緑迷宮
しげぞう
第1話
1、
密林は無限に続くかと思われた。
しとどに濡れ、いっそ毒毒しいまでに鮮やかになった緑、緑、緑が、合わせ鏡のように前も後ろも果てしなく折り重なっている。
もうどれくらい
氾濫した河の濁流に巻き込まれ、道連れたちとはぐれてから、少なくとも三日は経っていた。雨季の真っ只中、天蓋然と頭上を覆う巨大な羊歯類の森では、昼間でも太陽を拝むことは叶わない。夜も雨は降り続き、一時も心休まる
こうして、ンチャナグァンの大密林を彷徨った挙げ句タルスは、森の中に隠れるように営まれた
*
「
瀕死のタルスを助けてくれた老婆は、当然のことと、要求を述べた。タルスにすれば恩誼に報いないわけにはいかなかった。
邑は、密林を円く切り開いて作られていた。真ん中に共同の広場があって、その周りを円を描くように、茅葺きの小屋が囲んでいた。それらはひとつを除き廃屋であり、とうに朽ちて崩れ落ちているものがほとんどだった。小屋の造りは木の骨組みに、茅で屋根と壁を葺いただけの粗末なものだが、いまタルスのいる無事な一戸は少なくとも乾いていて、囲炉裏に火が入り、土の鍋では干し魚のスープが煮えていた。湯気の立ったそれは、これまでタルスが馳走になったどんな食事よりも美味に感じられた。
鎖帷子の代わりに、老婆の亡夫の貫頭衣を纏ったタルスは先を促した。老婆は足も目も悪く、小屋の中を動くのにも難儀していたが、タルスに芋の澱粉を練って焼いた主食を供してくれた。それを頬張りながら、話の続きに耳を傾ける。
老婆が若い頃、邑には三百人程の
そんなある日の晩、邑を
邑を襲った
抵抗した邑人もいた。邑を飛び出した者も。しかし殆ど宿命のようなそれから逃れることは誰も出来なかった。邑から離れても森の中をぐるぐると歩き回る羽目に陥り、いつの間にかまた戻ってきてしまうのだ。そうして、小屋の中で、広場で、水汲み場で、木の上で、畑の傍で、皆、死んでいった。
最後に残ったのは、老婆だけだった。しかし殺戮は唐突に止み、いつまで経っても、老婆の元に
「じゃが、それも仕舞いじゃーー」
老婆は断言する。というのも、彼女の家は邑で只ひとつ
2、
夜が更けても雨は沛然と降り続き、密林を叩くのを止めなかった。老婆の小屋の屋根は、奇妙な律動を刻む鼓のような絶え間ない音を奏でていた。戸口辺りに胡座をかいて不寝番をするタルスの耳には、奥にいるはずの老婆の寝息は掻き消されていた。
暗闇の中、ただ囲炉裏の燠だけが仄かに朱く灯っていた。立ち昇る焦げた臭いが、煙出しの孔に吸い出されていくのが感じられた。タルスは燠をじっと見つめてその刻を待った……。
……。
……。
ガクンと頭が下がって、睡魔に負けていた自分に気づいた。小屋の中を見回すが、変化はない。燠は完全に消えていたが、雨音は相変わらずである。
いやーー。
うっそりとタルスは立ち上がり、目を凝らした。
老婆の姿が見えなくなっていた。
敵襲を見逃した? しかし、だとしても何処から侵入したと云うのだ?
そのとき、不意に小屋の屋根が軋んだ。雨滴などとは比べ物にならない重量がかかったのは明らかだった。タルスは天井を見上げて身構え、気息を整えた。胸板や腕が反応し、内側から膨れ上がったようになった。
それは北大陸で身につけたヴェンダーヤの苦行僧の修法で、呼吸法と組み合わせることで、肉体を強靭な凶器に変えることが出来る邪行である。
メキメキっとさらに屋根が軋み、ついに抜けて落ちてきた。どっと雨が吹き込み、みる間に小屋じゅうを水浸しにしたが、無論、落ちてきたの水だけではなかった。
咄嗟に防御の態勢を取っていたのが幸いした。闇を衝いて、大槌で殴られたような一撃がタルスを見舞った。受け止めた躰ごと、壁を破って屋外へ弾き飛ばされた。広場の泥濘に、背面から墜ちた。
まるで瀑布に放り込まれたようだった。落ちかかる水のあまりの量に、危うく溺れそうになる。しかし泥まみれになりながらもタルスは、抜け目なく横に転がった。案の定、タルスの落下地点には巨大な影が殺到したようだった。
それを見計らっていたタルスは、跳ね起きるなり、自分のいた場所めがけて、体当たりを食らわせんと突進した。
ーー!?
タルスの躰は虚空を駆け抜け、たたらを踏んだ。と同時に、意想外の角度から攻撃がもたらされた。敵は上空から降り来たって、タルスの延髄に牙を突き立てたのだ!
驚くべき跳躍によって、上方に身を
がーー。
今度は相手が驚愕する番であった。
己れの尖頭歯が噛み千切れない肉があるなどとは、俄には信じられなかったであろう。ガチガチと口を閉じても牙は、弾力と硬さを兼ね備えた肉を喰い破れないのだった。その僅かな動揺をタルスは逃さなかった。たちまち怪物の顎から頸を外すと、素早く躰を入れ換え、
ヴェンダーヤの行のひとつに、須臾の間だけ肉体の一部を、弾性を持つ樹脂の如く変ずる術があり、それによりタルスは命拾いしたのだ。
その、名高いヒルガド高原の悍馬もかくやとばかりの狂乱のさなかにあってタルスは、反撃を敢行しつつあった。躰中の力を両の
タルスの企てに気づいて怪物はよりいっそう暴れ、振り落とそうと踠いた。それはまさに二頭の獣による、生存を掛けた死闘だった。
やがて永劫まで続くかと思われた闘争にも、終りが訪れた。怪物の動きは次第に鈍り、足取りから軽やかさが消え、地を摺るようなそれに取って代わられた。そしてついに、怪物は立ち止まり、泥濘に膝を屈した。
変化はそれ以前から起きていた。
怪物の力が弱まるにつれ、タルスを圧していた体格はみるみる萎んでいったのだった。彼の者の脚が完全に止まったとき、すでにその姿は本来の
タルスはとうに
ただそれは、老婆の主張する如く
しかしそれでもなお老婆は恐ろしい疑念に憑かれていたことだろう。というより無意識では
重なった二人を、雨が執拗に打ち続ける。
タルスは恩誼に報いないわけにはいかなかった。両腕に力を籠め、ひと息に老婆を縊り、確実に骨を折ったのだった。
*
タルスは老婆の亡骸を抱き上げ、彼女の小屋へと運んでいった。
(了)
緑迷宮 しげぞう @ikue201
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