第12話
――――頭が痛い。
なにかの前触れか、或いは誰かの痛みが伝播したのか。ヒトの息遣いを思わせる断続的な痛みが、龍二の額を支配する。
翌日は秋雨前線の影響で、早朝からしとしとした雨が降り注いでいた。
そのせいなのか、今日はやけに冷え込む気がする。
開け放した窓から湿り気のある空気を受けて、天井のシーリングファンが揺れる。乾かない洗濯物を引っ掛けた物干し台が、狭い部屋の一角を占拠していた。湿気を帯びた風ですら、痛みのせいですっきりしない頭には心地よく感じる。
朝食の席は葬式のように静まり返っていた。ナイフが温かいホットケーキを切って食器に当たる音と、熱いコーヒーを淹れたマグカップを置く音のみが支配する空間。
いつもなら当たり前にあるテレビの音さえしない、なんとも居心地の悪い食卓だ。いつもなら好きなブラックコーヒーの芳ばしい香りがしても、いまはなんとも思えない。
「マリア」
どうにか習慣化した朝の挨拶すら無視されたのなら、呼びかけに素直に応じるとは思っていない。しかしそれでも、なにかの拍子に答えてくれるんじゃないかと期待してしまう。
だがその期待も無駄に終わった。
「マリア」と改めてもう一度呼ぶ前に。
「ごちそうさま」
つっけんどんに言い放って勢いよく立ち上がったマリアは、綺麗にさらった空の皿とマグカップをシンクに漬けてから乱暴な足取りで玄関へ向かった。靴を履いている。外に出かけるようだ。
龍二と一緒にいたくないのだろう。その感情が表情にも纏う空気にもありありと見て取れて、龍二のこころにちくりと突き刺さる。
しかしそれでも、
「今日の夕飯は、お前が好きな鶏の唐揚げにするからな!」
部屋を出て行く背中に投げかけた言葉へ対する返答は、ないまま。
シーリングファンの音が、いつもより響いているような気がするほどに、部屋のなかは静まり返っていた。
「…………っ!」
龍二は右手に握っていたフォークを乱暴に皿へ投げ、額に感じた疼痛を抑え込むみたいに手のひらで押さえる。しかし痛みが引くことはなく、むしろ強さを増した。まるでこころそのものが、痛みを叫んで訴えているかのように。
昨夜の彼女が言わんとしていた《想い》を、龍二は痛いくらいによく知っているつもりでいた。これまでずっと一緒にいた二年という時間が、錯覚させていただけだ。
交わることなくすれ違い、痛みを伴う軋轢が生じているふたりの関係。
だけどわかって欲しい、と切に願わずにはいられない。いつだってマリアに求められた【痛み】は、龍二にとって救いようのない苦痛でしかなかった。
自分の願いが自分勝手の独り善がりだと、よくわかっているつもりだ。
だがいまなら、もしかしたら。ほんの少しでも受け入れてもらえるのではないかと、甘く考えていた。
誤魔化しきれない甘えだ。彼女の想いを無視しているにもほどがある。
でも、だからといって。
――――俺はどうすればよかったのか……なんて言えばよかったのか。思ってもいない嘘を並べ立てればよかったのか。
今更になってそんなことばかりが、龍二の頭を永遠に巡っていた。
そのあとは龍二自身、どこでなにをしていたのか覚えていない。今日は本部に報告へ向かうことになっていたから、ほとんど意識が沈んだまま身支度を済ませて家を出た。
自分がどういう道を通ってきたのかすら、覚えていない。
「水神くん」
今朝方に出て行ったマリアの背中ばかりが頭に浮かぶなかで、誰かに呼ばれる声がうっすらと耳に入る。しかしそれでもマリアのことしか考えられない龍二の肩を、誰かが呼びながら強めに揺らした。
「水神くん?」
ようやく現実に戻った切っ掛けは、ヒズミに何度も呼びかけられた声だった。
水底に沈んでいた感情という名の鉛が、不意に浮き上がって水面へ現したような衝撃を受ける。目を覚ましたように瞼を瞬かせると、心配そうに眉をひそめたヒズミの姿が龍二の目に飛び込んできた。
ヒズミのこんな表情は初めて見た気がする。先ほどまではヒズミが座っていたようだ、黒い革張りの椅子がわずかに揺れていた。
「す……すみません、聴いてませんでした!」
仕事なのに身が入らないまま上の空で、憧れのヒズミにこんなにも心配をかけてしまったことを恥ずかしく感じた。穴があったら入るどころか、埋まりたいくらいだ。
ヒズミの背後、全面ガラスの向こうに広がる景色を見渡せば、陽がだいぶ傾いている。雨はもう降っていなかった。
しかしヒズミが龍二を叱ることはなく、むしろ。
「いや、ただの世間話だよ」
相変わらずの穏やかな微笑みを湛えて、ヒズミは椅子に座り直した。いかにも高級そうな椅子は重みを感じて悲鳴のような軋みをあげることはなく、背の高いヒズミを余裕で迎え入れる。
「珍しいね。君がぼんやりするなんて」
ヒズミがコーヒーの代わりに、紅茶の缶を取り出して龍二に勧める。
見ればローテーブルに置かれた龍二用に出されたコーヒーは、すっかり冷めていた。いったいどれだけの時間、ぼんやりしていたのだろうか。
申し訳なさがさらに増し、これまで以上に頭が上がりそうにない。
「すみません……」
「謝らなくていい」
言われて有り難く紅茶の缶を受け取り、勝手知ったるとばかりに茶器のセットを用意しはじめた。部屋の隅に置かれた棚のなかからアンティークのティーカップ二個と同柄のポットを取り出し、茶葉を二人分掬う。
保温中の電気ポットからお湯を注いだ途端に、茶葉の豊かな香りが龍二の鼻を掠めた。
龍二も知っているようなアールグレイやダージリンとは違う、草っぽさが強いハーブのような香りだ。さりげなく缶へ目を移すと、装飾的なアルファベットで『カモミールブレンド』と書かれていた。
ハーブティーにはリラックス効果があるなどと、以前にマリアが話していたことを思い出した。確かに茶葉の香りを嗅いでから、ほんの少しだけこころが落ち着いてきた気がする。
ヒズミなりのさり気ない気遣いを噛み締めて、龍二は淹れたてのお茶のうち一個をヒズミの机に配膳。残った一個を自分用として持って、来客用のソファに腰かけた。
樫材の机上には見慣れた硝子製のチェスセットが置かれており、透き通った白が詰んでいる。白のキングは斃れ、黒のナイトが誇らしげに立っていた。
「なにか気掛かりなことがあるのかな?」
ヒズミがそう切り出したのは、龍二がハーブティーに口をつけてから五分ほど時間を置いたあたりだった。
「あ……いや、その……」
龍二の言葉が泳いだ。まだ感情の整理をしきれていないようだ。
歯切れの悪い、言葉にならない声が続く。物言わぬ黒い騎士と見詰め合っているような気がして、龍二はチェスセットから目を逸らした。
なにを話せばいいか、どこから話せばいいかわからずにいる龍二の右手が、助けを求めるように愛刀の柄を握ったり離したりしていた。
彼が言葉を選ぶあいだ、ヒズミはハーブティーを口に含んでゆったりと待っている。決して急かさず、しかし無理に話さなくても叱りつけない確かな包容力を感じさせた。
やがて。
「……司令」
眼差しは真っ直ぐと、しかし救いを求める弱った仔犬のように。
ヒズミを映す龍二の黒い瞳が、風を受けた湖面に似て揺らめいている。なおもヒズミの瞳は龍二の視線をしっかり受けとめ、彼の言葉を待ち続けた。
揺らぎ続ける湖面に投擲されるは、小さな一石。
「くだらない、かもしれない……質問しても、いいですか?」
ヒズミの表情は湖面に映る星空のように穏やかでなにも変わらず、形のいい長い指を組んで顎を支え始めた。
「私に答えられるものなら、なんでも」
そう答えるヒズミの人のよさを感じつつ、しかしこの期に及んで龍二の胸には迷いという靄に覆われていた。
――――こんなこと訊いてどうするんだ、呆れられちまうだろ。
思いつつもヒズミの答えに興味を隠しきれないし、藁をもすがる、とはきっとこのことなのだろう。彼の答えによってなにかが変わることを期待し、同時に彼によってマリアの想いを否定したいと願っている。
自分勝手な我儘で、他人任せにも程があるとわかっている。マリアの想いを踏みにじるうえに、憧れのヒズミへ責任転嫁しようとしているのだ。
それでもなお、龍二はヒズミに期待を寄せていた。関係のない他人に結論を委ねたくなくほどに、龍二の心は深く深く追い詰められている。
「司令は……もし自分がアンデッドになったら、どうしますか?」
口にした途端にまず思ったのは、ヒズミの答えがどんなものか、ではなく。
拡がる自分の声が、なぜか遠くにいるように感じられたのが不思議だ、なんてくだらないことだった。
ブラウン管テレビのぶ厚いガラス越しに映る、どこか知らない外国の景色のように。
或いは埃の被った古い書物に描かれた、遠く手の届かない異世界みたいに。
龍二はこの世界の住人であることを。忘れてしまいそうになった。だが自ら投じた一石が創り出した小さな波紋が、奇しくも龍二の心を引き戻させた。
「恨むさ。この病を……或いは迫害するであろう、世界を」
ヒズミの答えはごく淡々としていながら、しかし迫真に迫った憎しみが確かに篭っている。まるで現在進行形のような物言いには、上官の意外な創造性と感情の豊かさを感じさせた。
憧れていた上官の瞳は、どこか遠くにいる誰かと見つめあっているようだ。
「司令でも、誰かを恨んだりするんですね」
龍二が心の底から感嘆したように呟くと、現実に引き戻されたヒズミは少し困ったように微笑んだ。
「私は世間で評価されているような、聖人君子ではないよ」
その瞳には先ほど垣間見えた感情とは別種の哀しみが、水で溶いた絵の具のようにごく薄く滲み出ていた。
強くて、賢くて、勇敢で、勤勉で、努力家で、運を味方につけた男。
誰もが憧れる英雄であるはずのヒズミ。
しかし彼にも人格がある。そこに置かれた人形でもない、決まりきった道をいく物語の登場人物でもない、ひとりの人間なのだ。
彼の心には確かに、憎悪や嫉妬、不安や悲嘆といった闇も密かに同居して鏡合わせになっている。
龍二や一般の人びとには決して見せない『ヒズミ』がいるのは、当たり前のことだ。仮面の一枚や二枚、誰にだって存在する。
「でも」
ヒズミの長い指が横たわる白ガラスのクイーンに触れ、愛おしげに唇を添える。無機質な冷気を帯びていた駒が、ヒズミの体温で曇った。
「誰かが病を含めた自分の、ありのままを認めて――――愛してくれたなら」
クイーンはヒズミの想いに応えたように陽光を反射し、その純白の身を見事な黄金色に染め上げた。まるでヒズミの想いそのものに染められたようだ。
眼窩に広がる町田のビルに覆われた景色も、鮮やかな黄金色に包まれている。その景色を映すヒズミの黒い瞳も総白髪も、彼の手の中にあるクイーンの駒もまた、狂ったように染まりきっていた。
燃えるようなヒズミの瞳の向こう側で、どんな感情が渦巻いているのかは龍二の知るところではない。ただ。
「計り知れない孤独に耐える時間だとしても、私は生き続ける」
「愛……」
力強い生命力を感じる言葉とは裏腹に、どうして切なくて危うい色味を含んでいるのか。
ヒズミが発した『愛』という不鮮明な言葉を繰り返し呟いてみても、龍二には彼の色が判らなかった。
「君はよく似ているな」
不意な独り言のように呟いたヒズミを見つめ返し、
「 誰に……ですか?」
と問い返した。
その声がわずかに揺れていることを感じ取ってから、龍二は自身の感情をゆっくり噛み砕くように追いついた。
いつもよりずっと緊張して訊ねた意味を、龍二自身にもうまく理解できずにいた。ただ、いまのヒズミは龍二よりも硝子のような割れ物めいていて、おそるおそる触れなければいけないような気がしたのかもしれない。ちょうど彼の手のうちにいる、白いチェス駒のように似て。
憧れのヒズミにこのような感情をもって接した日はなかった。
龍二にとってヒズミという男は自分と比べるまでもなく完璧で、強くて、英雄というよりも神に等しい存在。決して人間らしい『弱み』というものを表に出すようなことはない。少なくとも龍二の前ではなかった。
だが彼は。
「……私が生涯でただひとり、愛したひとに」
龍二と似たように、或いは同じように、たったひとりの誰かを愛する日々があった。
いまの龍二のように戸惑いや理不尽への怒り、そしてひと匙の甘い感情が混在する時があったのだと、初めて気づかされる。
ヒズミの瞳だけ、遠い昔に時を戻した世界を見つめているようだ。
彼と、彼が愛したひとがいまどうなっているのか、訊ねようにも言葉が詰まってしまった。ヒズミが結婚していると耳にしたこともないし、彼の左手薬指にはなにもない。
ただひとつだけ理解ることは、彼の側にも雨が降るということ。
「彼女も愛を識らなくて、いまの君と同じ表情をしていたよ」
そう言いながらくしゃりと笑うヒズミの顔は、いつもより少年に近いものが溢れている。
『彼女』と呼ぶ女性のことを想っているのだろうか。とても優しくて、温かくて、でも同時に蜜のような危うさを内包している。
もしかしたら自分もこんな表情を浮かべているときがあるのかもしれない、と龍二の心の片隅が、触れられたように疼いた。
「水神くん」
ヒズミが腰掛けていた椅子が軋む。椅子の揺れ動きを目で追う間もなく、ヒズミは龍二の前に立ち塞がった。彼が手に握っていた白のクイーンは解放され、透明な硝子のチェス盤に堂々と立っている。夕暮れの光を一身に浴びて、世界の広さを実感しているように。
「誰かを愛するその答えは、千差万別だ。正しい答えを誰かに求めても、それが自分の正解にはならない」
そう語るヒズミの手のなかには新たに、黒のナイトが囚われていた。
長らく寵愛を受けていた白のクイーンとは違って、黒のナイトは憎しみがこもっているかのように乱暴な握られ方をしていた。
白の女王と、黒い騎士。
穢れを識らない無垢の処女を汚した罰を受けるように、黒の騎士は首を絞められ、やがて……。
ぱきん、と短い悲鳴をあげて手折れた。
ナイトの破片は夕暮れの光を透かして塵のように床に溢れ、ヒズミの革靴に踏みしめられ、跡形も無くなってしまう。断罪を受けたナイトの痕跡を捜す龍二の瞳は、ヒズミの声で引き止められた。
「もがいて、足掻いて……君が貫き通したい形を見つけなさい」
ヒズミの微笑みはなぜかいつもより、仄暗さという影を背負っているように感じられた。
形を喪った黒い騎士は、湖に沈んで戻ってこないようだ。
葬祭のマリア 雨霧パレット @palletz_amagiri
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