第9話

「ならばこちらも力づくでいくまでヨ」


 その宣言と同時、男の姿は霧のように消えた。正確には龍二の動体視力が追い付かないほどの速さで迫り、彼に浅い一太刀を浴びせたのだ。

「ぐっ……」

 傷口は浅いはずなのに、痛みと流血は派手だ。

 思ってもみなかった速さに対応しきれなかった龍二は、胸を浅く切られてもマリアを庇い続ける。


 その後も男は龍二に浅いダメージを立て続けに与えて、じわじわと消耗させた。おそらく男は力自慢ではないのだろう。つまり力比べに持ち込めれば、龍二の勝機は見えるということなのだが……。

 男自身もその道をよく理解しているようで、だからこそ簡単に切り拓かせてはくれない。

 龍二は逆転のチャンスを探し、男はチャンスの芽をことごとく潰す。一進一退の乱舞。

 男の攻撃は針で突くように、しかし確実に龍二を追い詰めている。動けないほどの重傷を負わされてはいないが、このままではいずれ失血によって逃走すら難しくなるだろう。

 マリアだけでも逃がそうと足掻くと、男はナックルを嵌めた手で器用にワイヤーを操り、彼女の逃げ道を塞いでいく。独りでふたり分の作業を苦もなくこなす、器用な男だ。

 かといって彼女を背中に隠したまま戦うには、龍二の完全近接戦闘スタイルは不向き。

 マリアには自衛として常にナイフを所持させているが、そもそも彼女に戦闘の経験はなく、常時では非力な少女だ。戦力として期待してはいけない。


――――じゃあどうする!?


 焦ったところでこの場を回避することはおろか、戦闘の邪魔にしかならないことは、龍二が一番わかっている。しかし万事休す、という嫌な言葉が脳を駆け巡り、思考の邪魔をする。

 それでも足掻くのは誰のためか……過ったことで途端に冷静の雨が降り注いだ。

 男に勝つことが目的じゃない。マリアを無事に逃がせれば、こちらの勝ち。つまり龍二が努力すべき点は、この戦いの終着点は、最初からひとつに絞られているのだ。

 考え直せば、簡単なことのように感じられる。男の気を逸らし、マリアが戦場から離脱するだけの時間を稼げればいい。

 そのためには。自分がどう動けばいいか、どのように戦局を変えればいいか。


――――考えろ……思考を止めるな、余計な気持ちは吹き飛ばせ!

 なにか抜け道があるはずだ。そう思うようにして周囲を見渡した。現状把握という意味もある。


 龍二たちの半径五メートルには、男が最初にワイヤーで破壊して崩落したビルの瓦礫が散らばっている。それらの大きさにばらつきはあるものの、物によっては障害物になり得るだろう。

 ビルの内部から零れた事務用品や生活用品のなかに武器として利用できそうなものはないか、よく観察した。しかし武器を増やしても龍二には得にならない。男のように左右で武器を振るえるならまだしも、龍二は愛刀一本で戦う訓練しか受けていない。やたらに使いこなせない武器を増やしても、むしろ足手まとい。


 それより現在の武装と地形を活用する方が現実的に感じられる。なにも鍔迫り合いに持ち込まなくてもいい。一瞬の隙を作ってしまえば、こちらの目的は達せられる。


「よそ見してる余裕があるノ?」

 男の声が間近で響き、振り向く間もなく頬に強烈な衝撃を感じた。ナックルに包まれた男の左手が爆撃機のように龍二の頬を殴りつけたのだ。


「龍二っ!」


 マリアの悲鳴とともに龍二の全身はコンクリートに激しく打ち付けられ、筋肉が軋み、胸骨が砕けた。折れた骨が内臓を圧迫して、呼吸するだけで苦しい。四肢が無事なのは幸いだが、なにせ出血が多すぎていまにも気を失いそうだ。

 マリアが龍二のもとへ駆け寄ろうとしているが、至極当然に男が立ちはだかる。

 彼女はなにやら喚いて、激しく抵抗しているようだ。龍二の視界は霞んでいき、白い世界へ誘われ始める。しかし。


――――まだ……っ! なにも守れていない!


 旅立ちそうな意識を引きずり戻し、血が滲むほど拳を握りしめる。

 両親と妹の無念を晴らすために入った研究所。彼らの犠牲を無駄にしないために、世界から脅威を排除するために、もう誰も悲しい思いをしないように。身を粉にして働くつもりだった。

 しかし結果はなにひとつ残せず仕舞い。才能がないからと尻尾を巻いて逃げ出し、このわかりやすくて単純な成果が得られる世界に身を置いた。


 アンデッドを始末して一時的に脅威を減らすことで、世界を救ったつもりでいた。


 本当に救うべき存在から目を背け、手の届かない英雄の幻想にしか目を向けることのできない無力な偽善者。


 小さな命ひとつ、満足に包んであげられない脆い決心。


――――俺はいつだって、本当の目的を見失っていた。

 そしてこの体たらく。


 これからマリアは眼前で男に殺され、あとにはなにも残らない。底なし沼のような虚無だけが、龍二に許されたたったひとつの居場所。


 龍二に殺されたい、とささやかに願う少女の儚い命は残虐で穢れたな手によって握り潰され、永久に浄化されることはないだろう。


 そんな未来があってたまるか。まだ俺の手は届く。脚は動く。マリアは生きている。


 動け動け、立ち上がれ。足掻け、もがけ、奮い立たせろ。

 血の味がするほど歯を食いしばって転がっていた愛刀を握りしめ、太腿に突き刺して胸の痛みを麻痺させた。


「意外とロマンチストだネ。この状況でまだ戦えると、本気で思ってるノ?」

 男は余裕からほくそ笑んだ。目標のマリアはもう、自分の手中にあるも同然。しかし邪魔者は怯まない。それどころか。


「たしかに……頭おかしいよな」


 自分自身に語りかけるように嗤った。

 龍二は重傷の満身創痍、対して相手は疲労も最小限の無傷。マリアは男の手の内で、怯えた金糸雀のように震えている。

 勝てるのかどうか、誰がどう考えても結果は目に見えている。――――それでも。


「最後まで諦めることは……もうやめるんだっ!!」


 愛刀が煌めいた。龍二の誓いを乗せて、マリアの涙を切り裂く。

『想いを力に変える』なんて感情論は、しょせんお綺麗な理想論の夢物語ってわかっている。世界にそんな美しさはない。いまだって殺すか殺されるかの血生臭い泥仕事だ。


 でもマリアを救いたいという願いだけは、まるで小さな鉱石のように目立っていて、龍二自身も目を離せない。掬いあげて、手ずから磨き続ける。


 鉱石はいつまでも輝きを失うことなく、龍二の道を照らし続けていたのだ。


 叶わない家族の温もりという幻想は、手放して。

 彼女と出会ったばかりの頃に感じた、ロイヤルミルクティーの小さな温もりを絶やさぬように。

 龍二の気勢を纏った切っ先に呑まれた男が初めて怯み、空間に決定的な隙間が生じた。


 男が自身の失態に気づいたときには手遅れで、マリアは男の手が届かないようにビルの瓦礫に守られている。

 最初と状況が大きく変わったわけではない。むしろ龍二が手負いな分、不利だろう。しかしマリアの危険を回避できたという成果が、男の動揺を生み出し、反対に龍二の身を軽くした。


 マリアの存在が勝利の女神のように作用して、戦局を逆転させる。

 龍二の直刀と男のナイフが派手な火花を散らし、強烈な打ち合いを始めた。


 しかし刃物のリーチの差、そして予測通りに腕力の差が徐々に男を苦しめ、何合目かの打ち合いでナイフは呆気なく弾き飛ばされる。

 男が冷静なままでいれば、直刀に横の力を加えて折るという選択肢があった。男の焦りがその道に霧を生み出し、見えなくなっていたのだろう。

 男に残された武器は左手のナックルと極太ワイヤーだが、ここまで肉薄されてしまったら、少なくともワイヤーに意味はなくなる。


――――ナックルで慎重に直刀の攻撃を防ぎ、距離を広げてワイヤーで縛り上げる。


 理想の反撃は、しかし脆くも崩される。

 龍二の直刀がナックルに触れた瞬間、滑るように切っ先が男の腕を縦に裂いた。

 初めて男の血で濡れたナックルが地面に音を立てて落下し、甲高い不快な絶叫が響き渡る。

 ふたつに裂かれた左腕を、男は狂ったように断面を押し付け始めた。しかし残念ながら彼は魔法使いでもなければ、アンデッドでもない。彼の腕が再生することは叶わない。

 苦悶に歪む男を見下ろし、龍二は濡れた刀身をひたりと男の首に押し当てる。


「このままお前の命を奪うことに、俺はなにも躊躇いはしない」


 普段は人好きのする優しい龍二の顔つきは、いま見る影もなく氷よりも冷たい。マリアでさえ震えるほどだ。

 皮膚に沈み込んでいく冷たい刀の感触に、死へのファンファーレを感じた男は子供のように泣き出した。失禁してストレートデニムを濡らし、残った手足は完全に脱力している。


「ま、まって……まってくださイ!」


 男が裏返った声で無様に命乞いを始めても、龍二の刀は冷酷なギロチンになろうとしていた。

 だが。


「待ちなさい、龍二!」

 血に塗れた龍二の手を握ったのは、マリアの小さな手。彼女の白い肌は、あっという間に血で汚れた。

「邪魔しないでくれ、マリア」

 声すらも氷と化した龍二に、マリアの指が震えた。

『戦い』とは命の奪い合い。マリアを守ろうと決心してくれた彼の優しい心でさえ、その過酷さからたった数分間の戦いで濁りを与えられる。


 この男に慈悲を与えれば、またマリアの命を奪いに戻ってくるかもしれない。油断すれば敗北する。


 龍二の判断は、正しいのかもしれない。止めようとしているマリアが甘いのかもしれない。きっといつか、自分の間違いを命で清算する日が来るかもしれない。


――――それでも、わたしは。


 マリアの手は龍二の首元へ向かい、彼の胸倉を乱暴に掴んだ。鍛え抜かれた龍二の身体は、マリアの力程度ではびくともしない。だが。


「アナタ、わたしとの約束を反故にする気?」


 初めて出会った日から、マリアは龍二に殺される刻を待ち続けている。

 はじめは誰でもよかったはずだ。ヒトの命を奪い続けることでしか生きていけない自分がひどく穢れて見えて、生きているだけで罪だと責めていた。

 自分を責めて詰って泣きじゃくる日々に、疲れていたのかもしれない。

 いまも罪過で満たした気持ちに変わりはない。わたしはあの日、散るべき命だったのだと。


「君との約束はいつか果たす」

 冷たく突き放すように吐き捨て、マリアの視線から逃れる龍二に。

「こんな男の血に汚された手で、わたしは殺されたくない」


――――アナタの気高い心に惹かれたから、殺されたいと願った。


 龍二がなぜ狩人などという、一見して不似合いな仕事に就いているのか、理由を訊ねたことがある。

 彼が抱える想いの総てを神のように把握したわけではない。しかし他の狩人とは生きている世界が違うように見えたのは、きっと彼の志ゆえ。


 彼は多くのヒトが自分たちと同じ人類だと認めないアンデッドのことを、自分自身となんら変わりのない心を持つヒトとして見ている。


 それを誰かは『偽善』だと詰るかもしれない。しかし彼の想いが純粋でひたむきだと、マリアは知っている。

 だからこそ彼を信じ、そして何者にも染められない絶対の純白でいてほしいと理想を押し付ける。


 染まってしまった世界のなかで、アナタだけは変わらないで。いつかわたしが白に戻るための、ささやかな道標でいてね。

 マリアの両手が、龍二の手をそっと包み込んだ。愛刀の柄を固く握っていた龍二の手が、ほんのわずかに緩む。


 まるで彼女の温もりが、氷となった龍二の心を溶かしていくように。

 男への殺意が龍二から消え、元の凪いだ海に似た瞳に戻った。マリアがほっとひと息吐くよりも早く、龍二は膝から崩れ落ちる。マリアに彼を支える膂力などなく、龍二はその場でゆっくり横になった。


「龍二!?」

「いっ……てー」


 そう漏らして押さえる胸は、血だらけの傷だらけ。服はあちこち破けて、修復は不可能だろう。

 龍二自身も忘れかけていたが、男の猛攻で重傷を負っているのだ。あれだけ動けた方が奇跡というか、まるで化物のようだ。

 苦しそうに浅い呼吸を繰り返す龍二を目の前にして、マリアは言葉を詰まらせた。いつもならきっと『わたしのせいだ』と泣きじゃくって、龍二が優しく頭を撫でてくれる。

 マリアのせいじゃないよ、と。小さな女の子を相手にするみたいに、慰めてくれるだろう。


――――それでいいの?

 身体を張ってまさに命がけで守られるばかりか、くだらない罪悪感のために、彼が砕いてくれる心を。

 甘い甘い飴玉のように、舐め続けるだけでいいのか。

 我儘な願い事のために巻き込んでおいて、なにをいまさらヒロイン気取りしているのだ。

 巻き込むというのなら、こちらも相応の覚悟を持つべきだ。そんな覚悟もないというなら、初めから突き放してしまえばよかったんだ。


「ばかっ!」


 ぐっと涙を飲み込んで、強気に瞳を釣り上げて。

 マリアはわざとらしく責めたてた。


「ばかっ! おたんこなすっ! ハゲっ!」

「ハゲてないよ!」


 重傷の胸は避けられているものの、愛刀を突き刺した太腿がマリアの拳に攻撃され、龍二は痛みで顔をしかめる。


 何度も、何度も、何度も。

 言葉とは裏腹の気持ちが打ち付けられ、マリアの心に付いた痛みが伝播する。

 これまでマリアの身体につけてきた傷痕は、いったいどれだけの数なのだろう。

 その傷はもうどこにも残っていない。だけど龍二はひとつひとつの傷痕を記憶し、彼女との絆のように焼き付けた。

 その傷痕に似たモノが、自分の身体に宿った気がして。

 龍二はそっと、微笑んだ。

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