エデンの園で口付けを。

美澄 そら

エデンの園で口付けを。


 レースのカーテンが穏やかに揺れている。

 日の光がその複雑な編み目に透けて、きらきらと木漏れ日のように彼女に降り注ぐ。

 艷やかな黒髪が、清流のように枕の上を流れて、柔らかな白い頬が微かに赤く染まっている。

 暖かな小春日和。微睡みの中に居るような心地好さ。

 小鳥の囁くようなさえずりが耳をくすぐる。

 このまま、永遠に時が止まってしまえばいいのに。


なぎちゃん」


 柔らかな頬に触れると、彼女の黒目勝ちな眼がゆっくりと開いてわたしに焦点を合わせた。


美琴みこと

 

 いつも澄んでいる凛とした声は、寝起きのせいで少し掠れている。

 そうして、愛しそうに微笑むから、わたしは吸い寄せられるように彼女に口付けた。




 凪ちゃんが薬を辞めてしまう半年前。

 わたし達はまだ中学生だった。


 夏休みが明けて、学園祭の準備に追われていた秋の始まり。

 二人だけしかいない夕焼けに染まる教室。

 大きな画用紙が机いっぱいに広げられていて、二人で油性ペンを使って、クラスの展示物を紹介するポスターを書いている。

 ざわめきが遠くて、まるで水の中にでもいるかのようにわたし達の周りだけ静かだった。

 そんな中、


「高校、行くの辞めようと思う」


 凪ちゃんが、ぽつりとそう告げた。

 いつもの他愛のない会話の一部みたいに、小さな小さな一言だったけれど、その一言はわたしの心に大きな波紋をもたらした。

 

「なんで」


 凪ちゃんは黒目勝ちな目を伏せた。

 長い睫毛が影になって、白く柔らかな頬にかかる。

 今でこそベリーショートだけど、長かった頃の癖で、凪ちゃんは髪を耳に掛ける仕草をした。


「ごめん」

「一緒に松原女子受けようって言ったよね」


 制服が一新されて、モスグリーンを基調にしたセーラー服が可愛いと二人で選んだ高校だった。

 凪ちゃんとは、小学三年生で同じクラスになってから、ずっとかけがえのない親友だ。

 高校も、その先もずっと一緒に居られると思っていた。


「……ごめん」


 いつも活発で強気な凪ちゃんが、一つ覚えみたいに『ごめん』と繰り返す。

 

「謝らないでいいから、理由を教えてほしい」


 涙が流れそうになって鼻を啜ると、さっきまで使っていた油性ペンのツンとした香りが鼻の奥に広がった。

 凪ちゃんが小柄な体を乗り出して、小さな手でわたしの頭を撫でた。


「病気なんだ。原罪病って言われる病気」

「原罪病?」

「そー」

「治るんだよね」


 凪ちゃんはイエスともノーとも言わず、困ったように笑った。




 原罪病。スマホで検索をすると、四十年前に発見された珍しい病気として紹介されていた。

 原罪病とは、アダムとイヴの犯した最初の罪から取って名付けられたという。当初発見者は女性の罹患率から『イヴの罪病』と付けたものの、女性差別だと批難の声が上がり改名されたようだ。

 なんとも酔狂な……と思いつつ、病気に関して書かれているウェブページをスクロールする。

 およそ二百万人に一人の割合で発症。生まれつき持った病で、遺伝では無く突然変異で現れること。

 幼少期は成長の遅れが見られ、第二次性徴辺りから全身に激痛を伴うようになる。脳下垂体が何らかの異常を起こして、成長ホルモンが極端に多く分泌されるのも原因ではないかと書かれていた。

 そして、効果的な治療薬が無く、現在の致死率が百パーセントに近いこと。

 思わずスマホを落としてしまって、慌てて拾い上げた。


 放課後、話していたときの凪ちゃんの顔が、浮かぶ。


 ――高校、行くの辞めようと思う。


 凪ちゃんは、どんな思いで決断したんだろうか。

 落とした際に指が触れてスクロールしていたのだろう。

 原罪病は、成長を遅らせることでしか進行を止めることが出来ず、第二次性徴を迎えると数年しか生きられないと記述されていた。

 中学生になって、みんな少しずつ背が伸びて、女性らしく丸みを帯びていく中で、凪ちゃんが小学生の頃から変わらない体型をしていることを思い出す。

 凪ちゃんは発育が遅いんじゃなくて、死なないために発育を止めていたんだと今更知った。



「お前さー、ホントは男なんじゃねーの?」


 廊下まで聞こえてきた下卑た声に、背筋が粟立つ。

 慌てて教室に駆け込むと、よく先生に目を付けられている男子三人が、凪ちゃんに向かって薄ら笑いを浮かべながら話しかける。


「そうかもしれないね。僕、胸ないし」


 凪ちゃんは悪意に怯むでもなく、毅然と答える。

 けれど、男子にはその態度が気に入らないのか顔をしかめた。

 その様子を見ていたクラスメイトは、ざわめいているだけで止める様子もない。


「僕だって、いっそのこと男だったらよかったのになって思う」

「凪ちゃん、何言ってるの」

「……美琴」

「行こ」


 凪ちゃんの細い腕を引く。

 凪ちゃんは最初戸惑っていたけれど、手を繋ぐと素直に付いてきてくれた。


「授業、始まっちゃったよ?」


 行く宛も無く二人で歩き回っているうちにチャイムが鳴ってしまった。

 先生に見つからないようにと、たまたま鍵の掛かっていなかった視聴覚室に潜り込む。


「初めてサボっちゃった」

「僕も」


 机も椅子もない視聴覚室。厚みのある黒いカーテンは開かれているけれど、教室より明るくは感じない。

 二人で壁を背に座り込むと、何から話せばいいのかわからなくて黙り込んだ。


「ねぇ、美琴は原罪ってなんだかわかる?」

「アダムとイヴが蛇に唆されて食べちゃいけない実を食べたこと」

「うん。その食べちゃいけない実というのが、善悪の判断が出来るようになる実だったらしいんだ。

 神はアダムとイヴが善悪の判断出来るようになることを良しとしなかった。そして、二人は楽園を追放された」


 凪ちゃんは、わたしの手を取ると、指を絡ませて繋いだ。


「美琴、なんでこの病気を見付けた人が『イヴの罪病』って名前を付けたと思う?」


 わたしは素直に首を振ると、凪ちゃんはくすっと笑った。


「答えがわかったら聞かせてよ」




 学園祭が終わってから間もなく、凪ちゃんは体調不良を理由に学校へ来なくなった。


 高校受かるまで面会謝絶だからねと、凪ちゃんからの手紙が来て、そこからは手紙でのやりとりが続いた。

 SNSもメッセージアプリもあって、すぐに発信できる現代に在りながら、わたしと凪ちゃんはあえて時間を掛けて手紙で言葉を重ねていった。

 今日はこんな授業をしたとか、誰誰とこんな話をした……とか。

 内容は日記と大差ないような他愛のないものだ。

 時折、凪ちゃんからの返事が空くと動揺して、手紙に綴られた凪ちゃんの丸みのある文字を見つめては、凪ちゃんを思って泣いた。



 未だに、凪ちゃんに与えられた問題は解けずにいる。



 長い長い冬を乗り越えて、迎えた春。

 中学を卒業し、無事に高校に合格して、わたしは二人で憧れていたモスグリーンのセーラー服に腕を通しから凪ちゃんの家に向かった。

 

「あ、あの……わたし、凪ちゃんの友達の」


 インターホンに向かって、言葉を選びながら丁寧に語り掛けていると、いきなりドアが開いた。

 出てきた人物に、わたしが驚いて言葉を失っていると、彼女はくすっと笑った。


「なんだよ、幽霊でも見たような顔して」


 背丈がわたしと同じくらいまで伸びていて、衣服の上からでもわかるくらいに胸の膨らみもある。レースのワンピースから伸びたほっそりとした手足。

 小学生以来ベリーショートにしていた艷やかな黒髪が、胸元まで流れ落ちている。


「凪ちゃん……?」


 蛹になるのをすっ飛ばして、蝶になってしまったかのような急変化に、姉や妹だって言われたら信じてしまいそうだった。


「久しぶり、美琴。合格おめでとう」


 凪ちゃんのお部屋には何度もお邪魔させて貰ったことがあるけど、今日はなんだか落ち着かない。

 何度も凪ちゃんを盗み見て、記憶にある凪ちゃんと照らし合わせる。

 胸の奥がきゅっと締め付けられたかと思うと、今度はドキドキと音を立てる。わたしの心臓は忙しい。

 ベッドに腰掛けた凪ちゃんは、ゆったり泳いでるかのように足をゆらゆらと動かして、その度にレースのスカートがひらりと揺れた。


「美琴、制服似合ってるね」

「そう、かな」

「あーあ、わたしも病気じゃなかったらなー……。

 原罪病ってね、治療法が無いから薬で成長を遅らせることしか出来ないんだ。

 でもね、薬を飲み続けたとしても、成人を迎えられるとも限らないんだって。成長はいずれ追いついてしまうみたい。

 だから、わたし、薬を飲むのを辞めたの」

「え?」


 薬を飲むのを辞めた……?

 動揺して、声が出ない。

 原罪病には、特効薬にはない。

 成長を遅らせるために飲む薬を辞めたということは、死期を早めることになる。


「ねえ、美琴。答えはわかった?」


 なんのことかは聞き返さずともわかった。

 原罪病の名前の由来だ。

 わたしは首を振った。


「……わからなくて調べてみたりしたけど、答えは載ってなかったよ」

「そう。きっと答えは博士の頭の中にしかないと思う。

 美琴はどんな推測するかなーって思って。

 ここからはわたしの推測なんだけど……博士がね、一番最初に診た患者さんは十七歳で亡くなっているんだ。

 その子は博士に恋をして、薬を飲むことを辞めてしまったの」


 凪ちゃんは座っていたベッドから立ち上がると、椅子に腰掛けたわたしの膝に擦り寄るようにして床に座った。

 凪ちゃんの黒髪がさらさらと流れて、くすぐったい。


「きっとね、恋をして、美しくなりたいって思ってしまったからなんだ。純真無垢な子供のままでいたくなかったから」


 顔を上げた凪ちゃんの目尻から、大粒の涙が滑り落ちる。


「博士はきっと、彼女とイヴを重ねて見ていたんだと思う。

 イヴが知恵の実を食べなければ楽園に居られたように、その女の子だって、恋なんてしなければ、痛みからは逃れられたかもしれないのにって。

 でも、わたしには彼女の気持ちがわかる」

「凪ちゃん」

「ずっと、美琴のことが好きだった」


 わたしを見上げている凪ちゃんの瞳が、光を浴びて煌いた。

 その瞳に突き動かされているかのように、心臓が大きな音を立てる。


「本当はずっと、美琴になりたいって思ってたんだ。柔らかな女の子らしい身体、さらさらの髪、わたしには無いものだったから」


 髪を伸ばしたのも、『僕』って言うのを辞めたのも、わたしになりたかったから?


「ひょっとして、薬を飲むのを辞めたのも……?」

「うん」

「凪ちゃんのばか! 死んじゃうんだよ!? 今だって痛みがあるんでしょ!」

「……それでもいいよ。一年先だったものが一秒先になったようなものでしょ。

 わたしの欲しいのは時間の長さじゃないの」


 凪ちゃんが背を伸ばして、わたしにキスをした。

 柔らかな唇が一瞬だけ触れる。


「お願い、美琴。美琴の時間を少しだけちょうだい」


 わたしは強く頷いた。


「凪ちゃん、大好き」



 凪ちゃんと過ごせる時間は本当に少ない。

 わたしは学校に通っているし、なによりも、鎮痛剤を打たねばならないほどの激痛で、彼女は一日の半分以上を眠って過ごすことになってしまったから。

 わたしは毎日訪れては、部屋の主が起きるまで待っていた。

 その間は、勉強をしていることもあれば、原罪病の状況やアダムとイヴの罪についても調べたりしていた。

 イヴを唆した蛇はサタンという悪魔だったとされていること。

 それから、元々は神だけが善悪を知る者で、アダムもイヴも、善悪という知恵を得ることを選んだのは、神になりたかったからだという一文を見て、凪ちゃんの言葉を思い出した。

 わたしになりたいと思っていた凪ちゃん。

 薬を辞めた決断は、彼女にとって幸せなんだろうか。


 風で、凪ちゃんの部屋の窓につけられたカーテンが揺れる。

 凪ちゃんは、日を追う毎に綺麗になっていって、本当に病気なのかと疑ってしまうくらいだ。



 本当はずっと一緒に居てほしい。

 ずっと、ずっと。

 もしもここから居なくなってしまうのなら、一緒に連れて行ってほしい。

 凪ちゃんが居る場所が、わたしにとっての楽園だ。



 まだ眠っている彼女の手に、わたしの手をそっと重ねた。


 

 貴女の病が、わたしにも感染うつればいいのに。

 重ねた掌が、僅かに疼いた。




 終

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