真ばかりが並べられている。

 白い風景をじっと見つめるミチルの横顔は、声をかけるのをためらうものだった。

 私たちのいるこの町で、雪を見ることはほとんどない。


 部屋に一つしかない長机の上で、開きっぱなしになっているミチルのパソコンが目に入る。

 その画面にはお決まりの旅行計画があった。行き先は写真の雪国だ。


 私の覗き見に気がついて、ミチルが振り返る。

 いつも見せてもらっているから覗き見は咎められない。

 許可をとってミチルのパソコンに触れる。

 ミチルは、画面を見る私の横にじっと立っていた。


「センパイ、なんか今日はご機嫌みたい」


「わかるものなの?」


 私、表情にはあまり出ないはずなのに。


「いつもが不機嫌すぎるんですよう」


「それは、確かに」


 計画書の続きを読む。

 今回の旅行計画は、経路や予算、日程までかっちりと決まっていて、いつになく真剣なものだった。

 その気になれば今すぐにでも出発できそうなくらいに。


「ここ、いつか行くの?」


 ミチルは苦笑して、ゆっくりと首を横に振る。


「センパイって、テレビやスマホの画面の向こうに憧れて、本当に行っちゃえる人ですか?」


「その例えはわからないけど、私に行ける場所なら。行きたい場所には、行くと思う」


「ステキですね」


「何が?」


「いいえ何も。薄々そうじゃないかなー、と思っていただけです。あたしの勘も捨てたものじゃないですね」


「だからなんでわかるの……」


 似ているところなんてないはずなのに、見透かされるのが少し気味悪い。

 ミチルは、突然「後輩」の顔をした。甘える表情と分かりやすい媚び。



「ね、センパイ。お願いがあるんです。もうすぐ卒業でしょ? 第二ボタンの代わりに聞いてくださいな」


 ミチルは時々、自分が後輩だっていうことを嵩に着る。

 「センパイ」は後輩のわがままを聞くものだって、稀にそんな冗談を言う。


 お互い過度の付き合いは嫌いだ。ミチルはおねだりの塩梅をわかっている。

 例えばミチルの嫌いな味の飴を全部食べてほしいとか、そんな些細なことばかり。


 だけどこの日は様子がおかしかった。


 ミチルは、私の後輩は言う。


「どこか遠く、この町ではないところへセンパイが行けるようになったら」


 夢見るような甘い声で。



「その時はどうかあたしも、連れて行ってください」


 そう口にしたミチルは、写真を眺める時と同じ焦がれるような目をしていた。





 ミチルにこの町から出ることを打ち明けた数日後、ミチルは計画書を持ってきた。

 どうやら本気らしいと気付いたのはその時だ。


「センパイと違って、あたしはただのプチ家出ですけどね」なんておどけて言う。

 正直許可はとってほしいけど、私が言えたことではない。


「どうせなら道中も楽しみましょ」とミチルが言ったのに賛成して、青春十八切符で行く東京までの経路を寄り道込みで、二人で組んだ。


 あいにく諸事情のせいで、突然日程を早めた上に私が遅刻したから、計画は狂ってしまったけど。

 私の人生はいつも上手くいかないし、うまくいかないことにはもう、慣れっこだった。


 





 朝から電車をいくつも乗り換えてきた。

 県境を越えるのは意外に呆気ない。

 途中下車して入ったファミレスで気持ちばかりの贅沢をし、次の電車に乗る。

 いくつかの終点を越えた頃には、身体の節々が悲鳴を上げていた。



 電車の長座席の一番端で、私は目を覚ます。

 いつの間にか眠ってしまっていた。

 車窓から夕焼けを眺めていたら眠気に襲われたところまでは覚えている。

 重たい瞼を擦って窓を見ると外は真っ暗だった。

 時計を見る。思ったよりも時間は遅くなっていない。


 眼帯の紐のせいで耳の裏がずきずきとする。

 いい加減外してしまおうか。

 前髪を引っ張ってみたけど、目元を隠せないから諦めた。


 私の肩を枕にして、ミチルはすやすやと眠っている。いい加減ちょっと重い。

 結局ミチルは着替えるタイミングを逃して制服のままだ。

 いつもの香水はそろそろ落ちる時間だけど、まだ仄かに甘い香りがミチルを包んでいた。


 完璧な女の子。

 それはきっと、ミチルみたいな子のことを言うんだと思う。

 人好きのする笑い方を理解していて、立ち居振る舞いには自信が滲み出ている。

 強かで器用で、物分かりがいい。


 それは少し羨ましくて憧れるけれど。

 でもきっと、ミチルの世界もそれなりに窮屈なんだろう。

 「家出って一度してみたかったんですよ」なんて嬉しそうに言うくらいだから。


 最後くらい部活らしいことをするのも悪くない。

 そんな気持ちで家出の道連れにした私は、多分とても悪い先輩だ。


 私にとっての後輩は、都合のいい隣人だった。

 特別でもなんでもなく、なんのしがらみもない。

 それが私とミチルの仲で、だからこそ純粋に、ミチルと付き合っていられたんだと思う。

 だけど、本当にそれで良かったのか。ミチルの寝顔を見ながら、ふと、そんなことを考える。


 ミチルの「先輩」が、私なんかで良かったのかな。なんて。


 電車の中は私たち以外誰もいない。

 規則正しく走っていた車両は、突然ガタンっと大きく揺れる。


「うわ」


 私は体勢を崩し、ミチル側へと倒れ込む。

 長椅子に倒れるミチル。

 その上に覆いかぶさる私。

 すんでのところで手を椅子についたから押しつぶすことはなかった。


「せん、ぱい?」


 眠りから覚めるなり、目を丸くするミチル。

 私の黒髪がカーテンみたいにしな垂れる。

 ミチルの長い睫毛が瞬く。

 あまりに近い距離で、見つめあってしまって。


「……ごめん」


 言い忘れてたな、と変なタイミングで謝ったら、ミチルは吹き出してしまった。

 私たちはようやく起き上がる。

 別に何も面白くないのにつられて私も笑えてきて、二人して意味のわからない笑いを連鎖させる。


「センパイそんな顔で笑えるんですね」


「どんな顔してた?」


「なんかもう全部どうでもいいやーって顔」


 そんな顔してるかな、と窓に映る自分の顔を見る。

 見慣れた辛気くさい顔だけど、そう言われたらそうかもしれない。


「ごめんなさい、あたしがか弱くなかったら、センパイのこと受け止められたのに」


 ミチルは小芝居めいてしおらしく、そんなことを言う。


「か弱い?」


「そーですよ。これでも結構ガラス細工なんですから。大切に扱ってください」


「はいはい」

 

 くだらない話をしたおかげでそれなりに目は覚めたけど、欠伸はまだ出そうだった。

 ミチルはゆっくりと首を窓の方へと向ける。


「すっかり夜、なんですね」


「うん。結構遠くまで来たね」


 電車の揺れを意識したらもう一眠りできそうだ。

 会話が途切れたのをいいことに、私はまた瞼を下ろす。


 カタンコトンと穏やかに、時々遅れたり早まったりする走行音。

 目を閉じると音が際立つ。

 それはなんだか少し、波の音に似ている気がした。

 海なんて最後に行ったのはいつか思い出せないけど。


「夜の、海……」


 ぼんやりとした私の連想が、ミチルの独り言と連動する。

 瞼を上げると横には窓に釘付けのミチルがいる。


 あの町には、海がなかった。


 停車のアナウンスが聞こえる。

 窓の景色の流れる速度が落ちる。

 私は床に置いたリュックを手に取った。


「降りようか」


「え、でも」


 確かに降りる予定だった駅はここじゃない。

 でも。


「途中下車が醍醐味だって、言ったのはミチルだよ」


 もう片方の手で、ミチルの腕を取る。


「行きたいところに行こうよ。そのためにミチルは私についてきたんでしょ」


 ミチルは一瞬目を丸くして、破顔した。


「……はい、そうでした!」


 


 電車を降り、改札を出ると明るい駅内にはこれから家に帰る人たちがひしめいていた。

 私たちは人波を無視し、繁華街から遠ざかるように初めての町を歩いていく。

 目指すは車窓に見たあの海だ。

 山に囲まれたあの町とは違い、この場所の夜空は広く、星が少ない。

 雲ひとつない空の中、半月にも満たない月が仄かに輝いている。


 街灯がひっそりと立つ細い道路を並んで歩く。

 次第に人や店は少なくなってきた。

 ミチルは浮ついた足取りで、私の隣を歩いている。

 合わせて跳ねるお下げ髪の巻きは随分と解けてきた。


「センパイ、これからどうするんですか」


 こちらを向いたミチルの表情は、足取りに似合わずどこか真面目。

 ミチルの言う「これから」が「今から」の意味ではなくて、私が、この先、どう生きていくつもりなのか。

 そういうことを聞いていた。

 ミチルの平たいローファーの足音に、私は硬いブーツの足音を合わせる。


「ツテはあるんだ。住むところはなんとかなると思う。しばらくお金を貯めて、勉強して、多分、学校に行く、かな」


 所詮曖昧な答えしか、私は口にできない。


「どうなるかわかんないや。もしかしたら何ひとつうまくいかないかも」


 ミチルと違って私は計画を作るのがうまくない。

 未来を描くには、まだ足りないものだらけだ。


「こわく、ないんですか」


 ミチルの足音が消える。


「こわいよ」


 私も足を止める。コンクリートの地面は静まり返る。


「でも、そのときはそのときだし。どうだっていいと思わない?」


 視界はもう開けていた。

 波音と潮風が目的地への到着を教える。


 街明かりに背を向けて辿り着いた海は、黒々と深く、遠く、空と混ざり合って果てが見えない。

 右手の方には海峡をつなぐ大きな橋が陸と陸を繋いでいる。

 橋の輪郭を縁取る光が、黒い景色の中で確かに行き先を示している。


 柔い潮風に煽られて、目の前を髪が黒く遮る。

 片手でぼさぼさになった髪を抑える。

 そして再び見えるようになった景色はさっきまでと何も変わらず、ちかちかと淡い光で照らされていた。


「どうにかなるよきっと」


 明るい声が出る。

 喉が自分のものじゃないみたいで、そのまま息を吐くように続ける。


「ならなかったらどうしようもなかったってことだから。その時は仕方ない、って笑えばいい」


「悲観的すぎますよ、センパイ」


「そう? 精一杯楽観的になったつもりだけど」


「何それ。本気で言ってます?」


 くすくすと呆れを込めて、いつものように小馬鹿にしたようにミチルは笑って、少し寂しそうに細い眉を下げた。

 可愛らしい顔立ちに似合わない、潮風のような表情。

 その手は今にも風に広がりそうなスカートの裾を握りしめている。


 ミチルの身体が私の真正面を向く。真っ直ぐに私を見つめる。

 つられて伸びる私の背筋。


「センパイ、あたしは明日帰ります。ワガママ、聞いてくれてありがとうございました」


 そう言って綺麗なお辞儀をする。そういやミチルは育ちが良いんだった。


「こちらこそ、ありがと。ただの家出が旅になったのは、ミチルのおかげ」


 最初から、ミチルが付いてくるのは途中までだと聞いていた。


 だって私は帰らない。


 もう二度とあの町に戻らない。


 改めてミチルが帰ってしまうことを聞くと、少し寂しい。

 だけど仕方ない。

 ミチルには帰るところがある。学校もあと一年残っている。


「代わりにセンパイの卒業アルバム、受け取っておきますね」


「別にいいのに」


「だってアルバムにはあたしたちの写真があるんですよ? 折角だから欲しいじゃないですか」


「部活単位で撮ったのが載っているんだっけ。そういやミチル、自分ではあまり写真を撮らないよね。意外だった」


「撮るべきものなんて、あの町にはないですし。それにセンパイは写真に撮られるのは苦手そうだったから」


「気を使ってたの? 別にいいのに。苦手だけど嫌いじゃないよ」


「センパイって意外と嫌いなもの、少ないですよね」


「そう、だね。色々あるけど、好きになれなかっただけで、嫌いたかったわけじゃないのかも」


 私の十八年はそんなものばかりでできている。

 私の感傷を、ミチルが覗き込む。


「明日の卒業式、本当は出たかったんですよね」


 遠慮なしに、踏み込んできたのはこれが初めてで、最後かもしれない。


「……うん」


 私は正直に答える。

 早く卒業したくてたまらなかったけど、終わりを待ち望んだからこそ、卒業式をちゃんと迎えたかった。

 この町を出て、私は一人で生きていくんだって、虚勢だとしても胸を張りたかった。


 あんなふうに、逃げ出すように出ていくつもりはなかった。


 計画通りなのはミチルだけだ。

 後輩が、約束通り側にいてくれたことだけ。


「ちゃんとお祝いしましょう」


 声はいつもよりもずっと、涼やかに。

 ミチルが私に微笑みかける。


「あなたの道行きが、どうか明るいものでありますように」


 星に願いをかけるような囁き声に、柄でもなく胸が詰まりそうになる。

 惜しむような日々が欲しかった、なんて贅沢は今更言わない。

 眠るだけの狭い部室に、思い出は十分残っている。


「ありがとう、ミチル」


 にっこりと、ミチルがどういたしましての代わりに見せた満面の笑みは、夜の暗がりの中でもきらきらと輝いていて。

 何故だか私は、部室にずっと飾られていたあの写真を思い出す。

 暗い夜の中で褪せず輝くミチルの笑顔は、まるであの写真の花火みたいだ、なんて。

 頭の悪い連想だと我ながら思うけれど。


 ああ、なんだか。


「花火がしたいなぁ……」


 私の呟きにミチルは驚いた顔をして、


「しましょう、やりたいこと」


 私の手を、その細い両手で掴んだ。


「だってそのために、センパイとここに来たんだもの」


「でも花火なんて、この季節じゃ……」


「持ってますよ」


 ミチルに即答に耳を疑う。


「あたし、いつも持ってるんです。花火」


 そう言って鞄から取り出したのは、円柱型の打上花火だった。


「は?」


 線香花火どころか手持ち花火ですらない。


「どういうこと……?」


 確かにミチルは結構変わった女の子だけど、それにしたって限度がある。

 花火を持ち歩くような生活は、普通には送れない。


 ミチルはにまりと意地の悪い笑みを浮かべた。


「送辞ですよ、センパイ。派手に送り出してあげます」


「君ってさ、時々意味わかんないよね!」




 ミチルが私の腕を引く。必要なものはさっきコンビニで買ってきた。

 擦れるビニール袋の音すら楽しげだった。


 人気のない砂浜へと降りていく。

 浜辺の不確かな足元によろめきながら、ミチルは自分のローファーが砂に埋もれるのをものともしない。

 スマホのライトで花火の説明書きを確認して、砂浜に筒を設置。


「やり方ってこれであってるの? ライターは危なくない? 大丈夫?」


「大丈夫大丈夫。あたしも初めてですけど!」


「だめじゃん」


「あ、もう火、点いたかも?」


「下がって、ミチル下がって、早く早く」


「もうセンパイったら、ビビってるんです?」


「そうだよ!」


「やだセンパイかわいい!」


 ばかなこと言っている間に、弾けるような大きな音が聞こえた。びくりと肩が跳ねる。

 導火線を燃やし尽くした小さな筒はしゅうしゅうと勢いよく火花を噴き上げる。

 ばちばち眩しい光が目に痛い。

 火薬くささと煙たさが、目の前のあれは火なんだってことを思い知らせてくる。

 遠巻きでもじんわり熱い気がするのがもう怖い。


 隣ではミチルがきゃあきゃあと悲鳴のような歓声を上げている。

 私はというと、動けない。

 情趣もへったくれもなく、このまま全部燃えてしまったらどうしよう、なんてハラハラと見ているしかできない。

 初めて現実で手に入れた花火の景色は、写真や画面の中ばかりで見てきたものとは違っていた。


 いつまでも止まないかのように思えたけれど、あっという間に火花は勢いをなくして、しおれるように消えていった。

 後に残ったのは安っぽい煤けた筒だけ。

 あんなに煩かったのが嘘みたいに、砂浜は静かになった。


 私たちは顔を見合わせる。

 頬が緩む。 


「ぜんっぜん、良くないですね!」


「本当に!」


 自分でやりたいといったはずの花火に悪口を言い合う。

 それは笑いながらで、なんだかんだであれも楽しかったことは認めていた。

 欲しいものとは違っていたけど、初めての火遊びに浮き足立っていた。


 ミチルは蹲み込んで、砂の上に置いた鞄の中からもう一つ花火を取り出す。


「次行きます? もっと持って来ればよかったかも」


 次の筒はほとんど形が潰れていて、ひやりとする。

 さっきので、火薬が沢山詰まっているんだってことを思い知っている。


「いいよ。もう十分。それで、なんで花火なんて持ち歩いてるのさ」


 ミチルはスカートについた砂を払って立ち上がる。


「お守りみたいなものです。持っていることが目的で、するためじゃないんですけど。旅行の計画と同じです」


 ミチルの視線は波打ち際へと向く。

 三月の空気は、まだどこか冷え冷えとしている。

 深く息を吸って、言葉を続けた。 


「嫌なことがある度に 花火を買うんです。ばらばらにして爆弾にして、いつか嫌いなもの全部を爆破してやるんだって、そんなことを考えて。頭の中だけで終わっちゃうんですけどね」


 爆破。

 物騒な響きの三音を、小さく繰り返す。

 その言葉は、私の喉に妙にしっくりと馴染んだ。


「あたしは、いつもそうなんです。本当にしたいことをやったことなんて、一度もなかった」


 長い長い溜息を、ゆっくりと吐き出すようにミチルは言う。


「あの町から逃げ出そうなんて考えたこともなかった」


 風が吹く。

 セーラ服のスカーフが揺れる。

 結び目は固く解けない。

 私がさよならした制服に、ミチルはまだ、別れを告げられない。

 そんな当たり前のことが、何故か息苦しい。


 ミチルのいつもと何も変わらない綺麗な笑顔から、今にも泣き出しそうな湿った声が零れ落ちる。


「…………帰りたくないなぁ」


 それは初めて聞いた弱音で、完璧なはずのミチルの笑顔は、まるで私の写った鏡を見ているかのように疲れ切っていて、今にも消えてしまいそうだった。


 私はミチルの腕を掴む。

 引き寄せる。

 言葉にならない胸のざわめきを無理矢理言葉にする。


「帰らなくていい。帰らなくていいんだよ。私たちは」


 それを聞いて、ミチルは困ったように、首を横に振った。


「だめですよ、センパイ」


 あなたじゃ、あたしを連れていけません。


 言葉に続きはなかったけど、そう言われているように聞こえた。

 掴まれていない方のミチルの手が私の顔へと伸ばされる。

 ミチルの細い指は私の眼帯にかかる。

 私は抵抗しなかった。

 眼帯がミチルの手で外される。

 その下の肌には、まだできたばかりの痣が残っている。暗がりでも隠せない。

 私たちは両の目で見つめあったまま、ミチルの指が私の痣をそっと撫でる。肌を這う小さな痛みが、否応なく思い出させる。


 私はまだ、自分ひとりを背負うだけで精一杯で。

 誰かの手を引く力なんてないんだった。


「もう、なんて顔してるんですか」


「そっちこそ」


 きっと完璧なんかじゃなかった後輩は、笑顔だけを綺麗に形作ったまま、私にしな垂れかかる。

 甘い、花のような香りは、もうよくわからなくなってしまった。

 全部潮風のせいだ。多分。



「ね、センパイ。ちゃんと生きてくださいね」



 甘い声で囁くように、ミチルはねだる。

 それはミチルの、後輩としてのワガママだと気付く。



 「それで証明してください。センパイは行きたい場所に行けるんだって。したいことを、できる大人になれるんだって」



 ミチルの腕が解け、私たちの間には一歩の距離。

 彼女にとっての先輩の意味を思い出す。

 生き方を教えてくれる人。

 冗談のように、ミチルは確かそう言った。


 私はひとりで、このまま先へ。

 ミチルはひとりで、あの町へと帰る。

 それは、前からずっと決めていたことだ。私もミチルも。

 その選択が正しいのかどうかなんてわからない。

 私は拳を握り締める。


「わかった」

 

 ミチルの硬い笑顔がようやく解ける。

 後に残るのは穏やかで空っぽな、安堵の表情。

 見つめ返して、私は続ける。



「先に行って、私はミチルを待ってる」



 あの花火が送辞だと言うのならば、これは、私の答辞だ。

 先輩らしいことなんてひとつもしてこなかった私にできる初めての先輩らしいことが、ただの気休めなんて情けなくて泣けてくるけれど。


 言葉の意味が伝わるまで少しの間があり、ミチルは目を丸くする。

 ゆっくりと、大きな瞳が潤んでいく。


「……センパイったら、ぜんぜん柄じゃないですね」


「うん。やっぱりちょっと荷が重いかも。でも決めたから」


「なにそれ」


 瞳を擦った後、顔を上げたミチルの笑顔は、私よりもずっと下手だった。


 




 それから私たちはしばらく海を眺めた後、砂浜を上がりアスファルトの道を辿って、駅前へと戻った。

 もう一度乗った電車からは同じ海と同じ空が見えていて、私たちは隣に座ったままひと言も言葉を交わさなかった。


 電車に揺られながら、私は目を瞑る。

 瞼の裏にはあの花火の光が焼き付いている。




 今はまだ、あの眩しい火花でさえも暗い夜を晴らしてはくれない。


 だけどいつかすべてを振り切って、生きていける日が来るんだと。


 自分のためだけにそれを信じた私にできるのは、ただ祈るだけ。


 どうか私の独り善がりな証明が、この不器用な後輩のためになりますように。



 線路の先は真っ暗で、まだ見えない。

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いつかすべてを爆破するために さちはら一紗 @sachihara

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