Yの犯人
藍澤 廉
第1話
その事件は、とある高校の職員室で起きた。この学校で三年生の現代文の授業を受け持っていた女教師が、何者かに殺害されていたのだ。鋭利な刃物で腹部を数回刺されており、現場は血の海だった。
被害者は、うつ伏せで倒れており、左手だけが頭よりやや上の位置にあった。そして、その手のすぐ側に血で書かれた「Y」のような文字が残されていた──。
「……そんな事を説明する為に、わざわざここまで来たの?」
自身の記憶が正しければ高校の時のものと思われる紺色のジャージに身を包んだこの女の名前は
部屋はワンルームだが、家具は彼女が横になっている大きなソファとその目の前に置かれたテーブルくらいしか存在していない。だが、その二つの家具はこの殺風景な部屋には全く似合わないほど高級感を放っている。というのも、彼女の実家の方が俗に言う金持ちらしく、月に一回家から仕送りが来るので働かずとも生活が出来ているのである。
とはいえ、当人に生活力は微塵も感じないし、髪はいつもボサボサでメイク用品などもこの部屋では見た事はない。シンクの方にはいつも食器が置かれっぱなしだ。こんな状態の娘をよく一人暮らしさせられるな、という疑問を抱かない日はない。
だが、こんなにだらしない彼女だが、その顔だけは高校の時と変わらず綺麗だった。白磁のような肌は、まるで肌荒れなんて全く知らなそうなほど艶やかだし、できものも一切無い。きちんとしていれば、数多の男からちやほやされそうだが、彼女はそんな事には一切の興味を示さず、二十四時間のうちの半分以上寝転んでいるのが現状である。
そんなだらしない女の元に慧志がわざわざ出向いたのには、相応の理由があった。
「また、君の知恵を貸してもらいたくてね」
彼女には、過去にも事件の解決のために協力してもらったことがある。信じられない事に、彼女は頭脳に関しては人一倍優れているのだ。前の事件の時も彼女の頭脳にたびたび助けられた。今回も出来れば多少の知恵を貸してもらいたい。
だが、雫の表情はあからさまに嫌そうに歪んでいた。
「えー、また私に働けって事? めんどくさいなー」
「で、でも君の意見が聞きたいんだ。少し協力してくれないか? 報酬ならきちんと用意させてもらうよ」
慧士が改めてお願いすると、雫は何かを考えるように小さく唸った。それからすぐに起き上がって、にやりと悪戯っ子のような笑みを浮かべる。
「報酬ってさ、何でもいいの?」
「え? ま、まあ、俺が払える程度のものなら……」
彼女への捜査協力はあくまで個人的なものであり、当然ながら経費じゃないので、自分自身の財布から出さなければならない。だが、まだ階級の高くない自分に払える金額など限られている。
そんな不安が顔に出ていたのか、雫は笑いながら首を振った。
「別にお金はいらないよ。むしろ余ってるくらいだからね」
「じゃあ、一体何を?」
「今度さ、デート行こうよ」
「は?」
あまりにも予想外の言葉が飛び出てきて、慧士の思考は停止した。何で急にそんな事を言い出したんだ?
「どう? 悪い条件ではないと思うんだけど」
「い、いや、しかし……」
「嫌なら断っていいよ。ただし、事件には協力しないけどね」
それだけ言うと、雫は再びソファに体を沈めた。どうすればいいのだろうか。多分断ったら、本当に協力なんてしてくれなくなるだろう。だが、デートなんてうまく出来る自信はない。だけど――。
慧士は悩み、悩み、悩んで、やがて絞り出すように声を出した。
「……分かった。デート行こう」
「取引成立だね」
どこか嬉しそうな声で彼女は答えると、再び体を起こした。
「それじゃ、話を聞かせてよ」
「――被害者は、
「うん。続けて」
改めて事件の概要を雫に説明し始める。事件が発覚したのは昨日の午前六時ごろ。定期テストの作成のために残っていた河村が、職員室で血まみれで倒れているのを別の先生が発見した。検視の結果、河村の死亡推定時刻は一昨日の夜八時から十一時の間とみられている。そして捜査の結果、その時間に河村以外に学校に残っていた人間が四人いる事が分かった。
まず二年生の地理を教えている
次に一年生の数学を担当する
続いて、
最後は
皆、その後の明確なアリバイは無く、また現場が職員室というのもあって、容疑者全員の痕跡は数多に見つかったが、犯人を絞る根拠にはならなかった。
「……ここまでで、何か気付く事はあるかな?」
一息ついでに慧士は雫に尋ねてみた。もしかしたら彼女ならもう犯人が分かったかもしれない。だが、その表情はあまり明るくはなかった。
「現時点では何とも。誰にでも犯行は可能だったろうし。監視カメラとかはあったのかな?」
「あったよ。正門と裏門にね。全員証言通りの時間に正門を出ていく様子が写っていた。けど、柵を乗り越えれば敷地内に入れる場所はあるし、そこには監視カメラは無い。一度出たフリをして戻ってくることは可能だったと思う」
「なるほどね。それじゃそろそろ問題の文字の話をしようよ」
雫に促されて、慧士は一枚の写真を取り出してそれを雫に見せた。その写真には、左上の線が途切れている『Y』の文字が写っていた。被害者の血で書かれているその文字は被害者自身が書いたと思われた。いわゆるダイイングメッセージである。まさか実際にそんなものを目にする機会があるとは思わなかった。
警察はこの文字は、犯人のイニシャルだと考え、犯人はYが付く名前――柳元が犯人であると考えた。しかし、柳元は犯行を否定。さらには、この文字は『Y』ではなく『人』であり、人見が犯人だと言い出したのだ。確かにそう言われれば見えなくもない。何故逆向きに書いたのかは疑問だが、犯人にそれがメッセージだと悟らせない為だとも思える。というわけで人見にも話を聞いたが、こちらも全面否定。そして彼女も、これは『人』じゃなく、そのまま『Y』でアルファベット――つまり英語教師である三井を示していると怒鳴った。こちらも確かに言われれば納得出来るものではあった。そして三井に話を聞けば、これはイニシャルだと言われ、堂々巡りとなって今に至るというわけだ。
結局、この文字が示す意図がわからず、ずぼらな彼女の知恵を頼りに来たのだ。
「――それで、何か分かった?」
慧士が改めて雫に尋ねる。彼女はただじっと文字が写っている写真を見つめていて反応がない。数分の沈黙の後、雫がフッと笑った。
「……確認なんだけどさ、被害者の担当教科って現代文だっけ?」
「ああ、そうだけど」
「ちなみに漢検とか受けてた?」
「え? 確か、準一級には合格していたと思う」
何故そんな事訊くのか分からないが、慧士はそう答える。すると、彼女は満足そうに頷いた。
「なるほどね。分かったよ」
「なっ……本当か⁉」
「本当。これはそのまま犯人の名前を表しているんだよ」
さらっと雫はそう言った。やはり、彼女の頭脳を頼って正解だった。
「それで、犯人は誰なんだ? この文字は『Y』なのか、それとも『人』なのか――」
「残念ながら全部外れ。これは『ワイ』でも『ひと』でもない。『ワイ』じゃないから当然アルファベットって意味でもない」
「……え?」
彼女の言っている意味が分からなかった。『Y』でも『人』でもない? じゃあ一体この文字は何だというのか。
「じゃあ、これは一体?」
「この字は漢字だよ。こういう字なんだ」
雫はそう言って写真の裏にマジックで『丫』という字を書いた。これが漢字? どう見てもワイにしか見えないが、写真と同じように左上の線は繋がってはいなかった。
「漢検一級レベルだったかな。まぁ、準一級を持っている被害者は知ってても不思議じゃないよね」
満足げに彼女は呟いてソファに寝転んだ。そのまま目を閉じるのを見て、慧士は慌てて声をかけた。
「そ、それで、この漢字は何て読むんだ? 犯人は誰なんだ?」
「犯人はダイイングメッセージの対象にならなかった揚牧先生だよ。そのままね」
「え、どうしてそうなるんだ?」
慧士が疑問を口にすると彼女はにやりと笑って、手招きをした。嫌な予感がしたが疑問の答えは知りたい。吸い寄せられるように慧士は彼女のもとに歩み寄る。そうしてソファの前にしゃがみ込むと、彼女はいきなり首元に抱き着いてきた。そして耳元でわざとらしい艶やかな声で囁いたのだった。
「『丫』の音読みは『ア』、そして訓読みは『あげまき』だよ」
Yの犯人 藍澤 廉 @aizawa_ren
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