きっと、うまくいく? ⑦インド時間に流されて
七時半、ホテル・シアチェン。空はいつもと同じ、すかっとした乾いた空。気持ちいい温度・湿度。
本来参加するはずだったツアーのガイドが、この時間にぼくを拾ってくれることになっている。朝が弱いので、まだもやもやとした頭をもたげ、ロビーと呼ばれる空間で彼らを待っていた。
そこからすぐ近くに見える山が美しい。鼠色を基調とした色目と、透き通ったような肌合いがなんとも心地よい。この待ち時間、いつまででも見ていられる。本を読むわけでもなく、ただなんともなしに山を見ていた。すぐ隣の建設現場の人たち(わらの束を、二宮金次郎が背負っているあれで運んでいる)が何度も不思議な目でぼくを見てくる。
そんなふうにして待っていたのだけど、なかなか来ない。インド人の時間でやってくるのだろうし、ある程度は想定していたので、ぼくはそのまま、ただ、山を見ていた。
八時。待ち合わせ時間から三十分を過ぎた。ぼくの予想では、もうそろそろやってくるはずだ。なんら悪びれもせずに。きっとそうだ。
「何をしてるの?」
と、ホテルの従業員。
「山を見てるんだよ。きれいだよ」
余裕で返すぼく。従業員は、「そう」とだけ言って、スマホで自撮りを始めた。髪型を気にしたりメガネを気にしたりしている。フェイスブックにでもアップするのだろうか。
八時半。一時間が過ぎた。うん、一時間か。不安になってきたが、まだ山を見ていよう。
「遅いね」
と、ホテルのオーナー。不安そうなぼくを見て「タクシーを呼ぼうか? ここからレーまでは実はそんなに高くつかない。どうだ?」と声をかけてくれた。ぼくは、「ありがとう。九時になっても来なかったらお願いするよ」と言い、もう少し山を見ることにした。
それにしてもいい山だ。日本の庭園で借景として使われる山のような、それ自体を愛でるような類ではない、単なる山なのだが、それをここまで目の前にすると、何もいえなくなる迫力がある。何もない、ただ、山がある。
しかしぼくはいつまで山を見ていればいいのだろう? 九時になっても来なかったら、と言いながら、九時といえば約束の時間から一時間半だ。きちんとお金をもらってビジネスとしてやっているガイドが、約束の時間を一時間半も過ぎるだろうか。インドでは日本の常識が全くといっていいほど通じないのは重々承知しているつもりだが、彼はぼくにいつまで山を見させるつもりなのだ。依然として山はあり続け、黙ったままである。何も答えてはくれない。
けっきょく、彼らがやってきたのは、九時を少し過ぎたころだった。
「ヤッホー! 調子はどうだい?」
本当にこんな感じで、彼らはやってきた。なんら悪びれもせずに。呆れるを通り越して、ぼくは彼らとの久々の再会に、彼らに負けないほどの笑顔で答えていた。我ながら不思議だった。
犬には犬の時間があり、猫には猫の、人間には人間の時間がある。それは、尺度の違いのようなもので、人間にとっての一メートルと猫にとっての一メートルが違うようなイメージで、時間の尺度も違うのだろうと、猫を飼っていて思う。猫はいつまでも「待って」いるし、ただ無為の時間をいくらでも過ごせるように見える。彼ら(彼女ら)は、その時間の尺度を彼ら(彼女ら)なりの感覚で理解し、過ごしているので、人間にとっては考えられないほど長い時間も「待つ」ことができるのだろう。誰を待たせるとか、約束の時間とか、そういう社会的な意味においての時間の感覚も、人間と猫、お互い理解できないものなのかもしれない。
人種の違いでもそういうことはあるだろう。ウィトゲンシュタインもいっているように、待たせるとか、約束とか、お金とか、あらゆる意味においての社会的なコミュニケーションの感覚が、人種・文化・国によって全く違うのである。お互い理解できない、絶望的な深淵が両者の間に横たわっているのだ。インド人と日本人、時間の感覚では特にその違いを感じる。
ぼくはそんな彼らに挨拶をして、車に乗り込んだ。レーまでの帰り道、何ヶ所か観光しがてら行くらしい。まあ、それでいいではないか。
まず、ディスキット・ゴンパに着いた。ここは、巨大な弥勒菩薩像が有名で、ぼくたちの他にも多くの観光客を見かけた。その像は相当でかい。二十メートルほどだろうか。これもすごくマヌケな顔をしている。しかし人はなぜ、こんなにも大きな仏像を建てようとするのだろうか。大きければ大きいほど威厳があるという考えは浅はかだし、信心の深さを大きさで表そうという発想も貧困だ。そういいながら、ぼくはそういう価値観が好きなのだけど。単純で馬鹿っぽい、愛すべきニンゲン。そんなマヌケな顔の仏像を見ていると、少しだけ心が楽になる。本来の設立者の意図とは離れたところで、こんなふうに思ってしまった。
ゴンパなので、ここから少し上がったところにきちんとした僧院がある。急な坂を足で上って、現役の宿坊や礼拝堂を見学した。道行く僧たちに「ジュレー」と挨拶すると、合掌して笑顔で返してくれる。「ジュレー」はラダック地方での挨拶。「こんにちは」に限らず、「おはよう」も「さよなら」も何でも「ジュレー」なのだ。デリーでの「ナマステ」も同様だ。
礼拝堂に入ったところで、ちょうど勤行のようなものが始まった。厳かな音楽が鳴り響き、お経を唱え始める。ぼくたちは、専用のシートでそれを見学することになっている。しかしここは飼いならされた観光地。お経の途中でお喋りは始めるわ、こっちをちらちら見ながらなにやら目で合図するわ、厳かなのは音楽だけで、彼らから何の真剣さも伝わってこない。ぼくたちは彼らに目で合図されたように、そのお堂をひと巡りしながら展示品を見て、一礼してからそこを後にした。
すぐそばに休憩所のような部屋があったので、皆で入ることにした。ここを訪れる(本来の)修行僧たち・巡礼者たちに開いた場所で、チャイも飲むことができる。しかし、ジャンムーおじさんが係りの人から聞き出したところによると、チャイ以外に、この地方独特のバター茶なるものがあるという。名を「グルグル」というらしい。グルグル。なんともいい響きではないか。ぼくはもちろん飲んだことがないし、ジャンムーおじさんも、デリーからの親娘も未体験だ。皆で飲むことにした。
出されたものを見たところ、色の薄いチャイのようなものだ。ロイヤルミルクティーのような甘そうな見た目とは裏腹に、味は正直いってまずかった。ミルクっぽいけどしょっぱくて、それと茶の渋みとが合わさって、それをいい当てる言葉が見つからない。それというのも、栄養のとることのできる食物の少ないこの地で、彼ら(僧たち)がとれる貴重な栄養源とのことなので、味を期待したぼくたちが間違っていたのだ。ぼくの他のインド人たちも全部は飲んでいなかった。
そこを後にして、レーに戻る。その途中、小学校を併設したようなゴンパで無料の食事をしたり、休憩箇所の峠で知り合ったライダーのうしろに、親娘の娘の方が乗ったりしながら(もともと乗っていた男はぼくたちの車に乗って)、来た道を順調に戻っていった。
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