三、帰る路は

 時刻はおそらく十七時前後。林道の奥では夕日が差し、辺りを赤く染め上げる。

 暖色を纏う風景とは逆に僕の顔からは血の気が引いていく。


「じゃあ……お、尾田はもう『こっち』に」

「うん。元の世界には帰れないわよ」

「涼しい顔してるけど、お前それでいいのかよ!?」

「手放しでは喜べないかな。でも後悔はしてない。だってこの世界にどっぷりだったし。田中もそうなんでしょ」


 返す言葉も無かった。

 尾田が学校を休む頻度と僕が帰宅中に林道を訪れる頻度がほとんど同じだったことを思い出す。


「決めるのは今日じゃなきゃダメなのか」

「多分」

「考える時間が欲しい」

「無理よ。もうすぐ夕飯の時間だし」

「なら!なんでもっと早く……」

「出来たら教えているわよ」


 こちらが焦って語気を強めても、尾田は淡々と言葉を続ける。一人で声を荒げるのが情けなくなって来た。

 呼吸を整えて自身を落ち着かせる。


「……悪い」

「それに田中は幸運だよ。私が気づいたのも偶然だし」

「何にだよ」


 そういうと、尾田は僕の手を指差した。不思議に思ってじっくりと手を観察する。

 何がおかしいのだろう。視界に映る手は間違いなく、僕の手だ。


「何もおかしくないじゃないか」

「思い出してよ。田中は最初、どんな身体でここに来た?」


 尾田の言葉に先導されて記憶を辿る。僕が最初ここを訪れた時、どんな状況だったか。もちろん鮮明に覚えている。


 自分の恰好が祖父に置き換わっていた衝撃は中々忘れられるものではない。


「あっ」


 そうだ。僕は本来、この世界をタケの身体で過ごしている。だが知らぬ間に僕の身体は若返り、肩から手にかけて未成年らしいハリを強調する。

 それは毎朝目覚まし時計を止めるときに目撃する僕の手だ。


「段々田中がこちらに『馴染んでいる』証拠よ。そうなったからには今夜、田中に夕飯が提供されるはず」

「……それで、どうなるんだよ」

「田中、こんな言葉を聞いたことない?『黄泉戸喫よもつへぐい』っていうんだけど」

「ん、あぁ死者の世界で物を食べたら……」


 そこで言葉が行き詰まった。なんとなくだが、僕はその結末を知っている。


「私は三日前にこの世界で夕飯を口にしたわ。それが何を意味するか、概ね理解した上で」

「は?尾田、お前……!!」


 またも遠回しにヒントを出す尾田。が、そんなおふざけに付き合う必要はない。

 なぜなら、尾田自身がすでに回答を出しているのだから……。


 "この世界の飯を食らえば、元の世界に戻れなくなるのだ"と。


「ふふ、なんて顔してんのさ。今夜この世界で夕飯を食べたいのは田中、アンタでしょ」

「……!」


 尾田は不敵な笑みを浮かべながらこちらを指を差す。反論したいところだが不思議と身体は動かず、口を一文字にして固く結ぶことしかできなかった。


 何を隠そう、僕は今、無性に祖母の味を欲しているのだから。


「図星ってやつ?うん、私もそうだった。不思議だよね。ここの人のご飯、食べたことないはずなのに。招かれるってのはそういう事。分かった?」

「あぁ、分かったよ……全部図星だ」


 しばらく呑み込み続けていた空気の塊を大きな溜息として吐き出す。


「素直でよろしい。まぁ後の判断は田中に委ねるわ」

「……判断、かぁ」


 そう呟いて、ふと空を見上げる。辺りを焦がす茜色の夕日は地平線に掛かり、上空では暖色と寒色の織りなすグラデーションが星々の舞台を作り出す。


 脳裏ではいつもの言葉が紡がれた。"そろそろタイムリミットだ"、と。

 だが、以前と異なり僕の現実逃避は本当の意味で終わりを告げる。僕にとって「選択の義務が発生すること」が即ち「現実逃避の失敗」を意味するのだから。

 結局、僕は都市伝説に遭っても逃げられないらしい。


「結局、選択肢に追われ続けるのかよ」

「……どういう意味よ」

「いやあ、何をするべきなのか分かっていないのに、なぜ道を選ばなきゃいけないんだってずっと頭の中でぐるぐるしててさ」

「ふーん……」


 どうしてだろう。

 ……否、当然の事か。問題の先延ばしで全て解決するならばそもそも問題なんて発生しない。先延ばしにした皺寄せは、確かにここで待っていたじゃないか。


「ちょっと、田中?なーに『この世の終わりだー』みたいな顔してんのよ」

「そりゃするだろ。この世界でも現実逃避に失敗したんだぜ、こっちは。追いかけっこは終わり。もうじき僕は鬼に捕まるんだ」

「……」


 自嘲的に笑って見せると、尾田は急に黙り込む。だが目付きの鋭さは変わらない。物言わぬ圧力が眼光となって僕を刺す。


「な、なんだよ。黙ることはないだろ」

「私は馬鹿だけど、田中もかなりの大馬鹿よ」

「……はい?」

「ここまで来て、まだ迷っているのね」


 尾田は溜息を吐き出すと表情を強張らせ、淡々と言葉を紡ぎ続ける。


「田中は分かれ道で立ち止まっているんでしょ?左右の道、どちらが良いのかも分からずウロウロしているだけ。そんな奴は鬼に捕まって当然。同じ場所に留まってる癖に何かから逃げ切ろうだなんて大馬鹿者よ」

「え」

「田中はまだ分かれ道に立っているけど、私はもう道を選んだ。選ぶしかなかった。現実世界で生きる選択を、私はずっと拒みたかった。これが正解なのかわからないし、間違いなのかもしれない。だけど後悔はしない、しちゃいけない。私はこの道しか通れないんだもの」

「……」

「でも田中には選べる道があるでしょ?だから悩んでいるんでしょ?だったらさ、もっと嬉しそうに悩んでよ。楽しそうに選んでよ。田中にはまだ色んな可能性が残ってるんだからさ」


 津波の如く畳みかける尾田の言葉に翻弄されて僕は何も応えられなかった。むしろ、尾田が真面目に話す姿に気を取られてしまったというべきか。

 でも、彼女の言い分は正しいように思う。


「ごめん。……尾田の言う通りだ」


 きっと尾田はものすごく苦しんで今の道を選んだはずだ。否、今の道しか選べなかったのか。尾田が「尾田」という名前になってから、神隠しに出会うほど路頭に迷っていたはずなのだ。そして結局、尾田は別の可能性を……。

 続く言葉がひどく不謹慎に思えてきて、そこで考えるのを辞めた。

 今は失礼な行動をできたものではない。目の前に佇む彼女は僕を追い駆ける鬼の如く、真直ぐこちらを見据えているのだから。


「情けない所見せちまった、悪い。よぉし!もう時間も迫っているしな。ここからは僕が進まなきゃいけないんだろ?」


 なぜだろう。ほんの少しだけ頭が軽くなった気がする。むかつくけど、尾田のいう通り足を進める時間が来たのかもしれない。


 僕の言葉に尾田はフン、と鼻を鳴らして応える。


「えぇ、そうよ。分かってるじゃない。ここから先は慎重に。だけどきっと大丈夫。ヒントならそこら中に散らばっているわ」


 そういう尾田は町へ向き、両腕を大きく広げて見せた。

 同様に町へ視線を向けると、辺り一面の景色が映り込む。


「これはきっと私の望んだ世界。誰も私を知らない、綺麗な世界。田中の目にはどう映るかしら?」


 田舎らしく、緑にあふれた町並み。

 廃屋のように荒んだ工場。

 何かの煙を吐き出し続ける炭鉱地。


 僕はこの時、初めて広い世界を見渡すのだった。


「この町ってこんなに広かったんだな」

「何言ってんの。ここは私達が住んでいた町の過去そのものよ。大体の形くらい、知ってなきゃおかしいでしょ」

「ははは、それはそうかもなぁ」


 いつも俯きがちの僕は、この光景を見る事も無かったのだろう。紫色に染まる空の下で民家に灯る僅かな明かりが存在を主張する。そしてどこからか漏れてくる、焼き魚の香り。腹を刺激する団欒の空気が辺り一面を覆い尽くす。

 今朝はこの光景をどれほど待ちわびていた事か。


 だけど。同時に視界に映る景色はどれも霞んで見えてしまう。


 木製で今にも崩れそうな電柱。

 まだ架けられていない、国道線沿いの大きな橋。

 森に隠れたままの、思い出の公園。


 数十年を遡ったこの世界に僕が馴染み深いものは何一つなく。僕の家があるべき場所には稲が植えられているのだ。思わず乾いた笑いを零す。


「はは、なんだありゃ。僕の家が田んぼになってやがる」

「田中だけに田んぼの中。ふふ、冗談がお上手な事」

「お前な……」


 先ほどの勢いはどこへやら。尾田の表情は元に戻っていた。


「さて、もう本当に時間がないけど」

「分かっているよ」


 互いの表情から笑みが消える。ここが惜しいというわけではない。

 大事な事を決めたが為に自然と表情が強張った。


「僕は……僕の家に帰る」

「そう」


 僕は林道から見渡す風景に背を向けながらゆっくりと足を進める。この景色も二度と見る事はないだろう。


「タケさんや、お夕飯できましたよー!」


 背後で祖母がタケを呼び止めるが、それに僕は応じない。応じる必要がない。


 僕の名前は「田中広」だ。


「じゃあな、尾田。お前のおかげでなんとかなりそうだよ」

「あっそ。ならもっと楽しそうにやんなさい。田んぼの中の田中くん!」

「うるせー!」


 同い年の女子にアカンベェをするのは一体いつ以来だろう。元クラスメイトとの別れだが、なぜか寂しさとは程遠い。


*****


 気が付くといつもの帰路を歩んでいた。携帯の時計を見ると時刻は約十八時四十分。帰宅と同時に母の味にありつける頃だ。


 不思議と以前のような重苦しさはない。星々が輝く空を見上げながら今後の事を考える。

 僕には選べる道がある。選ぶ道に迷ったら、辺りを見渡せばいい。

 尾田が伝えてくれた言葉をこの光景と共に胸に刻む。


 歩くうちに世界を見渡す方法が一つ頭に思い浮かんだ。


 あと少しで家に着く。そうしたら親にこう言ってやろう。

「祖父の勤めた職場に行ってみたい」と。

 そう考える自分に驚いたが不思議と悪い気はしない。これが尾田の言う「後悔しない」ってことなのだろう。

 僕は家族の居ない世界はごめんだ。何も出来ないまま家族の前から突然消えるなんて寂しすぎる。


 だから、まずは祖父の足跡から追いかけよう。あの世界で祖父に成り代わったのも、きっと何かの縁だから。


「あぁ」


 だけど、その前に言う事があった。

 家のドアをゆっくりと開け、帰宅の挨拶を家族に向けて言い放つ。


「ただいま。父さん、母さん」


 この家が、僕の帰る路なのだ。

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帰る路と神隠し ヤノヒト @yanohito

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