第10話


「あんなのっ……契約違反だヨっっ!」


 町田109の最上階、司令官室に訛りのある男の情けなくも痛々しい悲鳴が戦慄いた。

 男は自慢のビンテージ・ストレートデニムを自らの血と排泄物で汚したまま、司令官室の上等な敷物を踏みつける。龍二に潰されたと思われる左腕からも、大量の血が滴っていた。

 命からがら逃げ延びたのだろう男に、労いの言葉はかけられない。

 それどころか、部屋が汚れる様子を黙って目にしている相手の男の瞳が、不愉快そうに歪む。


「やはりお前ごときに、水神くんを潰せるはずがなかったか」


 失望の言葉とともに口に含んだコーヒーの味は、いつもと変わらず不味いと感じる。苦みも酸味も、深みもなにも感じない。男の舌はそういうふうに【進化】したのだ。

 言葉など飾りに過ぎない。はなからこの男には期待の欠片も持ち合わせていなかった。

 こいつの代わりなど、十秒とせず見つかる。

 それよりも彼にとってもっとも喜ばしいのは、彼女の所在が掴めたこと。その一点に限る。

 彼が愉悦の余韻を思い返し、浸っているあいだも、男はしつこく食い下がった。


「ぐ、偶然だっ! まぐれだヨ!」

 彼の言葉にすっかり転がされた男は、手のひら返したように言い訳のベクトルを急旋回させた。

 男がこれだけ酷い目に遭ってもしがみつくものは、金しかない。

《葬祭のマリア》を発見し、協力者の男は殺し、彼女を彼のもとへ生きたまま連れてくる――――。

 これだけで、一生遊んで暮らせるほどの報酬をもらえるとあっては、手放すわけにはいかない案件だ。

 依頼人が一般人であれば、明らかな詐欺だとわかる。しかし彼はあの生ける伝説と謳われる大物。それくらいの財産はあるだろう。

 あの《葬祭のマリア》を生きたまま所望する……彼の目的は男に知らされていない。

 しかし約束通りの金額が手に入るのであれば、そのようなものは石ころ同然。

 あの青年は確かに強いが、手練れではない。場数だけなら、自分が勝てるという自負がある。

「もう奴の手はわかってる、次こそうまくやっ……」

「言い訳は感心しないね」

 男の言葉尻は、もう二度と出てこない。

 男の胸は彼の手に呆気なく紙切れのように貫かれ、血まみれの腕が引き抜かれた瞬間に膝から頽れる。

 彼の手には男の新鮮な心臓が包まれており、主人の身体から引き抜かれたことを知らずに活動していた。


「無能はいらないよ。生ごみだ」


 吐き捨てて、彼は手にした心臓を床に投げ捨てる。言葉の通りに、臭くて汚い生ごみを扱うみたいに。

 数瞬前まで元気に鼓動を刻んでいた心臓も、ようやっと主人の不在を知ったようにその活動を静かに休めていく。

 心臓が動きを止めたと同時に、いまや躯となった男の身体は痙攣。

「かっ……あ……」

 断末魔というには地味な悲鳴に、彼は微笑んだ。

 指にこびり付いた血を舐めてみるが、すぐに顔を顰める。

 不味い。とても不味い。こんなもの、誰が二度と口にするものか。それよりも。


 ――――彼女の味は、この世のなによりも美味に違いない。

 小粒の色とりどりな金平糖のような、あるいは甘い餡がたっぷり詰まった最中のような。

「楽しみにしているよ……××」

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