白い宿

放睨風我

白い宿

伊万里麻衣の生きがいはネトゲである。


現在、東京郊外の実家から都心の大学に通う麻衣がネトゲに出会ったのは、中学生の頃に遡る。出会いは父が誕生日に買ってくれたノートパソコンだった。父は一人娘の麻衣にぞっこんで、思春期の麻衣の機嫌を取ろうとして買い与えたものだった。そんなもので気を引こうなんてバカみたい、と麻衣は思ったけれど、パソコンのセットアップをしたりトラブルが起こった時に助けてもらったりしているうちに、なんだかんだ父とは普通に話すようになってしまった。これは、父の作戦勝ちと言っていいだろう。中学生にそんなものを買い与えるなんてと母はひどく怒ったけど、既に買ってしまったパソコンを取り上げるほどヒステリックではなかった。


そうして手探りしながらノートパソコンを使い始めた麻衣は、ふと何かの広告リンクを踏んだことがきっかけでネトゲの世界に夢中になった。周りの友達はみんなスマフォしか使ってないから一緒にプレイすることはできなかったが、それはそれで好都合だった。別に孤立したいわけではなかったから、学校の人間関係を円滑に回すため流行のオシャレを追いかけたりもしたけれど、麻衣は、学校の人間関係から開放されたネトゲだけの交流、というものが気に入っていたのだ。


交流に関しては、実は揉め事に巻き込まれたこともあった。麻衣がネトゲを始めた頃、あまり深く考えずに正直なプロフィールを書いていた。すると、変な人が沢山寄ってくるのだ。変な、というのは……たとえば、すぐ会おうと言ってきたり、プライベートなことをずけずけと聞いてきたり、距離の詰め方がおかしい男たちだ。だから麻衣はアカウントを作り直して、若い女の子、という素性を隠すようになった。麻衣はただネトゲを楽しみたかっただけなのだ。


部活にも入らず、学校から帰ってくればずっと自室にこもってゲームをしている麻衣に、母はちくちくと小言を言った。麻衣は、文句を言わせまいと勉強を頑張った。良い成績を取れば、母もしぶしぶながらうるさいことを言わず黙ってくれたのだ。高校生になった麻衣は、さらに頑張っていい大学にも入った。麻衣にとって学校の勉強もゲームのレベル上げと似たようなものだった。


誤算だったのは、都内の大学に進学してしまったために大学生になっても実家から通う羽目になったことだ。一人暮らししたい!という麻衣の主張は、一人娘を手放したくない父と、そんな無駄なお金を出す余裕はありませんと取り付く島もない母の強力タッグの前に敗北した。せっかく自由な時間が増えたというのに麻衣は好きなだけゲームをすることもできず、親の目を気にしながら不完全燃焼の日々を送っていた。


そこで計画したのが、偽装スキー旅行だった。



◆◆◆◆◆



「あなた、そんな理由で一人でウチに泊まったの?」

「へへ……」


麻衣は恥ずかしさを隠すため、宿のおかみさんに向けて愛想笑いを貼り付けた。


大学一年の冬休み。友達とスキー旅行に行くから、と親を説き伏せて一人で三泊四日の宿を取り、中学生の時から大事に使っているノートパソコンを持ち込んで、存分にネトゲを楽しもうという計画だった。選んだ宿は WiFi 完備を売りにした『さつまや』という民宿で、ネットのレビューサイトを見る限り雪山から遠く離れているためか人気がイマイチで客足も少ないようだが、実際にスキーを滑るわけじゃない麻衣にとってはむしろ好都合だった。


いざ宿泊してみると客は少ないというレベルではなく、麻衣を含めて二人だけだという。


ところが女一人で何泊も予約を取り、スキー場に出向く様子もない麻衣を心配したのだろう。二日目の夕食時におかみさんから問いただされて観念した麻衣は、事の経緯を白状したのだった。


「言ったじゃないですか、ほんと大したことじゃないって」

「だって、女の子が一人で部屋にこもって……。ほら、自分で言うのもなんだけど、ウチって寂れてるじゃない?もしかして失恋旅行でそのまま自殺とか、色々考えちゃって」

「あはは……」


麻衣は苦笑するしかない。


「じゃあ、親御さんはここに来てることは知ってるのね?」


本当は詳しい宿までは教えていないのだけど、妙な心配をされるのが嫌で、麻衣は控えめに首を縦に振った。


「まぁ……はい。一応」

「そっかそっか。じゃあ安心だ」


と、二階から階段を降りてくる足音が聞こえる。男の声が、会話に割り込んできた。


「お袋は考えすぎなんだよ」


姿を現したのは、宿の息子という三十代と思わしき男。名前を確かソウイチロウと言ったか。


「あらま、女子会を盗み聞きしてんじゃないよ」

「女子会ってトシかよ」

「そんなことないわよ、ねえ麻衣ちゃん?」

「その、おかみさんは……ご飯も美味しいですよ?」


他所の家族の会話に混ぜられるこっちの身にもなって欲しいと麻衣は思う。無茶振りを受けた麻衣は、答えになっていないコメントで逃げようとする。こういった押し付けがましさが宿の寂れる一因ではないかと思ったけど、さすがにそれを口に出すことはしなかった。食事の時間だけ我慢すれば、あとは部屋に引き篭っていられるのだから、文句を言ってもいられない。


「若い世代を呼ぶにはネット環境だって、俺が導入したんだぜ。WiFi」

「それは、その、はい。ありがとうございます」


ドヤ顔で昨日と同じことを自慢するソウイチロウに、麻衣は一応のお礼を述べる。ネット環境がなければ麻衣もこの宿を予約することはなかったから、狙い通りといえばその通りだ。


麻衣は、田舎特有の踏み込みの深さというか、この家族の馴れ馴れしさがちょっと苦手である。早々に食堂から退散しようと、お茶を飲み干して立ち上がった。


「ごちそうさま、それじゃ、その……部屋に戻ります」

「はーい、頑張ってね。お風呂は二十四時までだから」

「はい」

「ネトゲに頑張ってもクソもねぇだろ」


……特にこの息子は苦手だ。麻衣は、愛想笑いの奥でソウイチロウにバッテンマークを付けた。



◆◆◆◆◆



風呂上がりの麻衣は、自販機の牛乳を飲み干した。ぷは、と瓶から口を離して、牛乳でできた白い口髭をタオルで拭う。


夕食の後、いちど自室に戻ったものの、客が少ないのにあまりギリギリまで風呂を開けておいてもらうのも申し訳ないと思い直し、先に済ませようと考えたのだ。風呂から上がったら朝までノンストップでネトゲができる、という狙いもある。これからネトゲ仲間の集まってくる時間帯だし、二十四時前に中座するよりいいだろう。


と、いかにネトゲを楽しむか考えていた麻衣の前に突然ぬっと人が現れたものだから、驚いて声を上げそうになった。


「……っ!?」

「ああ、すみません」


びくっと身体を震わせた麻衣を見て、見知らぬ男が頭を下げて詫びる。浴衣を着ている。もうひとりの宿泊客であろう。


「ちょっとビールを買いに。他にお客さんがいるとは思いませんでしたよ……。驚かせて、すみません」

「はは……いえいえ。わたしも油断してて」


男は言葉通りに自販機でビールを買い、取り出すと、そのまま踵を返す。


「静かでいい宿ですね……それでは、おやすみなさい」

「おやすみなさい」


ぺこりと会釈をして、男はすたすたと廊下を曲がって姿を消した。



◆◆◆◆◆



麻衣はコタツの中からのそのそと這い出して、立て付けの悪そうな音をたてる窓を開け放った。街灯はなく、麻衣の部屋から落ちる明かりを除けば、裏手の林を照らすものはない。しんしんと雪が降り積もっている。雪には音を消す効果でもあるのだろうか、耳に痛いほどの静寂が、冷たい風と一緒に室内に吹き込んできた。


「さむっ……」


思わず呟きが漏れる。コタツとストーブに暖められた肌に、冷たい風が心地よい。麻衣は白い息を吐きながら外を眺める。


時刻は丑三つ時といったところか。ゲームが一区切り付いて、気分は晴れやかだった。親の目を気にせず没頭できることが、こんなに楽しいとは。


(友達と遊ぶフリしてネトゲ合宿、またやろう。ずっとでまかせ旅行だといつかバレそうだから、口裏を合わせてくれそうな友達を何人か……)


……と考えていた麻衣の目に、何か動くものが映った。


(……なに?あれ)


麻衣は目を凝らして、裏手の林を見つめた。


明かりが乏しくてほとんど何も見えないが、人影が、がさり、がさり、と木を揺らしているようだ。足元には大きな荷物がある。しばらく眺めているうちに、どうやら人影は木の枝にくくりつけたロープを引っ張っているらしいことがわかった。高い枝にひっかけたロープを引っ張って、何か重いものを持ち上げようとしている。


麻衣は、その持ち上げられつつある「重いもの」が何であるか気がついて、はっと息を呑んだ。



◆◆◆◆◆



翌朝。麻衣は荷物をまとめてチェックアウト手続きを進めていた。昨夜はゲームどころではなく、一睡もできずに、ただただ早く朝になるのを待っていた。目には寝不足のクマができて頭はぼんやりしていたが、とにかくここから早く逃げたいという一心で、平常心を装っておかみさんに笑顔を向けていた。


「ほんとうにもうお帰りになるんですか?まだ予約は残ってますけど」

「は、はい……。ちょっと急な用事ができて。料金も、三泊四日分お支払します」

「そう?それならいいけど……」


ギシ、ギシ、と階段を降りる足音が響いて、麻衣はおかみさんに気付かれないようにごくりと唾を飲みこんだ。二階から降りてきた足音の主、ソウイチロウは姿を表すやいなや、いかにも親切そうな口ぶりで麻衣に声をかけた。


「いやあ、残念です。どうです、朝ご飯くらい食べていきませんか?」


ニコニコと笑みを浮かべるソウイチロウの目は笑っていない。麻衣は、震えそうになる身体を抑えることに必死だった。


「そうねえ、麻衣ちゃん一人分なら、私と息子の朝ご飯用意するのと手間は変わらないからねぇ」

「そうそう。バスまでの時間もあるし」

「いえ、その……急ぐので!ごめんなさい!」


麻衣は宿泊代金をカウンターに置くと、そのままもつれそうになりながら靴を履いて、外に飛び出した。電車の最寄り駅までのバスはあと一時間は来ないけど、一秒だってこの宿に居たくない。


昨夜、人影が釣り上げようとしていたもの。


――あれは、人間だった。


ぐったりとした男の身体の、首の部分にロープがかけられていて、それをひっぱり上げようとしていたのだった。


おかみさんは、わたしが一人で宿泊する理由、家族が行き先を知っているかどうかを、執拗に尋ねてきた。一人で旅行して、そのまま自殺。冗談交じりに語った言葉が、別の意味を持って麻衣の脳裏を駆け巡った。


(そして……)


そして彼らは、朝ご飯はわたしの分、一人分だけだと言った。つまり、昨夜まで居たもう一人の客は決して朝ご飯なんか食べないことを、彼らは知っていて――


「またのお越しを」


閉まりゆく宿の扉から、明るい声だけが麻衣を追いかけた。

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