第11話

 謎の男との死闘のあと、龍二は怪我の治療のための入院を余儀なくされた。

 全治三か月。それでも短く済んでいるよと主治医に顔を顰められたが、龍二はいますぐにでも退院して帰宅したい気分だった。

 なにせ三か月もの長いあいだ家を空け、マリアを独りにさせるのだ。

 彼女が淋しがっているとか、彼女の命が心配だとか、そんな理由ならまだマシだ。

 問題は、あの生活能力ゼロのマリアを、家のなかに独りでいさせること。

 誰がマリアがすさまじく汚しまくる部屋の普段の清掃や整理整頓を行い、人間らしい清潔感を保っているのか。

 誰が毎日こまめに洗濯して、シワができないように畳み、日々の衣服に困らない日常を与えているのか。

 誰がシャンプーや石鹸の残量を気にして買い置きし、無くなったら注ぎ足す作業を繰り返しているのか。

 誰が健康的な飯を作って与え、皿を洗い、台所に黒々としたゴッキーやコバエが群がらないよう配慮しているのか。

 その一切に対する苦労を、あの女は知っているのか。

 その一切に対する感謝を、あの女は感じているのだろうか。


 ――――否、ひとつも理解していない!


 少しでもしていたなら、龍二に対してあんな傍若無人の女王様にはならないはずだ。

 そんな巨大な不安があるからと、主治医に必死で泣きついて努力と根性で治し、二か月で退院させてもらえた。まだわずかな痛みがあるものの、大丈夫だと言い張っての退院。

 送り出す主治医と看護師たちが不安そうにしていたが、龍二は一刻も早く帰宅して惨状を確認したかった。

 帰路の途中に帰宅したときの悲惨な光景を想像するだけで、龍二の胃に穴が開きそうになる。実際、入院中は胃が痛いと訴えて胃薬を処方してもらったほどだ。

 病院から家までの道がもどかしい。

 緑の屋根が可愛らしいアパートが見えてきたところで、龍二は大荷物を背負って駆け出した。

 マリア本人は当日に迎えに行くと珍しく甲斐甲斐しそうな提案をしたが、独りで出歩かせてこの前のように襲われてはいけない。

 あの男は動けないほどの重傷を負っていたはずなのに、いつの間にか姿を消していたのだ。片腕を再生不能なほど潰したとはいえ、また襲ってくる可能性は十二分にある。

 あの男だけではない。脅威はどこに散らばっているか、予測不能だ。


「ただいまっ!」


 入居当時から変わらないシリンダー錠を荷物の重さによってもたつく手で差し込んで回し、重い扉を開けて玄関に入ると――――。

「おっ……おかえり、なさい」

 美しい髪を乱したマリアが、エプロン姿で狭い廊下兼キッチンに座り込んでいる。マリア自身もキッチンも廊下も。あちこちを汚して、情けなく眉が下がっていた。

 まず、玄関にいくつもの靴が脱ぎ捨てられていることは、もう許容範囲としておこう。

 視界の最奥に垣間見える部屋が、漫画や雑誌や服や化粧品やゴミだらけなのも、当たり前に想像の範疇である。玄関からはよく見えないが、風呂場もトイレも凄惨たる光景に違いない。

 それよりも、龍二の視線を、興味を掴んで離さないものは。

「……なにこれ」

 龍二の声が、非常に控えめな質問を繰り出した。

 転がる調理器具を押しのけてシンクの狭いスペースに載せられていたものは、皿だけではなく……平べったくて黒い物質。

 よく見ればそこはかとなく小判型、しかし見た目はどう足掻いても暗黒物質のダークマター。その上にケチャップをトッピングするとは、女子のあいだだけで流行っている健康法かなにかだろうか。

 するとマリアは頬を赤らめながらの涙目で、龍二が聴きとれる限界の小さな声で答えた。


「……夕飯。作ってやってたのよ」


 ――――え、これ食べ物なの?

 出かかった言葉を慌てて飲み込み、改めてダークマターを検分する。

 先ほどから知ってはいたが、形状は不器用さ丸出しの歪んだ小判型。少々汚いが調味料としてケチャップがかけられており、付け合わせに生サラダらしき野菜くずが添えられている。

 ここから察するに、このダークマターの正体はハンバーグなのかもしれない。

 昔ほんの一時だけ、マリアの料理下手をどうにかしようと足掻いた時期があった。

 母親の手伝いをすることで子供が料理を覚えるのと同じように、マリアにも手伝いをさせれば無理なく覚えるのではと考え、狭小キッチンに並んで立つ。

 結果としてただの無駄というか、龍二の仕事が増えるだけに終わったので、あれから一度も実行していない。

 そのときのメニューが、ハンバーグ。いまは亡き母直伝のレシピでは、ソースにケチャップが使われている。

 ふとマリアの指を見れば、切り傷がたくさんあった。慣れない手つきで包丁を握り、玉ねぎをみじん切りして野菜も切ったのだろうと推測できる。


「どうせマズそうだと思ってるんでしょ? 食べなくて……いいからね」

 強気な彼女の言葉には、一抹の不安と淋しさが混じっていた。

 食べてもらいたい。けど口に合わなかったらどうしよう。そんな思いが胸を駆け巡っているのか、両手で胸元を押さえ付け始めた。


「ありがとな、マリア」


 そう言って龍二はマリアの側に寄り、そっと頭を撫でる。

 マリアが龍二のことを思って、初めて独りで奮闘しながら作ってくれたご飯。なによりも温かく感じられた。

 それからマリアは何事もなかったかのようにいつもの女王様に戻り、龍二に白米を用意しろだのスープを寄越せだの、命令し始める。

 あのしおらしさ、いつまでも続けばよかったのになぁ……と遠い目をしながら久方ぶりにキッチンと対面した。

 ご所望のスープと白米を用意するのはもちろん、メインディッシュがこれではマリアの胃も龍二の胃も満足できないだろう。

 龍二は荷物を置いて冷蔵庫の中身を確認。足りない夕飯の献立をほんの一分足らずで考え、包丁を握った。

 今日はプチトマトを添えたキャベツサラダと鶏もも肉の香草ソテー、それに人参とセロリのスープと炊きたてのご飯を付けることにした。マリアが作ってくれたハンバーグみたいな肉団子は、焦げを削ぎ落としてスープに入れる。

 龍二はまずはサラダの準備に取り掛かるため、野菜室からプチトマトとキャベツの半玉を取り出した。

 使い古して切れ味の悪くなった包丁はキャベツの千切りさえ至難の技で、切ったつもりのキャベツが何本も連なっている。どうにか切り終えた頃には。

 部屋の電灯は帰宅したときのまま、灯されていない。部屋を照らすのは龍二が家事のために点けたキッチンの頼りない電灯と、マリアが観ているテレビの画面だけ。

 リサイクルショップで購入した古くさいブラウン管の十四インチの、丸みを帯びたぶ厚い画面が報道番組を流している。古すぎて色味が悪くなり、女性ニュースキャスターの肌が『肌色』を通り越してピンクだ。画素も荒くて、ようやっとヒトの姿が映されていると認識できる程度。音も雑音混じりで、たまに電波が悪いとなにを言ってるのかさっぱり聴こえない。


 ふと時刻が気になって、龍二はマリアが観ているテレビの画面に目を向けた。この家にある時計は、テレビが表示してくれるディジタル時計のみだ。

「……」

 テレビの画面に釘付けだったはずのマリアは、床に置いてある大きなクッションに身を預けて眠っている。

 龍二は包丁をまな板の上に置いてから、毛布を取って横たわるマリアにそっと掛けた。

 マリアの寝顔を、龍二は初めて見た気がする。

 経済的な問題から、普段はロフトスペースに置いたパイン材のシングルベッドに、ふたりで寄り添って寝ていた。普段は素っ気ないマリアも、ベッドのなかではなぜか龍二に身を寄せる。男女の甘ったるいそれではなく、まるで雨に濡れた猫が体を温めあうような。

 毎日のことなのに、いつも必ず龍二が先に夢の世界に行ってしまう。龍二が起きた頃には必ず、マリアはすでにシャワーを浴びて着替えていた。

 彼女はいったい、いつ眠りについているのだろうか。

 そんなことを考えながら、規則正しい寝息で上下する肩と胸、伏せられた長い睫毛を順番に眺めていた。

 テレビの音以外は、天井のシーリングファンがゆっくり一周する音だけ。久しぶりの我が家は、とても静かな夕暮れに包まれていた。

 できるだけマリアを起こさぬようにと、龍二はそっと離れてキッチンに戻る。

 夕飯の香りが漂い始めた頃になってマリアが飛び起き、皿に焼いた肉を盛り付ける最中の龍二へ、早く飯を寄越せとせがむ。

 ふたり揃って食べ終わった頃には、とうに八時を過ぎていた。

 龍二が使ったフライパンや食器を片付けているあいだに、マリアはいそいそとシャワーを浴びに行った。

 いつもであれば、少しくらい手伝えと苦言を呈する龍二だが、今日だけはなにも言わずに見送った。彼女の寝顔を見て、少しの安堵が降りたからかもしれない。


「なにしてるの?」


 浴室から出てすぐに、マリアは龍二の背中に投げかける。台所の掃除をすっかり終えた龍二が、テレビの前に置いたテーブルで、大量の本と書類の束、ノートを広げていたのだ。

 この狭い部屋のどこにこんな量を、と驚くほどいっぱいに積まれている紙束を、マリアの瞳は丸くなって見つめていた。本から目を離すことなく、龍二は少し淀みのある答えを口にする。

「ん……まぁ、研究?」

「辞めたんじゃなかったの?  才能ないから」

 マリアは訊ねながら本の表紙に手を触れた。分厚くて重い革張りの本は、マリアにはとても理解できない高度な内容の医学書だったが、その指はとても愛おしそうに装丁を撫でまわす。

 風呂上がりのマリアはいつも通りに、レースのショーツ一枚の出で立ちだ。濡れた髪からシャンプーの甘い香りを漂わせている。白い肌も熱を帯びて、ほんのり桃色を滲ませていた。

「ハッキリ言うなぁ……」

 マリアの物言いに苦笑いを浮かべて、龍二はノートに文字を書き付ける手を止めた。

 テーブルに並べた医学書のほとんどは、〈ロスト・ラグナロク〉の資料倉庫から拝借してきた最新のものだ。最新といっても、研究が盛んに行われていた二年前でほとんどの情報は更新されていない。

 龍二の指も、マリアと同じように医学書の装丁をゆっくり撫でた。

 その滑らかな革の手触りで、まだ研究者だった頃の苦い記憶が、脳裏に蘇る。

「確かに俺は家族すら救えないほど無力で、なのに誰かを救えると思い上がっていた大馬鹿野郎だよ」

 今回のことでもよくわかった、と言って苦笑する。

 両親と妹を救うことができなかった悔しさをバネに、研究者になったはずだった。

 自分と同じように、或いは失くしてしまった家族のように。誰かが悲しい想いを抱えることのない世界を目指して、研究を始めたはずだった。

 自分が頑張ればいつか、誰かを救えると本気で信じていた。

 いつか、いつか。世界に蔓延したこの病に打ち勝てる日を迎えると、馬鹿みたいに思っていた。まるで現実など見えていない、子供のように無知で浅慮で、だけど大切にしていた夢だった。しかし。


 結果として、自分の無力を痛感しただけの四年。己の無知を、力の及ばない歯痒さを呪いさえした。

 結局この手はなにも救えやしないのだと、自暴自棄になって狩人になった。

 狩人の世界は単純で、よくも悪くも結果が目に見える。

 積みあがるのは、悲観に満ち満ちた顔の躯。

 救いたかったその手は、誰かの生命を奪う手に変わる。名も知らぬ誰かの生命を無断で踏み躙り、犠牲を生み出した汚い金で飯を食う。

 最低だ。罵られても、後ろ指をさされたとしても、なにも反論できないことをして生きているんだ。わかっている。

 きっとこれからもマリア以外のアンデッドを殺して生きる、矛盾を抱えていくのだろう。

 あの男だって、マリアが止めに入らなかったら殺していただろう。

 アンデッドだけではない。龍二はマリアひとりのために、総ての人類へ牙を向ける準備ができていたという証拠だ。

 龍二の拳に、ぐっと力が籠もる。それは決意の表れか、瞳にも力が宿っていた。

「でも」

 それでも叶えたい、強い想いが生まれた。今度こそ大切に育てて、絶対に芽吹かせたい願い。自分の弱さで腐らせたくないんだ。


「マリア……君だけは救いたいんだ」


 向き合ったその瞳は交錯し、鏡のような湖面に光り輝く銀月にも負けぬ光を注いだ。龍二の想いが風に乗ったかのように、カーテンと天井のシーリングファンが揺らぐ。

「それは……わたしのため?」

 少し湿っている秋風に乗ったマリアの声は、なぜか少し硬質を帯びている。真っ直ぐ射るように龍二を見詰めた翠緑の瞳に、鮮血の色味がひと匙混ざった。

 空はいまにも雨が降りそうな、重く垂れ込めた曇り。その湿気を振り払うように、龍二は首を横に振って答える。


「俺自身のため」


 いつだって、後悔ばかりの半生だった。

 家族を守れなかった自分の弱さ、定めた目標を果たせない弱さ、誰かを傷つけなければ生きていけない自身の弱さ。

 嘲笑う残響が耳にしつこくこびり付いて、離れてくれない。

 ――――他人のためなんて、俺はそんなに高尚な人間ではない。

 一度でも誰かのために自分のなにかを犠牲にしたことが、果たしてあっただろうか。『誰かのために』と言い訳をして、自分を守るために傷つけてきた手を仔細に眺めた。何千回何万回と刀を振ってできたマメだらけの手は、これまでなにを守ってきたというのだろうか。

 すべてを自身の弱さに甘えて生きることは、もうやめよう。泣くだけの夜は、もう終わりにしよう。

「もう……なにもしないで誰かを見殺しにするのは、嫌なんだ」

 強く握りしめた拳の硬さで、決意を固めたように。窓から入る秋の風がマリアの生乾きの髪を揺らし、月明かりに光って鮮やかな煌めきを与えた。東向きの窓から覗く空に、名も知らない三等星が無数に浮かんでいる。

 星の瞬きが龍二に教えてくれるのは、決意の序奏曲。

 ここからまた、新しく始めよう。

 本当の意味で戦うんだ。悲しい定めを生み出した病と、【アンデッド】を灼きつくす世界と、マリアを……愛するひとを圧し潰す人びとと。

 それがたとえ誰かの命を犠牲にする行為であったとしても、世界の流れに逆らって、守り続けたい。

 これは《革命》。

 自分と自分の、破ったらこころが死んでしまう……大切な、大切な約束なんだ。

 龍二の真剣な眼差しを、マリアはどう受け止めたのだろうか。


「……馬鹿ね。アナタは本当に馬鹿」


 深い溜め息とともに漏らした、マリアの声に込められた意味。その半分も、龍二にはわからないまま。彼女は立ち上がり、床に打ち捨てられたサバイバルナイフを素早く手に取った。華奢な身体からは想像もできないほど強い力で、龍二の身体を白木のフローリングに押し倒す。ナイフの切っ先がぴたりと龍二の首元を捉え、ひと筋の血を流した。

 ひりつく痛みとナイフの冷たさに挟まれたなかで、真っ直ぐに見遣ればマリアの瞳。

「わたしが求めるのは《断罪》であって、【救済】ではないの」

 マリアの声と瞳は硬質を極め、ナイフの冷たさと一緒に彼女の心の壁を現していた。龍二とマリアの想いの相違はクレバスよりも深く、隔絶化されているのかもしれない。


「龍二」


 熱を帯びたマリアの声に、龍二の肩が震えた。

 龍二を呼ぶ声にもいつも根底にある仔猫のような『甘え』が見られず、責め立てるような激情ばかりがふんだんに盛り込まれている。大切にしている縄張りを踏み荒らされた獣に似た怒りだ。

 彼女を怒らせるなど日常茶飯事だが、ここまで強い怒りを向けられた記憶はない。彼女が龍二という存在に依存していることは、龍二自身も自覚している。

 マリアはナイフを持ち替えて、グリップを龍二に向けて押し付けた。

「刺して」

 マリアの声の鋭さと呼応してナイフの刃が月明かりを反射し、冴え冴えとした銀の色を主張した。翠緑の瞳が強い感情に支配され、水彩絵の具を混ぜたように鮮血の色へと変わっていく。

 いつもの『おねだり』とは明らかに違う毛色の、純粋な龍二への怒りから来た挑戦的な感情を、しかし龍二は声を震わせながらも頑なに反射した。

「なんで……?」

 彼女の強い感情をぶつけられて、龍二の心臓は戸惑いで跳ね上がる一方。呼吸も乱れ、しかしそれでも逃げてはいけないと、真っ直ぐに視線を受け止める。

 龍二の白々しいまでの問い掛けに痺れを切らしたマリアが、とうとう声を荒げた。


「刺しなさい!」


 マリアの悲鳴にも似た怒声が空気を震わせ、彼女の憤慨を一身に受けたように風が強まった。流れの速い雲が満月を隠しては現し、斑らな光を作る。マリアの滑らかな肌に浮かぶ陰影が揺れた。

 マリアの髪が荒く靡く。レースのカーテンがはためき、天井のシーリングファンもからからと音を立てて回る。マリアの鮮血の瞳の奥に、龍二の戸惑う顔が映されていた。

 部屋じゅうに満たされた静寂を破ったのは、マリアのごく小さな呟き。


「……もういい」

 たったひと言で、マリアがひどく失望したことを理解できた。差し向けられたナイフはまるで、いまの龍二とマリアのこころの距離を表しているかのように離れていく。

 ナイフをフローリングに落とす乾いた音が、狭い部屋いっぱいに反響する。

 龍二の腹から降りたマリアは、そのままロフトスペースに向かっていった。

 マリアの重みが腹から消えたことで、龍二のこころにさざ波のような不安が押し寄せる。ロフトに掛けられた梯子を登るマリアの足音が、彼女自身のこころの軋みとして顕現されているようで。

「マリア!」

 堪えきれずに彼女を呼び止めた。

 しかし龍二が呼びかけてもマリアは振り向きもせず、いつもならドライヤーできちんと乾かす髪もそのまま。布団に潜り込む衣擦れの音だけが聴こえた。


「……おやすみ、マリア」

「…………」


 やがて諦めて、せめていつものように挨拶をしたが。

 ひと声も返事はなく、しかし眠りに就いたような気配も感じられない。ただただ怒りの気配が部屋に残り、気まずいままその日のマリアとの会話は終わった。

 ここまで大きな喧嘩は初めてだ、と自分の不甲斐なさも感じて嘆息。

 いまはきっと、なにを話しても平行線だ。気持ちを切り替えるように、テーブルの上で山積みとなっている研究書とノートへ目を向けた。

 だが龍二はそのまま研究を続ける気にはなれず、気まぐれで図書館から借りた小説を手に取る。アクアブルーが鮮やかなハードカバーの長編小説は、数年前に大きな賞を取って話題になった作品だ。気になっていたものの、当時の龍二には小説を楽しむ心のゆとりなどなく、しばらくその存在を忘れていた。

 頁を繰ると文字の奔流が目に飛び込んでくる。軽快で読みやすい文体が特徴の作者が、満を持して世に放った二作目。

 しかし物語は一行も龍二の頭に入る様子がなく、開け放した窓の外に目を向けた。

 満たされた月は厚い雲にすっぽり覆われて、いまにも雨が降りだしそうな湿った空気を帯びている。

 ――――湖面に映る銀月を隠す雲は、どうして月の光を遮るんだろう。

 視線をテーブルに戻して眺めた研究書の一文は、大衆向けに読みやすく書かれた文章よりもはっきりと、龍二の瞳に刻まれた。


《箱庭乙女計画》――――概案とその経過について。

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