二、現実逃避のタイムリミット
今更だが、僕の名前は「
しかし、祖母が呼んだ様に「タケ」と読む箇所は一つも無い。
「タケ」とは僕の祖父「田中竹谷」が生前呼ばれていた愛称だ。その愛称を最期まで呼び続けたのが、先ほどから食器を洗っている祖母という事になる。
僕はこの世界でタケとして存在し行き詰まった自身の生活を夕暮れまで離れる事が許される。ここは僕が住む町の過去そのものだ。初めてこちらに来た際は何事かと騒いだものだが今は気楽に過ごしている。
とはいえ、何事にも限界と言うものが付き纏う。毎度夕暮れが近づくと徐々に世界の輪郭は
それが「現実逃避のタイムリミット」だ。
毎度夕日が暮れる頃にはそろそろタイムリミットだ、なんて呟きながら家を後にする。不安げに見つめてくる祖母には悪いが、現実へ戻る瞬間を覗かれるのはなんとなく嫌だ。
「タケさん、最近よく外をほっつき歩いてるけどタヌキでも出たのかい?」
「大した事じゃない。ちょっとした気分転換だよ」
「それとね。私、なんだかタケさんが若返っているんじゃないかって思うんだけど」
「うーん、そうかなぁ。気のせいだろう」
「なら良いけど……。お夕飯には帰って来て下さいな」
「あ、あぁ」
釘を刺されたが、軽く相槌を打って受け流す。本音を言ってしまえば祖母が作る夕飯を食べてみたいと言う気持ちはある。なんせ生涯一度も食べた事の無い祖母の味だ。想像するだけでも口内は唾液の量を増すが、タケの腹は一度も満たされた事が無い。
「なぁ、今日の夕飯は早くならんか」
タケの部屋で姿見を確認しながら声を張る。確かに祖母と比べれば少し若作りだ。最初ここに来た時より肌が綺麗になった気もするが、細かい事は気にしない。
近くにある新聞紙でも読もうかと手を伸ばす。
「おや?」
しかし、新聞紙を取る前に疑問が浮かぶ。祖母の声が返ってこない。不思議に思い部屋から台所へ向かうとそこには祖母の姿が無く、代わりに玄関から祖母の声が漏れて来る。
「ウチに何か用ですか」
入り口の戸が開き、外の光が差し込んだ。夕飯に関してあれこれ考えている内に客人が来ていたらしい。
「ん……?」
これは初めての事だ。今までこの世界の登場人物は自身を除くと祖母だけだ。もしや何かの僥倖だろうか。夕暮れになっても帰らなくて済むとか、夕飯にありつけるとか。想像するだけで心がときめいた。僕は年不相応の弾んだ足取りで玄関へと向かう。
だが……。
「こんにちは。『田中広』くん」
これは一体どういう事だろう。玄関で待っていたのは見慣れ切った女子制服。そして聞き覚えのある声が確かに「僕」の名を呼んだ。
「お前……尾田じゃないか!!」
*****
僕のクラスメイトであり、隣の席に座る女子生徒。入学当初から時折病気でもないのに学校を休むという事で有名だ。しかしそれ以上尾田について僕の知ることはない。僕はクラスメイトとあまり話さないし、尾田は出席日数が少ないのだから当然だ。
強いて言うなれば昔の話。彼女が小学生の頃、一度苗字が変わったという事しか知らない。
当時はその意味が分からず気にもかけなかったが尾田のサボり癖がついたのも確かその頃だった気がする。
経緯はどうあれ尾田はよく休むのだ。ここ数日、彼女が欠席した事を誰も気に留めないのはこの為である。
そんな彼女がどうして今自分の前にいるのか。いつ、どうやってここに来たのか。なぜ僕の名前を呼んだのか。日頃の悩みを一時的に放棄し、空洞化した脳内で疑問が所狭しと湧いて出る。
「声を荒げてどうしたんです、タケさん?」
「悪い。一度、こいつと外で話がしたい。しばらく外に出る」
「うわ……ちょっと放してよ!」
咄嗟に尾田の腕を引き、無理やり林道に連れ出した。
「田中って案外横暴ね。私は家の中で話したかったな」
「婆さんが混乱するだろ。いきなり名前で呼びやがって」
「あぁ何?田中も『こっち』の生活が気に入ってるのかな」
僕を見つけるなり余裕綽々な尾田。横暴なのはどちらだと問い詰めたいところだが彼女はどうやら神隠しに詳しいようだ。
「それなりに気に入っているけど」
「ははは、やっぱり。前に田中が林道に入る所見たんだ」
「まじかよ。いやそんなことはどうでもいい。聞きたい事が山程あるんだが」
「でしょうね」
尾田は口元をニヤリと曲げて見せた。どうみても「悪人面」としか言えない表情が嫌な未来を予感させる。学校では大人しい印象だったのが嘘のようだ。
「尾田はどこから来た?」
「林道を歩いてたらここに着いた。何かに招かれるような気がしてさ」
「いつからここにいるんだよ」
「今回は三日前から、ということになるかな。初めて来たのはだいぶ前」
「……おい」
三日前と言ったか。尾田はタイムリミットの無い現実逃避を享受できたという事なのだろうか。学校で聞いた情報と共通点もあるのが気になる。
「詳しくは後で教えるわよ。それより大事な情報を持ってきたのだからもうちょっと歓迎して欲しいな」
「へ?」
「田中はまだここでご飯食べてないでしょ」
「そうだけど」
「よし、なら教えてあげる。良い情報と悪い情報があるけど……どっちから聞きたい?」
会話を交わして分かった。僕はこいつが苦手である。"遠回しな表現ばかり使う奴は話していて面倒"だ。自分が一度、クラスメイトに突き付けられた言葉。
僕は今更この言葉の意味が分かった。尾田に対して同族嫌悪を起こす自分が情けない。
それはさておき。
食事ができたかどうかなど、今気にすることではない。尾田は人をからかう事が好きな部類なのだろう。
「どっちでもいい」
「いいえ、こういうのは『選べる側』が選ぶべきでしょ」
クスクスと笑う尾田だが、目付きは鋭い。目が笑っていないとは正にこの状態を指すのだろう。仕方なく前者を指す。
「じゃあ、先に良い情報から聞こうか」
「それじゃあ教えてあげましょう。まずは良い情報。田中は今夜、こちらの世界に招かれる事になっているのです」
「招かれる?いまいち、よく分からないな」
「だから、こっちの世界で丸一日暮らせるようになるってこと」
「は……?」
「これまでは数時間で元に戻っていたでしょ。その心配がなくなるの」
「おいおい、そりゃ本当か!?」
思わず両手の拳を握る。喜びの感情に突き動かされ、指先の力は徐々に強まる。もしも尾田の言う事が本当であれば僕の望んでいた夢の世界が現実のものになるという事だ。
加えて祖母のつくる夕飯にありつける。
「嘘をついてどうすんのさ。私がここに三日前からいるってのも本当」
「そいつはすげぇや」
「但し」
「但し?」
尾田は人差し指を突き立て、自身の唇に当てる。興奮する僕が静まるようジェスチャーを挟み、焦らしてから言葉を続けた。
「悪い情報を教えましょう。今夜ここに居座れば……元の世界には恐らく一生、戻れなくなる」
尾田の言葉を聞いた直後、額を撃ち抜かれるような感覚が襲い掛かる。
あぁ、そうか。そういうことか。ここはあくまで夢の世界。思い返すと僕は危険な道に片足を踏み入れていたではないか。
「もうすぐ夕方よ……さぁ早く決断することね。元に戻るか、『アレ』に遭うのか」
僕らの身近に潜む、不可思議現象。「神隠し」が手ぐすねを引いて待っている。
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