森の人と砂の人

 ずっと前に読んだ本なので詳しいことは忘れたが、人間にはどうやら二種類あるらしい。すなわち、森林型思考の人間と、砂漠型思考の人間である。地理学者の鈴木秀夫という人の書いた『森林の思考・砂漠の思考』(NHKブックス)という本なのだが、それによると、森林型の思考というのは世界を「下から」上を見る人間の姿勢であり、世界は「永遠」であると捉える。砂漠型思考は世界を「上から」下を見る鳥の視点で、世界は「有限」であると考える。いわば風土論の名著である。

 そんなふうに人間はたった二種類に分けられるのか? と思ってしまうが、そうやって大雑把に分けて考えることはやっぱり面白い。お前は砂漠型だなあ、とか、いや森林型だよ、とかいった会話はどうしてもしてしまう。血液型トークとはちょっと違うかな……。

 東洋と西洋の対比はよくいわれることだ。多神教と一神教、主観と客観、直感と論理、一人称と三人称、自然は共存するものか克服するものか……。自らの力がなくとも森林の豊富な資源があれば人は勝手に生かされるが、何もしないことがすなわち「死」を意味するのが砂漠である。簡単にいってしまえば、東洋が森林型、西洋が砂漠型ということで、その比較文化論なのだけど、さてぼくはどっちかな? と考えた。

 なぜそんなことを考えたかというと、インドで砂漠(砂丘)体験をしたからだ。そのときの「気持ち良さ」が忘れられなかったからだ。ぼくは体も心も日本人だとは思う(両親とも同じ市内の生まれ。祖父母にいたっては同じ町内)。しかし、この本を読んでの「森林型」という言葉に違和感を覚えた。森に親近感を覚えないのだ。もちろん、その思考内容と「森林」「砂漠」という言葉が全て合致しているわけではないだろうが、本を読んでみても、自分は森林型とは完全にはいえないんじゃないかと考えた。そんな中で砂丘で感じたあの気持ち良さ。自分に砂漠的なところがあってもいいのではないか?

 その「気持ち良さ」は単なる異国情緒ではない。自分の居場所を見つけたような安心感、ああ、これだよなあ、それに近いものがあった。砂漠の厳しさを知らないのだといわれればそれまでだが、あの感覚は忘れられない。

ということで、自分の「砂漠型」なところを書き出してみよう。

 ①夏よりも冬の方が好きなこと

 以上。なぜだ。むしろ、この本には「夏よりも冬が好きなこと」が砂漠型として挙げられているわけではない。自分で勝手に思っているだけだ。著者によると、日本も随分「砂漠化」されているとのことだったが、ぼくにはそれが一つしかない。じゃあなぜ砂漠が好きなのか。森よりも砂漠が好きなことは砂漠型ではないのか?

 そう考えて浮かんできた「砂漠型」がもう一つあった。

 ②雑然としたものよりも整然としたものの方が好きなこと

複雑なものよりもシンプルなものの方が好きだ。散らかった部屋よりも整理整頓された部屋の方を好む。デュオニソス的よりもアポロン的な人間だと思う。これを西洋型というのは論理的に無理があるが、でも砂漠型だと思う。西洋でないけど砂漠。もともと、本では西洋=砂漠とは完全にいいきっていないので、そういう例はあるだろう。そして、整然としたものが好きなところは、砂漠型のかなり大きな部分なように思う。

 ここで論文を書いても仕方ないので、その辺は曖昧にしておこう。

 とにかくぼくが砂漠を好きなことは事実だ。理屈じゃない気持ち良さを感じた。今度の旅行は中東にしようかとも考えたくらいだ(それを人に言うと全員から「やめなさい」と言われた)。

 でもまあ、いってしまえばこの砂漠好きは「自分だけのもの」といえるかもしれない。つまり、「砂漠型」には当てはまらないけれど、「砂漠好き型」には当てはまるかもしれない、ということだ。

 だからぼくと似たところがある人は、砂漠、気に入るかもしれませんよ。行ってみてはいかがでしょうか?

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〈旅行記〉意味がなければインドカレーはない こえ @nouvellemer

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