悪役令嬢は、いつでも婚約破棄を受け付けている。

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第1話 悪役令嬢は、いつでも婚約破棄を受け付けている。

 煌めくシャンデリアの光に輝く婚約者の姿に、パールやら、レースやら、濃淡の青ガラスやらを贅沢に使った淡い空色のドレスを纏った伯爵令嬢――エリザベス・ディ・カディアスはほうっと息を吐き出した。 


(あぁ、なんと素敵な佇まいなのでしょうか。流れる白金の御髪はまるで夜空を彩る月のように美しく、荘厳で。青く澄み切った空のような瞳に、スッと通った鼻筋と薄い唇。

 いつ見ても、どこで見ても、この世の全ての美をこの方に集約したのではないかと疑ってしまいますわ)


「どうかしたのか?」


(彼のバリトンボイスもまた美しく、わたくしの耳を潤すようですわ)

 太すぎず細すぎない彼の柳眉が中央により、縦ジワを刻む。


「エリー?」


 見惚れていた婚約者に名を呼ばれ、エリザベスはハッと我に返った。彼女が婚約者に見惚れるのは毎度のことだ。


「…………はい。ソレイル様」

「疲れたのなら、帰ろう」

「えぇ、そういたしますわ」


 不機嫌そうな顔を隠そうともしないソレイルに腕を差し出されたエリザベスは、ソレイルの腕に手を添え会場を後にした。ソレイルの家であるユースリア侯爵家の馬車に乗り込んだエリザベスは再び、見目麗しい婚約者に見惚れる。

 そうこうする内にエリザベスを乗せた馬車は、彼女の家であるカディアス伯爵家に到着した。


 エリザベスと二歳年上のソレイルが婚約者となったのは、今から十年前である。

 ユースリア家の現当主であり、宰相を務めるソレイルの父ソラウスとカディアス家の現当主であり、騎士団長を務めるエリザベスの父アレクライトの二人は幼い頃からの親友だった。


 十一年前、ユースリア侯爵家の領地で天候不良による不作と、それに伴った疫病が流行してしまう。自分が治める領地にいる民のため、ユースリア家は私財を擲ち、救おうとするも一歩及ばず、甚大な被害を出してしまう。そこへ親友の領地が大変な状況にあると知ったアレクライトは、無償でソラウスのためユースリア家を支援した。


 一年ほどが経ち、漸く一息つけるようになったソラウスは、アレクライトの支援に感謝し自分の息子ソレイルと年頃の近いエリザベスの婚約を持ち掛けた。

 互いに気心知れていたこともあり、アレクライトは一も二も無く応じ二人の婚約が成立したのだ。


「ソレイル様。本日の付き添いありがとうございました」

「いや。婚約者なのだから、気にしなくていい」

「相変わらず、お優しいのですね。ですが、お忘れにならないで下さいませ。わたくしはいつでも、あなたからの婚約破棄をお受けいたしますわ」

「……そうか」


 ニッコリ微笑むエリザベスに、ソレイルの心は困惑する。

 いつだったか正確には覚えていない。ある日突然エリザベスはソレイルにこう言うようになったのだ。

 最初の頃は、どこが気に食わないのだとイライラもしたし、問い詰めもした。だが、エリザベスはソレイルが質問する毎に「嫌なところなどありません。わたくしにはもったいないほど素敵な婚約者様ですわ!」と返してくる。

 そうして悩むうちソレイルは、ナナリーとのことに思い当たる。


(きっと、彼女は、私とナナリーの事を誤解しているのだろう。嫉妬もしてくれない程嫌われたのかもしれない。元々私は口下手で、彼女を褒める言葉も上手く伝えられないでいる。それなのに……己の心がこれほど痛いとはな……)


 婚約破棄という単語を聞く度ソレイルは、婚約者にいつか本当に破棄されるのではないかと怯え、ただ、ただ、そうかとしか返せなかった。


 ソレイルの乗り込んだ馬車を見送ったエリザベスは寂し気に微笑み小さな声で「どうか、あなたの好きな方と……上手くいきますように」と独り言ちる。



******



 学園に通い始めて早四年。エリザベスは見慣れた校舎を見上げ、己の頬を叩くと教室に向かい歩き始めた。


 十二歳から十八歳まで通う六年生のアルフォリア王立学園は、平民、貴族問わず一定の学力がある者を受け入れている。そのため創立以来、学園内では生徒全員が平等であるべしと言う風潮があった。

 左右に三棟ずつ立てられた校舎の右から二棟目にあたる校舎に入ったエリザベスは、一階から三階まで続く階段を登りながら先ほど見た、光景を思い出す。


 誰もいない中庭の隅――人目のない場所で、婚約者であるソレイルは毎朝同じ平民の女子生徒と過ごしている。

 腰まである淡いピンクの髪を空色のリボンで一つに纏め、キラキラとした海色の瞳をした可愛らしい声の美少女――ナナリーとエリザベスには一度たりとも見せたことのない破顔とも思える表情で彼女の話を聞いているソレイルが、二人人気のないベンチに座り談笑していた。


 初めて目撃した時――エリザベスが学園に入学して二週間すぎた頃――は、大好きな婚約者の浮気に目の前が真っ暗になり、その場から動けなくなってしまったほどだった。

 直ぐに問い詰めようとエリザベスは考えた。だが、問い詰めてソレイルに嫌われるのが怖かった。


 それからは怒涛の毎日だった。

 ソレイルとナナリーの朝の密会は、侯爵子息と平民の叶わぬ恋の逢瀬として女子生徒の間で噂となり、二人の恋路を応援する者達はエリザベスを邪魔者として扱い。学内でソレイルに話しかけようものなら、あることない事言われるようになってしまった。


 そんな悶々とした日々を過ごす内に、エリザベスの中でどうせ、自分は愛されていないのだから、愛し合う二人の邪魔はせず、愛しいソレイルのために己が身を引くべきではないかと言う考えに至る。


 結果、事あるごとに彼のためと痛む心に気付かぬふりをして、婚約破棄の話をすることにしたのだ。


(長くても一年だと思っていたのに、どうして……?)


 エリザベスの思いとは裏腹に、ソレイルは一向に婚約破棄を言い出さないまま三年の月日が流れていたのである。

 

 教室へ向かう廊下を歩くエリザベスの姿を見た者達がまたもヒソヒソと話す。見慣れた光景と言えど流石のエリザベスもあることない事言われすぎて辟易していた。


「あら、エリザベス様。おはようございます。今日の髪型も素敵ですわね」


 教室に入るなり、エリザベスの唯一の友人あり、兄の婚約者でもあるジョルソ伯爵家のアマレイが笑顔を浮かべ挨拶をして来る。そんなアマレイにエリザベスも答えつつ席に着いた。

 

「今朝もでしたわね」

「えぇ、そうね。仲睦まじいご様子でしたわね」

「わたくしなら、その場に乗り込んで叩きのめしていますわ!」


 腹を立てることすらも疲れてしまったエリザベスの代わりに、忌々しそうに顔を顰めるアマレイにエリザベスは心から感謝する。


 朝一番の授業は、と確認していたエリザベスの耳に「いらっしゃったわ。ナナリーよ。今日も相変わらず愛らしいお姿ですわね」と誰かの声が届く。

 ほうっと溜息を吐き出すような声につられるように顔を上げれば、丁度ナナリーが教室に入ってきたところだった。


 不意にあった視線の先でナナリーはニッコリと愛らしく微笑む。

 ここで微笑み返せばいいのだが、悪意などなく彼女に対しエリザベスが何かをすれば、また周囲に苛めている誤解される。その恐怖がエリザベスの心と身体を萎縮させ、どうしていいのか分からず俯くことしかできなかった。



*******



 四年生も残り数か月となった初冬の放課後。

 いつも通り帰る前に図書室に向かうエリザベスをナナリーが呼び止めた。

 ナナリーとはこれまで数回会話を交わしたことはあるが、あくまでも教師の用事をナナリーが言付かってきた場合のみでエリザベスから話しかけたことはないし。ナナリーからもエリザベスに話しかけてはこなかった。


「あの、エリザベス様。もしよければこの後少しお時間を頂いていいですか?」


 海色瞳をうるうると潤ませエリザベスを見つめるナナリーに不審に思いながらもエリザベスは頷き、彼女について歩く。

 廊下を進み、階段を下りる度に異色――ヒロインと悪役の組み合わせを見た者達が好奇の視線を向ける。


(どこまでいくのかしら? 話なら廊下でもいいはずなのだけど……?)


 不安を押し隠しナナリーについて歩けば、毎朝ソレイルとナナリーが密会しているベンチへと連れてこられた。ベンチの前で足を止めたナナリーは、エリザベスに向き直る。その瞳は悲し気に揺れながら真っすぐとエリザベスを見ていた。


「あの。不躾だとは思います。それでも、あたし……ソレイル様の事が好きなんです! だから、ソレイル様との婚約を解消してください。お願いします」


 大きな海色の瞳に涙を貯めて懇願するナナリーの姿は、同性であるエリザベスでも庇護欲をそそる。

 ナナリーの言葉に、エリザベスの切り刻まれた胸がチクりと痛む。それをなんとか堪え、エリザベスは二人のためにどう答えればいいのか思案した。


 この婚約はあくまでも家同士――父親同士が決めた取り決めであり、エリザベスがいくら了承したところで、父親が許すとも思えない。更に、家格が下のエリザベスの方から、婚約を破棄する事ができないのだ。

 

(なんと答えればいいのかしら? わたくしは、ソレイル様に何度も婚約破棄を受け入れると伝えているのだし、ソレイル様から言って下さらない限りこちらから破棄は出来ないのよね。ソレイル様は彼女にそれを伝えていないの?)


「お願いしま――きゃっ!」


 考えに没頭してたエリザベスに懇願するように数歩前へ出たナナリーが、可愛らしい悲鳴をあげ突然後ろ向きに倒れ尻もちをついた。


「だ、大丈夫ですか? 怪我はございませんの? あら、制服が汚れてしまっているわ」


 声をかけ座り込むナナリーにエリザベスは慌てて駆け寄る。そこへ、第三者――ソレイルの「何があった!」と言う怒声混じりの声がした。


「ソレイルさまぁ~」

「エリー、何があった?」


 媚びるような声音でソレイルの名を呼ぶナナリーを助け起こしたソレイルが、ナナリーの側にしゃがみ込むエリザベスを呼ぶ。責めるような声音ではないものの他の生徒同様にソレイルにも誤解されるのではないかとエリザベスは血の気が引く思いで顔をあげた。


「違うんです、ソレイル様。エリザベス様は何も悪くないんです! あたしが、あたしがソレイル様とのことをお伝えしたから!」


 ソレイルの腕に絡みつき空色の瞳から大粒の涙を流し、誤解を解こうとしているような口ぶりで言い募るナナリーの声にソレイルが「それで突き飛ばされたと?」と険しい表情でエリザベスへ問いかける。


(やっぱり、そうなのですね)


 ソレイルの言葉にエリザベスの全てが絶望に染まった。


「えぇ、そうですわ。わたくしが突き飛ばしましたの。ナナリー様は、ソレイル様をお慕いなさっておいでのようで、婚約の破棄をわたくしにお願いされましたの」


 投げやりになったエリザベスは冤罪ですら自分がしたことだと告げる。柳眉を寄せ、深い溝を刻んだたソレイルはただただエリザベスの言葉を聞いていた。


「ですが、わたくしとソレイル様の婚約は父親、ひいては家同士の事です。一方的にわたくしがいくら婚約破棄を申し立てたところで、貴方様より家格が低いわたくしの言い分は通りませんわよね?」

「あぁ、そうだな」


 認める言葉を発したソレイルはエリザベスの双眸に雫が溢れるのを目にして、己の中に焦りを感じた。


「ですから、わたくし……お二人の逢瀬を邪魔しませんでしたし、申し上げて来ましたでしょう? いつでも婚約破棄は受け入れると、愛し合うお二人の邪魔をするつもりはないのです。それに、わたくしが何を言っても……貴方も、周りの人たちのように……わたくしの言葉を……聞いては……信じてはくださいませんもの」

「……どういうことだ?」

「わたくしが、この四年、どれほどのことに耐えたとお思いですか? 貴方が、さっさと婚約を破棄して下さらないだけで……ソレイル様の婚約者でいるだけで……貴方が、ナナリーと毎朝……逢瀬を重ねる度に……わたくしは……周囲には邪魔者と罵られ……陰口を言われ……続けてきたのです。もう、十分でございましょう? わたくしが……ソレイル様に何をしたのですか? それほどまでに……わたくしは……恨まれることをしたのですか?」


 学園に入学してから四年心を殺し耐えていたエリザベスは、ついに胸の痛みに耐えきれなくなってしまう。ずっと堪え続けた思いのたけを、険しい顔をしたソレイルに向け吐き出す。それと同時に、エリザベスの淡い金の瞳から大粒の涙が流れ落ちた。


 溜まった鬱憤を全て吐き出すエリザベスは、あふれ出した涙を必死に堪え、最後の言葉を紡ぐ。


(最後ぐらい、愛する方に思いを告げて、笑顔で、淑女らしく、お別れするのよ)


「ソレイル・ディ・ア・ユースリア様。わたくしは、貴方様の婚約者に選ばれた事、心より嬉しく思っておりました。また、物心ついた頃からずっと、ずっと貴方様をお慕い申しておりました」


 再び溢れ出る涙を俯き堪えて顔をあげたエリザベスは、ソレイルとナナリー二人にそれぞれ一度だけ視線を向け微笑みかける。


「お二人のこれからに幸多からん事を――」


 ――願います。と続くはずだったエリザベスの声が、言葉が、力強く腕を引かれたことによって途切れてしまう。バランスを崩しながら前へと引っ張られたエリザベスは、ソレイルの腕の中に抱き寄せられた。


「そ、それいるさま?」

「ソレイル様!!」


 戸惑うようにソレイルの名を呼んだエリザベスの声は、ナナリーの叫ぶ声にかき消される。

 そんな二人に構わずソレイルはエリザベスの小さな体を鍛え上げた体躯で包み込む。エリザベスから仄かに甘く、落ち着く香りが鼻腔を擽った。


「エリー。私はナナリーを愛してなどいない。私が恋焦がれ続けているのはエリー、君だけだ。君を傷つけ、泣かせてしまった。すまない。どうやって許しを請うかは、きっちりこれから考える。だから、どうか、私を捨てないで欲しい」


 婚約して十年、ソレイルは初めてエリザベスを見た瞬間恋に落ちた。これまで何度も好きだと伝えようとしのだが、その度にエリザベスに自分は愛していないと言われる事が怖かった。だからこそ、今までずっと自分の思いに蓋をしていた。


(私は間違っていた。エリザベスに思いも伝えず、彼女ならわかってくれるのではないかと、きっと待っていてくれるのだと、勝手に思い甘えていた)


 その思いこそが愚かだったのだとソレイルは、エリザベスの細い身体を両手で労るように抱きしめ何度も繰り返し「すまない」と謝罪の言葉を口にした。その度にエリザベスは首を振る。

 エリザベスの健気さに、ソレイルは愛おしむように濡れたエリザベスの頬に、額に、何度も何度も口づけを落とした。


「ソレイルさま。どうして……」

「エリー、すまない。全て話すよ」


 ソレイルの話は、入学式当日まで遡る。その日ソレイルは浮かれ、失態を犯してしまう。


 エリザベスが通るであろう玄関口から校舎に続く渡り廊下で、エリザベスの制服姿を見て「素敵だ。良く似合う」と褒めながら、母から譲り受けた――代々の侯爵夫人が受け継いできた指輪を渡すために待ち伏せをしていた。

 本来であれば学園に指輪など持ち込まない。だが、二人きりになるとどうしても指輪を渡す勇気がでなかった。そこで、ソレイルは考えた。学園の入学はある意味で大人への第一歩とみなされる。そこでなら、エリザベスに母から譲り受けた指輪を渡せるのではないかと……。

 

(今度こそ失敗しない)


 そうして十分、ニ十分と時間が過ぎる中で、漸く待ち焦がれたエリザベスが姿を見せた。その姿にソレイルは偶然を装うため気合いを入れて歩き出す。

 真新しい白に濃紺のライン入りのブレザーと踝まである濃紺のスカートを纏ったエリザベスの背中へ向けて声をかけようと手を伸ばしたその時――。


 勢いよくソレイルの行く手を阻みぶつかってきた女子生徒が居たため二人して転倒してしまう。それがナナリーだったのだ。


 ソレイルは尻もちを搗く形で座っている彼女に慌てて駆け寄り「大丈夫か?」と声をかけ手を差し出した。そこでソレイルは気付いた。差し出した方の手に持っていたはず指輪がない事に。ソレイルは焦り、ぶつかった女子生徒を放置してそこら中を地を這うような体制で、何日も探し回ったが指輪は見つからず……。

 

 そうして二週間が過ぎ、日課となってしまった指輪を探すため渡り廊下へ移動したソレイルの前に、ナナリーが再び現れた。ナナリーの足には何重にも包帯が巻かれており、歩く度に足を引きずる様は痛々しそうに見えた。

 入学早々にソレイルとぶつかったために負った怪我ならば、貴族の男児としてそれなりの対応をしなければならない。父の言葉を思い出したソレイルは、自分のせいかもどうかもわからないナナリーの怪我に一も二も無く謝罪した。


 人の好きそうな笑顔を浮かべ「良いんですよ。だってこれはあたしの不注意だから」と両手を振るナナリーに、ソレイルは「どう償えばいいだろうか?」と問いかけた。

 すると「平民のあたしじゃ、貴族の人と上手く話せないんです。だから……先輩も貴族の人っぽいし……その嫌じゃなかったら、話し方を覚えるために朝の時間だけ、話し相手になってもらえませんか?」とナナリーが寂しそうに笑った。

 ナナリーを不憫に思ったソレイルはそれを了承した。その結果、毎朝、彼女と会話する事になったのだ。


 ひとしきり語り終えたソレイルは「エリー。私は君以外に心を移してなどいない。許してくれなくてもいい。だけど、今だけは私を信じてくれ」と懇願するようにエリザベスを見つめる。ソレイルの言葉を黙って聞いたエリザベスは、彼を信じたいと心で思いながら信じられないと頭が拒否する状態になり、どう答えていいのか分からず沈黙するしかなかった。


 それまで蚊帳の外に追い出されていたナナリーが、顔をあげ真っ赤にしたまま勢いよく立ち上がり、ソレイルの腕を引っ張る。


「ど、どういうことですか? ソレイル様は、あたしを、あたしを好きになってくれたんじゃないんですか!」


 不機嫌を通り越したソレイルは顔をあげる。その顔は、これまで決してナナリーに見せた事が無い冷たいものだった。


「私は、お前を好いても居なければ慕ってもいない」

「だって、毎朝一緒に話してたじゃないですか!」


 これ以上邪魔はさせないとばかりにソレイルは、きっぱりと否定する。だが、ナナリーはそんな思いなど知らず食い下がった。


「それは、お前が私のせいで怪我をしたと言うから、責任を取る形で慣れるまで毎朝話すと約束したからだろう? 三ヵ月もすれば普通は慣れるはずだろう? それに私は見たんだ。お前が同学年の伯爵家の男と話しているのを。だから、次の日の朝には、もう約束は果たしたと伝えただろう? それでも毎日、毎日待ち伏せしては話しかけて来たのはお前だろう! 私からお前に話しかけたことがあったか?」

「それは……でも、じゃぁなんで朝、一緒いてくれたんですか? 嫌なら即座に帰ればいいじゃないですか!」

「そうしないと昼休憩も放課後もしつこく追いかけまわしただろう!」


 腕の中にエリザベスを閉じ込めたままのソレイルは、怒気強く答える。


「そんな! あたしといると楽しいっていつも笑ってくださったじゃないですか! それって、エリザベス様よりもあたしの方がいいって事でしょう?」

「……はぁ。まず訂正するが、楽しいと思ったことなど一度も無い。私が笑っていたのはエリーの話を君に振られた時だけのはずだ。それから、エリーとお前とでは比べるべくもなくエリーを選ぶに決まっているだろう! 」


 あの時勢いよくぶつかってきたナナリーは、ソレイルが別の場所を探している内にこっそりと自分の足元に落ちていた高価そうな指輪を拾う。その指輪がなんであるかはナナリーが、ソレイルと朝過ごすようになって知った。


「これだって、ソレイル様がくれたじゃないですか!」


 ナナリーの指に嵌った指輪を見たソレイルは絶句する。今の今まで必死に探していた指輪が、まさか、ナナリーの元にあるとは思わなかったのだ。


「何故、お前がそれを持っているんだ! 今すぐに、指輪を返せ! でなければ、泥棒として憲兵に引き出すぞ!」


 怒りが爆発したソレイルは大きな声で、叫ぶ。その声を聞きつけた生徒たちがでば亀よろしく、好奇の耳目を傾けている。それに真っ先に気づいたエリザベスはソレイルの腕を軽く叩き放すように訴えるも、ソレイルの腕はピクリとも動かない。


「酷いです。あたしに……くれた……のに!! だましてたんですね!」

「騙す? 私が? それに何の意味が、利があるんだ。だいたい、私が愛しているのはエリーだと君に何度も言ったはずだ。それなのに勝手にエリーに婚約を破棄してくれと言ったり、何もしてないエリーを悪し様に言って変な噂をでっちあげたり、私がこれまで動けなかったのはお前が、ベルグ公爵家の庶子だと嘘を言ったからだ。その真偽がはっきりするまでの間、動くことが出来なかっただけだ」


 力強く否定するソレイルが再び仔細を口にする。


 ナナリーと朝過ごすようになって三ヵ月目の頃、ナナリー自身がソレイルに言っていた。

「あたし、実はある公爵様とメイドの子らしいんです。お母さんは早くに亡くなっていて、育ててくれた叔母に聞いたら母は、ベルグ公爵家に勤めていたと教えてくれたんです」と。

 ナナリーの発したその言葉は、貴族階級に属するソレイルにとって非常に抗い難く、足枷となってしまった。


 貴族階級の頂点とも言える公爵家は、国王陛下にお世継ぎが無い場合、国王についで王位継承権を持つ家の事だ。そのため公爵家は、ハウゼス家、グルード家、ベルグ家、フェリアル家の四家しか存続を許されていない。

 其処へ来て、ナナリーの公爵とメイドの子供と言う発言だ。もし本当であれば、ナナリーは王家の血を引く者であることになる。


 だからこそ、ナナリーがエリザベスを貶す事や虐める事に対してソレイルは動けなかった。ソレイルが庇うことでナナリーを逆なですれば認知された場合、家格が低い伯爵家のエリザベスを守る事ができなくなってしまう。


 そこでソレイルは王族への不敬に当たらないよう慎重に。そして、ナナリーに知られないよう秘密裏に探偵を雇い調べてもらったのだ。エリザベスを守るために、余りにも事が大きかったため裏がとれず予想外に三年もの月日が掛かってしまったが……。


 放課後になり調査の結果が届いた。結果は、否だった。公爵自身、ナナリーの母であるナタリアを知らないと告げたそうだ。その事実にソレイルは騙されていた事を知り怒り狂った。すぐに結果をナナリーに突きつけ、嘘を暴くためナナリーを探していた。そんなソレイルの視界にナナリーと連れ立って歩くエリザベスを見つけ、ソレイルは二人を追いかけた。


 二人に追いついたソレイルの前で悩んでいる様子のエリザベスへ歩み寄ったナナリーは、悲鳴をあげながら勝手に倒れ込んだ。何故そんなことをするのかと不審に思いながらエリザベスへ問いかけた――というのが事の顛末である。 


(ソレイル様はお一人で戦っていらしたのですね。それなのに、わたくしは……この方の想いを踏みにじる事ばかり言って……)


 ソレイルの言葉にエリザベスの涙腺が崩壊する。エリザベスは己の浅はかさを恥じると共に、ソレイルの言葉が本当であると信じる事を決意した。


 全てを語り終えたソレイルに、四年間で初めてナナリーの顔色が変わる。それに構わずソレイルが「お前の顔など二度と見たくない。直ぐに指輪を置いて私の前から消えろ。出なければ……お前の嘘をご本人に伝える!」と吐き捨てた。

 二人のやり取りを傍観していた周囲の生徒たちが、ナナリーを指さしヒソヒソと話す。


 そこで漸くナナリー自身が、今、どういう状況にあるのか理解し。

 急ぎ左手に嵌めていた指輪をナナリーは引き抜き、ソレイルの方へ投げ捨てた。

「あたしの方が可愛いのに! 絶対、絶対許さないんだから! 覚えてなさい」と、捨て台詞を残し走り去った。


「あの……ソレイル様。その、人の耳目を集めていますから、いい加減お放しください」


 未だにソレイルの腕に囚われているエリザベスが金の瞳を潤ませ、頬だけではなく全身を真っ赤に染め上げながらソレイルに懇願する。


 初めて見る可愛いエリザベスの姿に愛おしさが募るソレイルは、真っ赤に染まったエリザベスの耳元で「愛してる。エリー」と色香漂う声音で告げる。

 甘く微笑んだソレイルは、エリザベスの左手を取ると跪き、彼女の薬指に帰ってきたばかりの指輪を嵌め、指輪に軽く唇を当てた。

 ソレイルの愛の破壊力に負け、ヘナヘナと力なくその場にへたり込んだエリザベスは余りの恥ずかしさに顔を両手で覆う。


「エリー。帰ろう」

「……はい」


 ソレイルの手をしっかりと握るエリザベスの左手には、侯爵家の色を持つ空色の宝石が夕日に照らされキラリと瞬いた。


 そうして、ソレイルが学園を卒業するその日まで、食堂や図書室、中庭で愛おしそうに婚約者に構うソレイルと顔を赤く染め恥ずかしそうに俯くエリザベスの微笑ましい姿が目撃された。


 あの騒動でナナリーは学園から姿を消した。ソレイルは、ナナリーの件を父親に伝え、彼女は大罪人として指名手配を受ける。だが、その消息は不明。

 ナナリーが姿を消してから数週間経った頃。エリザベスは夜会で、別の国でナナリーが貴族男性に取り入ろうとして媚びを売り、執拗に追いかけまわした挙句、憲兵に突き出される形で捕縛された事を知った。最後の最後までナナリーはしつこかったらしい。


 それから二年が経ち、エリザベスの卒業を待ってソレイルとエリザベスの結婚式が、盛大に行われたのだとか――。

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