棗颯介

 ◆出会い


 最初に彼と出会ったのは高校二年生の頃。

 部活終わりで額に滲む汗が気持ち悪くて、一刻も早く家でシャワーを浴びたかった。どうせもう汗をかいているのなら走った方がいい。暗く重い雲の下で私は一目散に家路を駆けていた。危惧していた通り、走り始めて何分もしないうちに雨が降ってくる。


 ———え、あれって。


 ふと、大通りから延びる細い脇道の先に、見覚えのある背中が見えた。

 暗がりで何やら蹲っているけれど、あれって多分———。


「——君?」

「……?——さん?」


 そこにいたのがクラスメイトの彼だった。ちょっと前髪が長いから目元がよく見えないのが特徴で、クラスでも友達が少なくて影が薄いもんだから誰の目にも映らない“メカクレ”なんてあだ名が一部の同級生につけられているのを私は知っている。そんな友達の少ない男子生徒に、女子生徒の私が話しかけることなんて当然あるはずがなかった。


「何やってるの?」

「いや、別に」


 雨の中で一人暗い路地裏で蹲ってるなんて、もしかして体調でも悪いんだろうか。そう思って近づいてみると。


「……猫?」


 しゃがみ込む彼の前には血に塗れた猫の死体があった。車にはねられでもしたのだろうか。振ってきた雨で血が地面に流れているのが分かる。雨で薄まった血が地面に吸い込まれる様が妙にリアルで、見ているだけで痛々しかった。


「ちゃんと、埋めてあげないとね」


 彼は血で服が汚れるのも構わず猫を抱えて立ち上がった。


「ちょっと、この雨の中で?傘は?」

「ないよ」

「それじゃ風邪ひいちゃうよ。せめて雨が止むまで待っても……」

「気にしないでいいよ」


 私の言うことになど耳を貸さずに、彼はその場を去ってしまう。

 いつもは暗くて目立たないその背中が、その時だけは優しく見えた。よくベタな恋愛漫画だと捨て犬に餌をあげてる不良の男の子に主人公の女の子がときめくみたいな話があるけど、そういうのって現実でもあるんだなぁなんて、他人事のように私は思っていた。


 彼が去った後に、私は家には帰らず近場のコンビニに駆け込んで彼のための傘を買いに行った。なんとなく、放っておけなかった。

 彼は、河川敷の橋の下にいた。


「もう、埋葬は済んだの?」

「……まだ帰ってなかったの?」

「風邪ひくって言ったのに」


 半分呆れながら私は買ってきた傘を彼に差してあげる。

 呆れてはいたけれど、でもどこか彼を見直している自分もいて。

 彼は反応に困ると言いたげな複雑な表情を浮かべていた。


「ここ、橋の下なんだけど」

「いや、そこは空気読んでよ」


 数秒の無言の時間が流れ、やがて私たちはどちらからともなく笑いだした。


 ◆恋人


「私たちさ、付き合ってるって言えるのかな」

「……どうだろ」


 学校帰りのスタバで、私はそれとなく彼にそう聞いてみた。

 彼はいつも通りの興味のなさそうな表情で、さらに言うといつも通りの不機嫌そうな目つきの悪い顔で、いつも通りお気に入りのダークモカチップフラペチーノのトールサイズを黙々とストローで飲んでいた。


「別にさ、そういうのじゃなくていいんじゃない」

「なんで!?」


 正直心外だった。別に私は絶世の美少女とまではいかないがそれなりに男子からはモテている方だ。いやそれより、女の子にここまで言わせておいて相も変わらずの無関心を貫く彼の朴念仁っぷりに落胆すら覚えた。


 ———結構、いい感じに仲良くなれたと思ってたのに。


「行き過ぎた幸せは後が怖いし」

「え?」

「良いことが立て続けに起こったり、どうしようもなく嬉しいことがあると、そのぶん後からツケの不幸がやってくる気がして」

「何それどういうこと?」

「人が一生のうちに経験する幸福と不幸の割合は同じらしいよ」

「だから?」

「だから、過ぎた幸福は俺にはいらない」

「それって、私と付き合うことは君にとって幸福ってことでいいのかな?」

「……」


 彼は何も言わずにダークモカチップフラペチーノのストローに口をつける。もう中身は空なのに。

 本当に素直じゃないんだから。最初に話したあの日からずっとそう。口数が少なくて自己評価が低くて。そんなだから周りに誤解されるんだよって言っても、「自分に自信なんか持てるわけない」とか卑屈なことばっか言って。まるで思春期の手のかかる子供を持ったような気持ちになる。

 そういういじらしいところが、どうしようもなく私の心をくすぐるんだから。


「ねぇ、——君」

「なに―——」


 顔をあげた彼の唇に、私はやや強引に自分の唇を重ね合わせた。

 初めての彼の味は、チョコチップの味がした。


 ◆結婚


「今日で付き合って十年になるね」

「そういえばそうだっけ」


 奇しくもその日は十年前と同じように二人で喫茶店に来ていた。

 十年経って、私と彼は社会人になった。お互い別々の職場で働いてはいるけど、なんだかんだ言って彼との交際はここまで続いているんだからきっと縁があったんだろうと私は思っている。

 彼は、あの頃からほとんど変わっていない。自分に自信がなくてネガティブなのは女性経験が少ないからなのかななんて最初は思っていたし、そんな彼を変えることが私の役目だなんて勝手な義務感に燃えていた時期もあったけれど、結局彼は十年経っても彼のままだった。謙虚で人付き合いが下手で、無私無欲で。社会人になってお金も稼げるようになったんだから少しは贅沢しようとか思わないのって聞いても、「君がいてくれればそれで充分」なんて言うんだから。決して惚気ているわけではなくて、彼は純粋にそれだけで自分には分不相応な幸せだと思っているんだ。


 そんな彼が、私にプロポーズをなかなかしようとしないのは当然だろう。

 彼女が一人できたくらいでこうなんだから、家庭なんて持ったら一体どうなるんだ。一軒家の中に家族以外何も物を置かないとか本気で言い出しそう。

 でも、私も彼ももうすぐ三十になる。そろそろそういうことを考えていくべき歳だ。


「ねぇ、これからのこと、話さない?」

「え、これからって?」


 ―——あぁやっぱり。先のことなんて考えてもいないんだ。


「私達ももうすぐ三十歳になるわけだしさ。それに女の子って、その、年齢的な問題も……」

「え、ごめん、何言ってるのかよく分からないんだけど」


 ―——あぁもう、どうしてこんなに鈍感なのかな。


 十年前の今日もそうだったけど、デリカシーとかマナーとか気遣いとかそういうのがどうしようもなく下手なのだ。


「だからさ、結婚とか子供とかそういうの!」

「は、はぁ!?」


 思わず店中に響くくらい声を荒げてしまう。他の席に座っている客や店員がびっくりしてこちらを見ていた。


「いや、結婚なんて気が早いだろ」

「はぁ?だって私達もう十年も一緒にいるんだよ?」

「お前も知ってるだろ。俺、父親がいないし」

「知ってるけど、それが何なのよ」


 彼の父は、私たちが付き合い始めてすぐの頃に事故で亡くなっていた。その時期、彼は表には出さなかったけれどひどく悲しんでいた。私と付き合ったから不幸がやってきたんだと、そう考えているのかもしれないと私でも察することができたし、それでもし別れ話を切り出されても仕方ないと思っていた。

 でもそれを乗り越えて私たちは今日まで一緒にいた。だからこれからだってどんな不幸が降りかかってきても二人なら乗り越えられると私は信じてきた。


「父親がいない男と娘が結婚して、お前の親だって良くは思わないだろ」

「なんでそんなこと思うの?」

「なんでって……」

「私は、あなたと一緒にいたい。二人ならどんなことでも乗り越えられるって信じてる。もっと一緒にいたいの。……一生でも」

「……」


 この後いろいろあったけど、結果的にこの一言が彼との結婚の決め手になった。


 ◆出産


「本当に可愛いなぁ……」


 私達の子を抱き上げる主人は目に涙を浮かべていた。主人の嬉しそうな顔を見ると、痛みに耐えてこの子を産んでよかったと心から思える。そしてこの人と一緒になったのはやっぱり正解だったと、今は思う。こんなに嬉しそうな顔を見せた主人はここ最近見たことがない。「子供ができた」と告げたときも、喜ぶ一方で暗い何かを感じさせる表情を浮かべていたから少しだけ不安だったけど杞憂だったみたいだ。


「ねぇ、あなた」

「うん?」

「今、幸せ?」

「うん、すごく幸せだよ」


 迷いなくそう答えた主人に、私まで涙を流してしまう。若かった頃は過ぎた幸福はいらないと散々言っていたこの人が、我が子の誕生を心から喜ぶことができるようになっていたことが、どうしようもなく嬉しくて。


「母さんにも、この子の顔を見せてあげたかったなぁ…」

「うん、今度、お義母さんのお墓に報告に行こ?」


 彼の母は、私たちが結婚してしばらく後に事故で亡くなっていた。父親に続いて母親も失くしてしまった彼は、今度こそ心が折れてしまったと思った。会社も休職して、ろくに食事もとらず、家に閉じこもってばかりで。

 私は毎日彼を抱きしめた。


 ―——大丈夫。大丈夫だから。私はずっと傍にいるから。悪いことが起きても、生きていれば良いことは必ずあるんだよ?あなたが昔言っていたじゃない。「人生の幸福と不幸の割合はみんな一緒だ」って。だから、二人で頑張ろう?二人で幸せになろうよ。


 そして私達の間にはやがて新しい命が宿り、今人生の幸福の絶頂にいる。

 やっぱり、人生は悪いことばかりじゃない。

 辛いことや不幸なこともたくさんあるけど、それと同じだけ幸せなことは世界に満ちているんだ。

 これからは生まれてきたこの子と三人で、一緒に幸せになろう。


 ―——ね、あなた。


 ◆秤


 夜。家族三人で川の字で寝ている布団。

 俺と彼女の間には、先日生まれたばかりの俺達の子供が寝息を立てている。

 今夜は夜泣きが少ないようで、母親になったばかりの彼女も今夜は落ち着いて眠っている。

 あぁ、幸せだ。

 どうしようもなく、幸せだ。

 俺には不釣り合いなほど素晴らしい女性と付き合い、結婚して、子供まで作って。


 自分の子供が生まれてきてくれたという幸せの“対価”は、何を支払えばいいのだろう。

 きっとこれから自分には大きな不運が押し寄せる。もしかしたら会社をクビになるのかもしれない。妻が事故にでも遭うのかもしれない。生まれたばかりの子供が病気にでもかかるのかも。下手したら家族まとめて死ぬのかもしれない。

 やはり、幸福に慣れてはダメだ。幸せであることを当たり前と感じてはいけない。いつかその分の不幸がやってくる。人生というものはバランスを取るようにできている。大きな幸福があれば、その分大きな不幸が訪れる。

 それを回避する方法は、幸福を捨てること。

 自分で不幸になればそれでバランスが取れるだろう。

 今までだって良いことがあるたびにそうしてきたんだ。

 飼い猫を殺し。

 父親を殺し。

 母親を殺し。

 じゃあ、次は———。


 俺は、子供を起こさないように布団を跨ぎ、愛する妻の首に手をかけた。

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棗颯介 @rainaon

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