いくさのあと
高柳 総一郎
いくさのあと
寛永十五年の冬は一際寒さが厳しかった。空は鈍色に曇り、木枯らしが葉を揺らす。男は無作法とわかっていながら、懐手をやめずに砂利道を歩いている。
雪でも降りそうだ。寒くて仕方ない──。そんなことを考えながら、男は目的の屋敷を見て立ち止まり、正門を通り過ぎ、曲がり角の先、その脇にある小さな裏口をすばやくくぐった。
江戸城下にあるその屋敷は、同じように立ち並ぶ徳川の定府大名のものとは違い、質素な造りである。
あるじの名は柳生宗矩。将軍家光の懐刀にして大目付であり、剣術指南役も務める大名である。
そんな男の屋敷に忍び込むようにして入った彼は、庭の中を堂々と歩き、障子が開いている部屋を見つけると、その前にすばやく移動し、立膝になって沙汰を待った。
奥には、書見台に本を置き、男がなにかを読んでいる。白髪の男である。髷はだいぶ小さくなっているが、その目は鋭いままだ。とても六十を超えた老人には見えぬ。
「今日は上様より暇を頂いておってな」
男はただそう述べた。そこに感情はうかがいしれぬ。
「普段忙しくしておると、いざ暇を貰ったときに何をしようか思い至らぬものよ。お主も時を大事にせよ。──久しいな、七郎」
七郎と呼ばれた男は顔を上げなかった。そうしなければならなかったからだ。
「大目付様におかれましては──」
「我らは血を分けた親子であろう? 良い。今日は許す」
血を分けた親子。七郎と柳生宗矩はそうした繋がりでしかなかった。文字通りの関係だ。そこに感情はない。ただ血縁関係にあるだけ。側室でもない妾から出た子だ。兄や姉たちと違い、存在すら秘められた人間なのだ。
だがこの宗矩という男は殊更合理主義者であった。血のつながった男ならば、少なくともおおっぴらに裏切りはしまい。
七郎はそうして、他の兄弟とは離され、ある組織で育てられることになった。
柳生新陰流の一門にして、日の本を遍く見通すための柳生の目──即ち裏柳生。
彼は柳生新陰流の技と、忍びの市井潜伏の技である『伏せり』を会得し、この度初の任務に赴くことになっていた。
「──父上にこうしてお目にかかること、七郎は長く望んでおりました。一人前の裏柳生として任に赴くことも」
「うむ。柳生の繁栄は徳川の繁栄あってのこと。裏を返せば柳生の敵は徳川の敵ぞ。お主はそうした者からこの国を守らねばならぬ」
「して、此度はどのような」
「おう、それよ。……お主も、島原の大戦については聞き及んでいよう」
島原。天草四郎時貞なるキリシタンが、籠城の結果文字通り全滅するまで争ったという戦である。
「板倉重昌様が討ち死になされ、老中の松平様も随分と手を焼かれたと伺っておりまする」
「わしも知恵伊豆や上様に散々、甘く見てはならぬと申したのだが、結果はあの無様ないくさぶりよ。父上から一向一揆の噂はよく聞いておったが、やはり信仰は恐ろしい。信じる者はそのもののために死ねるのだ。島原の切支丹共は矢折れ刀尽き、食料がなくとも喜んで死んでいったという」
わずかに宗矩は眉間に皺を寄せて言った。信ずる者のために死ぬ。武士ならば当然の考え方だが、切支丹はそれを上回る。徳川が絶対であると信ずる彼にとっては、嫌悪の対象なのやもしれなかった。
「いずれ、切支丹共を日の本から一掃せねばなるまい。そのための策も打ってはあるが──問題は京や大坂の喉元に切支丹共の集落があることじゃ」
切支丹の集落。七郎も裏柳生の任務の一貫として、先達に付いて各地で斥候をしているが、存外珍しいものではない。当然京や大坂の近くにもあるにはあるはずだ。
「……お主の申したいことはわかる。珍しくもないと言いたいのであろう」
「……そのようなことは」
「確かに珍しくはない。大抵は、仏を拝むように奴らの神を拝む程度であろう。……しかし、信ずる者──つまりは信ずる人がいるのであれば別じゃ。島原の折、天草某がその旗印になったようにな」
「また、切支丹がいくさを起こすと」
「それどころではない。……お主、明石全登を知っておるか」
明石全登。大坂で豊臣方の中核を担った五将のうちのひとりで、切支丹大名としても名が知られている。
そして、二十年近く経った今でも見つかっていない。死んだとも、生きているとも──。
「大坂方の勇将であった、と──」
「……播磨国に、かつて高山右近という切支丹大名がおってな。高山めのおかげで、切支丹の集落が多い国になった。……そこには、小さいが明石と名の付いた集落があって──全員が切支丹で明石姓を名乗っておるらしい。周辺の村々の者は口を揃えて『あの村は、ずすとさまが守る村である』と言うておるらしいのだ」
「ずすと、と申しますのは?」
「切支丹は洗礼名なる、別名を授かるらしい。明石全登の洗礼名が『ずすと』──この際生死はどうでも良いが、このような噂が広まれば、徳川の不満分子を引き寄せることになりかねぬ。徳川の繁栄を大盤石にするためには、そのような禍根を残してはならぬのだ。七郎、わかるな」
宗矩は強く、強くそう言った。彼にとって徳川の繁栄は人生を賭けた大事業である。それを、過去の遺恨から端を発するようなことで、水泡に帰すことはできない。
七郎は父と同じ怒りを感じる。父と同じ懸念を感じる。それが仕事だからだ──。
「七郎に全ておまかせください」
「重畳。後詰めに和左之助と矢八郎をつける。小さい村じゃ。伏せるのはお主だけ、情報を集めたら村を抜け、隣山に伏せておる二人に報告せよ。二月後の満月の夜を期限とする。その後は裏柳生で始末をつける」
「はっ。ご期待に添えるよう、全力を尽くしまする」
頭を下げ、七郎はすっくと立ち上がり、そのまま屋敷を出ようとする。いかな親子の関係とはいえ、任に赴く裏柳生とその首領では、隔てる壁は厚いことを七郎は理解している。
「七郎」
宗矩は静かに言った。
「はっ」
「裏柳生に失敗は許されぬ。裏切りもな」
「よく理解しております」
砂利を踏む音だけが、あたりに響いていた。宗矩は彼の背中を見送るのをやめ、読んでいた本に向き直った。
屋敷を出てすぐ、後ろから足音が二つ響いてきたのに、七郎はすぐに気づいた。
和左之助と矢八郎──裏柳生の一員である。特に矢八郎は大坂の役にも参陣したことがある、古株の手練だ。
「七郎。大目付様にお目通り叶ったな」
矢八郎は黒編笠を持ち上げ、傷跡だらけの顔を笑顔に歪ませて言った。この編笠は裏柳生の証であり、薄い鉄が仕込まれている特注品である。
「お父君は日の本一の大忠臣。お主も手柄を立てれば、裏柳生の棟梁となるのも夢ではあるまい」
矢八郎は裏柳生に預けられてから、親代わりになってくれた恩人である。彼がこうして喜んでくれるのならば、この任務に失敗は許されぬ。七郎は背筋が伸びるような気がした。
「矢八郎の親父殿。もうそのあたりで良いでしょう」
和左之助が言った。彼は七郎と一つ違いの青年であり、兄弟子である。
「播磨国は遠い。我らの足が遅いなどという理由では言い訳にもなりませぬ。早々に発ちましょう。そうだな、七郎」
彼は裏柳生という組織に忠実な男であった。兄弟のように育ったが──今回のことで七郎ははっきりしたような気がしていた。
彼は、七郎のことが気に食わぬのかもしれぬ。弟分として可愛がってもらった記憶はある。しかし、それは自分が柳生の血を引く者であるとしれた後はどうだったか。
──それは、思わぬようにして、目を背けていたのではないか。七郎は時折、そうした不安に苛まれる。
「まあ、そう言うな和左之助──重大な任務には違いないが、何。首尾よく終わらせて、お主らにも京や堺を見物させてやる」
まるで、糸がぷっつりと切れてしまっているようだった。
暗闇の中で雫が落ちる音。目を開けると、目の前には湿った地面と薄暗い闇──そしてその奥をわずかに照らす小さな光が見える。洞窟である。
足がじくじくと痛むのに、七郎はすぐに気づいた。折れてはいないようだが、捻ってしまったようだ。
それにしてもおかしい。ここはどこで──どうやってここにやってきたのかが、分からない。
自分の体が泥だらけになっているのはわかる。この洞窟に連れてこられたのか。
だとすれば、矢八郎と和左之助が二人共いないのもおかしい。任務前の負傷で待機になるにしろ、このような場所を選ぶはずもない。
思い出せぬ。
七郎はようやく自分の記憶が抜け落ちていることに思い至った。
「……にいちゃん?」
光が遮られた先に、人影があった。
「起きねえほうがいいって、ねえちゃんが言ってた」
粗末な着物を着た少年であった。年の頃は七、八も行くまい。さらに後ろを見ると、赤子を背負ったこれまた同じ年頃の少女と──それより背の高い、女がひとり立っていた。
杖を突いている。足が悪いようには見えないが、少女が手を引いているのがわかる。
「捨彦。お侍様が目を覚ましたの?」
「うん。とよ姉もしのも来いよ。……兄ちゃん、口きけるか?」
七郎は頷き、声を出そうとした。胸を打ったのか、息が吐きづらい。
「お侍様。あなたは明石村の崖側から落ちてしまったのです。ここにおります捨彦が今朝それを見つけまして、粗末なところとは承知の上でございますが、手近な洞窟に運んだのでございます。……わたしはこのとおり目が見えませぬし、村には男手がおりませぬので、目を覚まされるまでお待ち申し上げました。ご不快とお思いでしょうが、どうぞお許しください」
まるで、そう言えと誰かから言われているのではないかというほど、流暢な物言いであった。褪せた染物を纏っていても、立ち居振る舞いが似合っていない。出来すぎている。
それに、明石村。七郎の頭の中で記憶が──過去の一瞬が小さく爆ぜて消えた。
ともあれ、目的の地には辿り着いたのだ。──矢八郎や和左之助も待機しているはずだ。
「助けてもらっておいて、不快も何も無い。礼を言う。……お主、名は」
「わたくしはとよでございます。こちらにいるのがしの。背負っております赤ん坊は、はる。──男子の方は捨彦と申します」
「そうか。俺は──佐野七郎と申す。……村には男手がおらぬと申したな」
「明石村は、隣村より慈悲を貰ってなんとか生計を立てております。お恥ずかしい話ですが──昨年、流行り病で大勢が死んで──残った男手は戦に出ました」
「戦? まさか島原か」
とよは頷いた。細い首の女であった。少々骨張っており、あまり暮らしぶりは良くないようである。
外の光が、わずかに強くなった。雲が晴れたのかもしれなかった。
七郎はその光が、とよを暴いたように見えた。骨ばった首筋には、細い首をほとんど横断してしまうほどの亀裂──そして首から顎にかけてこれまた大きな傷痕──ほとんど薄い唇に届いてしまっている。
「にいちゃん。立てるか?」
捨彦が手を出した。少年らしい性急な手助けだった。
「うちに行こう。ここは夜、結構寒くなるんだぜ。死んじまうよ」
流石にまだ死ぬわけにはいかなかった。七郎は彼の手を引っ張るように体を起こし、肩を借り、なんとか立ち上がった。歩けはするが、とても走れないだろう。
「とよ殿。捨彦の言うように、そなたの家に邪魔をしても構わぬだろうか」
「もちろんです」
あばら家が点在するだけの、小さな集落であった。とよはゆっくりとした足取りで、この村についてのことを教えてくれた。
今は自分たちしか住んでいないが、戦に出た男たちが戻ってくることを見越して、女や老人たちが隣村に出稼ぎにいっているらしい。
とよはそうした者が時折置いてくれる米と、捨彦が採ってくる野草や魚で命を繋いでいるという。
「……そなたらだけで生きていくのは大変であろう。なぜ他の女や老人たちと一緒に隣村へ移らぬのだ?」
「この周りは崖が多く、目の悪い私にはとても出て行けぬのです。子供たちにも危のうございますし、こうして皆の帰りを待っているというわけにございます」
確かに、洞窟から村にかけては雑木林で比較的歩きやすいが、少し目を向ければ切り立った崖に囲まれた土地である。戦国の世であれば、攻めにくく守りやすいと言った評価であろう。もっとも、村にはそのような戦の気配はない。
「田や畑を作るのにも土地が足りないのです。男の方がいた頃は、隣町に断りを入れて狩りなどもしておりましたが、なかなか立ち行きませぬ」
「左様か。難儀をしておるな」
七郎は玄関に入ってすぐ、捨彦の肩を借りながら、小上りにゆっくりと腰掛けた。その都度痛みが襲う。あまり無理はできぬようだ。
「改めてすまぬ、とよ殿。しばらく村に置いて貰えぬか。迷惑がかからぬように出ていきたいのはやまやまなのだが、足がこうではどうにもならぬ。……些少だが礼もする」
そう言うと、七郎は豆板銀を何粒か取出して渡した。路銀として支給されているものだ。とよが金次第で態度を変えるような女には見えぬが、出し惜しみはしない。ここで自然に取り入れれば、任務にも当たりやすくなる。
とよはふっと笑い、七郎の隣に杖を突きながら腰掛けた。
「七郎様。お金は結構にございます。お困りの方をお助けするのは、当然のことです」
「しかし」
「姉ちゃん。なら、足が治ったらおれの仕事を手伝ってもらうよ。骨が大丈夫なら歩けるようになるのもすぐだろ」
捨彦が笑いながらそう言った。
「大人の食い扶持を稼ぐんだ。そのぶんあとで楽させてもらうよ」
しのは捨彦が笑ったのが嬉しかったのか、抜けた歯を見せながら笑った。彼女が背負っているはるも。
合わせねばならぬ、と脳裏に浮かぶようになったのは、いつからだったか。
伏せりの極意とは、他者に合わせることである。同じ釜の飯を食い、同じことに喜びや悲しみを感じる人間を、少なくとも敵だとは思わぬ。
いつしか七郎は、己というものを持たぬようになった。
笑う。笑っている。それでも七郎の心の中は冷ややかだ。彼女らがいくら笑っていても、切支丹かもしれぬという疑念は持ち続けねばならない。
島原では彼らの仲間が沢山の侍を殺したのだ。
だから七郎は笑った。彼らに疑念を持たれないように。朗らかに。
しばらくの間、七郎は一介の浪人として明石村の生活を過ごした。
三日もすると足の痛みは引き、自由に動けるようになった。誰にもそれは伝えていない。誰であれ、怪我をしている者には優しいものだからだ。
明石村は怪我をしている七郎でも、一日もあればふた周りもできるほど小さな集落であった。
一週間も経ち、杖を突いて歩くようになってからは、捨彦の案内で生活用水にしている小川や、自分が落ちてきたのだという崖下にも行ったが、彼らが切支丹である証拠は出てこない。
もしかすると、切支丹であった大人たちは皆死んでしまったのかもしれぬ。
島原の戦で生き残った切支丹はいない。少なくとも播磨国に戻る余力があるとは思わぬ。
大目付殿の杞憂であったのか。
一月が経ち、とよや捨彦、しのやはる達の手伝いができるようになると、七郎はそう思うことが多くなった。
とよは目が見えないながら、器用に組紐を作っている。隣の村で手が足りないのを、材料を卸してもらい無理を言ってこちらで作っているのだという。
糸の色の組み合わせはしのが見ている。良い色の組紐が淀みなくできていく様は、見ていて気持ちの良いものだ。
「しかし、よく作るものだな。本当に目が見えぬのか?」
「光を感じることはできます。村の中なら、どこに何があるのかわかりますので、杖があれば歩くのに不自由はいたしませぬ」
「とよ姉はすごいの。しのは夜怖くて歩けないのに、すいすい歩いていけちゃうの」
七郎はふうん、と頷いた。
「とよ殿は、ここから出たいと思わぬのか?」
「ここから──と申しますと」
「隣の村でも、どこでも良いが──そうじゃ、堺や京、江戸に行ってみたいとは思わぬのか? 俺も、そう詳しくはないが──」
とよはふっと笑った。首から目元まで達している傷が、笑みを引きつらせたように見えた。
「わたしはここ以外に世を知りませぬ。……昔通りとは行きませぬが、ここには必要なものが揃っておりますし──」
とよはそこで言葉を切って、頭を振った。
捨彦が外から呼ぶ声がした。七郎はそれ以上何も言わず、外へと出ていくことにした。
薪割りは二人がかりでやるとあっという間に終わってしまった。まだ日は高い。捨彦は薪を片付けると、突然立ち上がった。
「七郎兄ちゃんはさ。足が治ったらどうするんだ?」
捨彦は拾った枝をくるくる回しながら言った。
「京や堺ってのはどこだ? おれ、せいぜい隣村に行ったことがあるくらいだ。楽しいのかい?」
「俺もわからぬ。実のところ行ったことが無い」
「そうかあ。……でもこの村だってすごいものがあるんだぜ」
「すごいもの?」
「そうだ。……兄ちゃんに特別に見せてやるよ」
見覚えのある道──もっとも、明石村のどこに何があるのかだいたいは理解しているのだが──を通り、雑木林を抜けると、七郎が最初に目を覚ました洞窟にたどり着いた。暗い洞窟だったが、一切恐れる様子もなく、捨彦は中へと入っていく。
しばらくすると、目が慣れ──わずかに光が差してきた。どうやら洞窟というよりは、渓谷に出来た空洞らしく、日の光が当たるようになっているらしかった。
平たい巨石の上に、鎧武者が鎮座しているとは、七郎も考えなかった。
思わず身を強張らせたが、七郎はすぐにその警戒を解いた。十字の前立て、白銀色の一見西洋風のその鎧武者はがらんどう──つまりはただ鎧としてそこにあるだけの存在であった。
「すげえだろ。この村の守り神なんだ」
「守り神?」
「とよ姉はそう言ってる。たまに一人で祈りに来てるんだ。でも俺達のぶんまで祈るからって連れてきちゃくれない。大人だけで祈るのが掟なんだってさ」
七郎の心臓が早鐘を打つ。十字架に祈りを捧げる。切支丹のことを一から十まで知っているとは思わぬが、七郎にはわかる。
この鎧は、明石全登のものだ。大坂城の戦いで戦死していなかったのだ。
七郎は顔に動揺の色が出ていないことを祈りながら、捨彦に礼を言った。
和左之助が村に現れたのは、その三日後であった。
全くの偶然だった。たまたま七郎が一人で薪を集めている時に──彼は雑木林に立ち尽くしていた。
まるで幽霊でも見たような顔をしていたのは、見間違いだったろうか。
「和左兄さん」
「お前──ここで、何を」
七郎はあたりを見回してから、声を潜めて言った。
「伏せりの最中ですが──それより、兄さんこそ何故」
和左之助が刀を抜いたのだ、と分かったのは、すでに自分の頬が切られた後だった。鯉口を切って、音もなく抜刀し終わっていた。柳生新陰流の基礎、先の先。相手より先に動けば勝つ。
そしてその刀はすでに、首に突きつけられていた。
「何故死んでおらぬ」
「……俺はこの村に入る前に崖に落ち、足を負傷しましたが──村の者に命を拾われました」
「悪運が良かったということか。……それは俺も同じだが」
「兄さん、何を──」
「お前を崖から突き落としたのは俺だ」
血の気が引いた音が聞こえたような気がした。仲は良くなかったとはいえ、兄と慕った和左之助が、何故。
「分からぬか。分からぬだろうな。裏柳生ははぐれもの、親なしの集まり。しかしどんなに卑しい身分の者でも、剣の才があれば上に立てる。──しかし、大目付様の血を引いたお前がいれば話は別よ。お前がいる限り、俺は決して裏柳生の棟梁にはなれぬ」
「今は任務の最中、出世の是非を問うような時間では無いでしょう」
「そうだろうな。お前が死んでおれば、任務もすぐ済む予定であったわ。ここには切支丹の女と餓鬼共しかおらぬ、というのも分かっておる。他の裏柳生を待たずとも、俺一人で皆殺しにできる」
刀の切っ先から、炎がゆらめくように自信が漏れ出ていたのは、気のせいではなかった。
切支丹を殺す。裏柳生として当然の判断だ。だが、とよ達を──この行き場もない村で懸命に生きるあの子供たちを、切支丹だと無慈悲に断罪するのが、本当に正しいことなのか。
七郎は、兄弟子の刃を感じながら迷いを感じていた。それは剣に生きる者にとって、致命的な迷いであった。
和左之助はそんな彼を見透かすように笑った。それだけでなく、刀を引いて納めたのだ。
「単独で伏せりをするのは初めてであったな、七郎。情に絆されたか。あの女に縋られでもしたか?」
「兄さん、そのようなことは」
「黙れ。……お前はもうここから逃げられぬぞ、七郎。村の出入口は俺が見張っている。貴様の醜態はきっと俺が親父殿や大目付様に伝えてくれる。──それが嫌なら」
「嫌なら?」
「貴様自らこの村の者を皆殺しにして参れ。さすれば、お前の失態は胸の内に秘めておいてやる。それどころか、お前の活躍ぶりをしっかりと伝えてやるぞ」
「しかし、兄さん。ここの村の者が切支丹だとは……」
「分かっておらぬな七郎。切支丹が潜んだ隠れ村が存在するという噂がもう問題なのだ。実情がどうあれ、な。裏を返せば、そんな輩が皆殺しにされたとなれば、切支丹共は震え上がる。それを隠し立てする不届き者もな。喜んで他の切支丹共を売るようになろう。神を崇めようとも、所詮は我が身が可愛いのだ。それはお前も同じではないのか?」
和左之助は編笠を被り直すと、踵を返して雑木林の奥へと消えていった。
捨彦に教えられた、あの洞窟の奥──月明かりの下に佇む鎧武者を見上げながら、七郎は今日のことを思い起こしていた。
自分の死を願っていた和左之助の言葉は、七郎にとって衝撃であった。
裏柳生は忠烈極まる武士の集まり。徳川の世のためなら仏を切ることすら叶うだろう。もちろん神も。
「……七郎様ですか?」
杖の音が近くまで来ているのに、声をかけられるまで気づかなかった。夜更けだというのに、とよがやってきていた。
捨彦は彼女だけがここへ祈りを捧げに来ると言っていた。
「本当に一人でここに来るのだな」
「……捨彦がここを教えたのですね。ここは、神聖な場所です。七郎様とて、入っていただきたくありません」
とよはそう言うと、地面にかしずき、手を組んで祈りを捧げ始めた。
彼女は七郎に出ていけとは言わなかった。長い祈りであった。切支丹ならば聖句と呼ばれる、仏道における経のような祈りの言葉を捧げると聞いていたが、彼女はただそこで祈るだけだ。
静かな夜だった。
「これは呪いなのです」
不意に彼女が言った。
「呪いと申したか」
「……ええ。播磨の国には、高山右近様という大名がおられました。ご存知ですか?」
「切支丹であったと聞いておる」
とよは細く白い指を着物の襟に通すと、その肌を晒した。唇から鎖骨まで通る縦の切傷。そして、首を半分は回ろうかというほど深い傷。
「私は大坂から落ち延びた先で、この首の傷を受けました。今となってはどういう原因だったのかは分かりません。分かるのは──この唇まで達した傷が、祖父によってつけられたものだということです」
「祖父──まさか」
「そうです。あの鎧の持ち主──
祈りを終えて、とよはこちらに向き直った。彼女は大きく息を吐くと──これまで溜め込んでいたものを吐き出すように、話を始めた。
「父は戦死し、母は私を産み落としてすぐに死にました。祖父は切支丹の信仰のために戦いましたが、結果はご存知のとおりです。しかし、祖父は諦めていなかった。きっと神が見ていてくださる。いつか徳川に一泡吹かせてやると、この明石村で牙を研いでおりました。──いつしか人が増え、離れた村に移住するまでになると、困ったことが起こりました」
「困ったこと?」
「御神体──十字架やまりや様の像が足らなくなったのです。もちろん、個々人持ってはいますが、切支丹の教えでは週に一度、一つの場所に集まって、村々のもので祈りを捧げねばなりません。祖父は敬虔な信者だったそうで、自分のもっていた舶来のものに皆で祈りを捧げてこそ、自分たちの意志が通じると考えていたようです」
「なるほど。隣村は遠いからな──ひとつの御神体をやりとりするにも一苦労というわけか」
「そこで、祖父は考えました。かつての知り合いでもあり、切支丹として唯一生死の間から奇跡の復活を果たした、高山右近様の再来──首の半分に達する傷を持つこの私を、明石村の御神体とすれば良いと。そして、より神に近づけるために、祖父は私にもうひとつの傷をつけた。即ち、十字架に見える傷を」
見えぬはずの瞳が、爛と輝いて見えたのは、七郎の気のせいだったろうか。
とよはそうして自分の過去を語り終えた。明石全登は志半ばに死に、他の切支丹達は最後の戦地──島原へと向かって帰ってこなかった。
「隣村の方々は、今でも私のために食べ物や身の回りのものを揃えてくださいます。……私から言ってみれば、それは罪滅ぼしのようなものでしょう。隣村へ行けば、皆に余計な気を負わせてしまう──だから私は、この鎧が見つからぬよう、捨彦達がこの村を出る日までこうして──」
「お主はそれで良いのか」
七郎は思わずそう尋ねていた。切支丹だ。それはわかっている。命令がある。それもわかっている。父親が──柳生但馬守宗矩が、矢八郎が、自分の活躍を願っている。それでも。
「お主にもお主の人生があろう。捨彦や、しのや、はると生きる生活は良い。しかし、もう明石全登も切支丹もこのあたりにはおらぬ。いずれこの国からもいなくなるのだ。もう意味など……」
「私にとって、祖父は優しいお方でした。その祖父が私にそう生きよと願ったのです。だから──」
とよは目を伏せ、絞り出すように言った。
「私は、これで良いのです。この祖父の鎧のように、誰にも知られず朽ちていければ、良いのです」
「俺も、本当の父の顔をつい先日まで知らなかった。育ての父も良くしてくれたが──兄弟のように慕った男には──」
裏切られた。そう出そうになったが、七郎はそれを押し留めた。言ってしまうと完全に認めたようになった気がしたからだ。
「……生きている者には義理もある。筋も通さねばなるまい。だが、死んだものに自分の身を削ってまで義理立てするのは、よせ。お主はまだ先があろう」
とよはしばらく黙っていたが、やがて杖を取り、ゆっくりとその場から去っていった。
彼女の呪いは深いようだった。それは切支丹であるべきと強要された呪いだ。彼女は切支丹の御神体そのものとして育てられ、そう生きることしか知らぬ。
和左之助の言うように、切支丹の隠れ村であることに言い逃れはできぬ。
だが、七郎にはわかる。とよをはじめとして、この村の者に切支丹はいない。御神体となってしまっている、この明石全登の鎧を除いては。
妙な物音があたりに響いている。和左之助が気配に気付いたのは、夜も更けた頃であった。
ぎゃあぎゃあと、夜にもかかわらず鳥が木から飛び去っていく。
明石村へと続く細い渓谷、その中腹に、少し広がった岩場がある。ここ以外は切り立った崖ばかりの村を見張るには絶好の場所だ。
そして、誰かが来れば即座にわかる。
だがその誰かが鎧武者になろうとは、彼も予想の範囲外であった。十字架をあしらった白銀の鎧である。背中にはかろうじて青であることがわかるぼろぼろの母衣をつけており、顔は面頬で隠され伺いしれぬ。
和左之助は思わず彼の前に出ていた。自信はある。柳生新陰流は活殺自在無敵の剣術。鎧武者が相手とて遅れは取らぬ。
「何奴じゃ。明石村の者か」
鎧武者は喋らなかった。無言のうちに刀を抜いて、正眼に構えた。
お前は、まさか七郎か。
口について出そうになったのを、刀を構えて我慢した。七郎の構えには、切っ先が少し上がる癖がある。
七郎だとすればなぜ、鎧を身に着けている。疑問は止まらなかった。
「我が名は明石全登。柳生の曲者めが、村に入り込んだ鼠は縊り殺してやったぞ。お主もそうなりたいか」
和左之助は思わず笑ってしまった。下手な芝居だ。明石全登が生きていれば相当の高齢、どんなに声色を変えても今のような声にはならぬ。
「兄弟同然に育った俺をごまかせると思ったか、七郎?」
笑いをなんとか誤魔化しながら、和左之助は続けた。
「仮にここで俺を殺したとしても、矢八郎の親父殿が動くだけだぞ」
「……わかっている」
「だが、俺としては好都合だ。明石全登なら斬ったとて咎めは受けまい。貴様を斬り、明石村の連中を殺せば、俺は晴れて裏柳生の棟梁に近づけるわ!」
鉄が打ち付け合った音が、月明かりの下に響いた。弾けた音が呼び水になったのか、ゆっくりと粉雪が降りてきていた。
和左之助は数度打ち合ったあと、首に向かって突きを繰り出した。それが最後だった。七郎はわずかに首を逸らし、刃を避けて、組み打ちを挑んだのだ。
飛び込んだ際の出来事で、和左之助には反応すらできなかった。地面に叩きつけられ、臓腑の中から息が抜ける。
雪と一緒に、高く掲げた刃の輝きが目に降りてくる。
「俺を恨まないでくれ、兄さん」
七郎は面頬の中で静かに言った。
「いずれ俺もすぐ、同じ場所へ──」
朝が来た。
地面に霜が降り、薄く雪が積もっている。すでに消えた焚き火の残り香もなくなって久しい。
矢八郎は子供たちの帰りを待っていた。待ち続けていた。今日で、任務が終わる。
堺や京都に行く約束は難しそうだった。だが彼にとって今は、手塩に育てた二人が無事戻ってくることだけが願いであった。
それは、朝餉にしようと腰を上げた直後のことであった。突然、血塗れの鎧武者が目の前に現れたのだ。
思わず腰にした刀に手をかけようとしたが、思わず矢八郎は尋ねていた。
「……七郎、その格好は……?」
鎧武者は青い母衣に包んでいた──血がまた滴っている──ものを、彼の目の前に投げ出した。
「我が名は……明石全登」
言葉が震えていたように聞こえたのは、気のせいだったろうか。その声は、間違えるはずもなく、育て上げた子の声。そして、その足元に転がったのは──。
「馬鹿な! 和左之助!」
首であった。見間違えるはずもなく、間違えではないかというほど安らかな死に顔の──和左之助の首であった。
矢八郎は即座に鯉口を切り──鎧武者の首にその切っ先を突き付けていた。
「七郎──何があった! 何故殺した!」
「我が名は明石全登。七郎? 柳生の手の者は二人共殺した。そいつは情け故に首は残してやったぞ。もう一人は肉も残らぬほど刻んでやった。貴様もそうしてくれよう」
「なれば何故刀を抜かぬ」
鎧武者は答えなかった。矢八郎は思わず叫んでいた。こんなことはありえない。まさか柳生宗矩公の御血を引くはずの七郎が、乱心したか。
「七郎、お前は柳生新陰流を納めた剣士のはず。殺そうと思えばこの俺も殺せるはず。なぜ抜かぬ。なぜ抵抗せぬ」
「……理由が知りたいのか? 和左之助とはこの鎧──功の取り合いで言い争いになり、剣を抜いた。何が柳生新陰流ぞ、何が御留流ぞ。油断したところを後ろから二、三度刺したら静かになったわ。此度の任務、俺以外は全滅になったが果たしたと言えば、父上も俺を認めよう」
「くだらぬ戯言を! なれば俺をなぜ殺さぬ! 不意をつかぬ! 何か理由が──」
「くどい! なれば死──」
鯉口を切る音が、矢八郎の緊張の糸をぷっつりと切ってしまった。刃を首に押し込んで──七郎の体はぐったりとこちらにもたれかかってきた。
流れる血とともに、七郎が抜こうとした刀が鞘へと戻っていった。
矢八郎にはわからぬ。
何が起こったのか。俺は正しいことをしたのか。
何より、大目付様になんと説明すれば良いのだ。
無数の場数を踏んだはずの矢八郎は、押し寄せる感情の波に耐えられず──子供たちだったものに見られぬように、吐いた。
吐き続けていた。それは何も出なくなるまで続いた。
「左様か。大儀であった。下がって良い」
柳生但馬守宗矩が、矢八郎の報告を聞いて吐いたのは、そうした労いの言葉だけだった。
矢八郎には頭を上げることができなかった。額を文字通り庭に擦りつけたままであった。
「大目付様に、申し上げたき儀がござる」
「申してみよ」
「ご子息が亡くなられたのは、ひとえに拙者の不行き届きによるものにござる。有望なる裏柳生の若者も一人死に申した。なぜ何も沙汰を下されぬのか、お聞かせ願いたく」
「決まっておろう」
柳生宗矩は、縁側より冷ややかに見える目で見下ろしながら、淡々と述べた。
「わしは裏柳生であるお前たちに、明石村の切支丹共を始末せよと申した。お前たちは潜伏していた明石全登を始末し、その鎧を破壊した。いずれ噂は蔓延しよう。この国に巣食う切支丹共は、有力な切支丹であった明石の死に絶望し──少なくとも徳川に逆らおうとは思うまい。お前たちは任務を果たした。それ以上儂が何を求めようと言うのだ」
矢八郎は絶句する他なかった。任務は果たした。確かにそうかもしれぬ。しかし裏柳生という表に立たぬ役目であり、妾腹の子とはいえ、自分の子が死んでも、この男は何も思わぬのだ。恐ろしかった。
裏柳生など、自分の子など、この男にとって使い捨ての駒でしか無いのだ。
「矢八郎。勘違いをするな。……儂とて人の親じゃ。子が死ねば悲しむこともする」
まるで見透かしていたかのように、宗矩は言った。
「だがな。……生きておってほしい子に、七郎などという名はつけぬ」
宗矩は立ち上がってそう言うと、まだ立ち上がろうとしない矢八郎に対して、背中越しに言い捨てた。
「下がって良い。此度は大儀であった」
その後。
日本では三代将軍徳川家光と柳生但馬守宗矩によって鎖国政策が実施され、国内の切支丹達は潜伏を余儀なくされた。
ほどなくして宗矩は病没したが──実の息子たちによって分割された遺産は、結果的に柳生家の衰退を招いた。
一方、現代日本において、明石全登の末裔を名乗る者が幾人も現れている。
しかしそれが、あの明石村のとよの血を引いているかどうかは、定かではない──。
終
いくさのあと 高柳 総一郎 @takayanagi1609
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