四月某日、東京に雪
尾八原ジュージ
四月某日、東京に雪
四月某日早朝、東京に想定外の雪が降った。
俺は天を呪った。
何しろ気象庁含め、誰も予想していなかった降雪である……と言ってもニュースによれば6センチ、俺の実家のある辺りでは降雪とも言えないようなカワイイものだ。
が、東京に来ると途端にそいつは悪魔と化す。しかもよりによって通勤時間帯。よりによって平日。よりによって四月。
もしも空の上に、雪を降らす係の妖精かなにかがいるのだとしたら、そいつは今日反省文を書かねばならないだろう。
などと益体もないことまで考えるのは、俺が今、暇で暇で仕方ないからだ。電車に乗るための長蛇の列に飲み込まれ、することもないままただ立っていることしかできない。
季節外れの雪は、朝の東京の鉄道網を大混乱に導いた。ダイヤは乱れに乱れ、電車に乗れなかった人々はホームに満ち、「すみません遅れます」という電話と遅延証明が飛び交う。たった6センチ、されど6センチである。長野の田舎に降る6センチと、通勤ラッシュ時の東京に降るそれとはまったく違う。
朝、いつもの時間に起床してカーテンを開けた俺は、外の光景を見て飛び上がり、大急ぎで支度してひさしぶりにコートを身につけ、普段より20分早く家を出た。
その20分は、ないよりはマシ程度のアドバンテージであった。そしてそのアドバンテージは、改札をくぐり、ホームに続く階段にたどり着いたところで、すでに使い切ってしまっている。電車に乗るどころか、まだホームにも到着していないのだ。
革靴の底を何度か滑らせながら、やっとのことで最寄り駅まで着いた俺の前には、改札を通るための行列が立ちふさがっていた。えらい人数である。この駅を通勤通学に利用している人がこの辺りにこんなに住んでいたんだなぁアハハ、などと乾いた笑いが出そうな有り様だ。
スマートフォンはさっきから頻繁にブルブルと震えている。ニュースアプリが鉄道の遅延状況や振替輸送の情報を教えてくれるからだ。とはいえ、今こうして最寄り駅の長い行列に巻き込まれている俺にとっては、振替輸送のことなどもはや他人事である。まずここから出るのがしんどい。振替輸送の電車やバスも混んでいるだろうし、何にせよ並ぶことには変わりない。この流れに乗り、やってくる電車を待つのがもっとも疲れず、何だかんだでもっとも早い方法だろうと俺は判断した。
しかし、さすがに時間がまずい。普段ならとっくに電車に揺られている頃だ。すでに出勤が始業時間以降になることは確定しているのだから、せめて一言断っておいた方がいい。
俺は職場に電話をかけた。予想していた通り、俺の直属の上司である課長が出た。彼は一人だけ雪を予見して早朝に出社していた……というわけではなく、単に自宅が会社に近いのだ。
『どう? 電車』
課長の声はなんだか楽しそうだった。思いのほか、誰もいない時間帯を気楽に過ごしているのかもしれない。
「まだまだ乗れそうにないですね。すみませんが……」
『ああ、遅れるのはしょうがないよね。いいよいいよ』と、課長はおおらかである。こんな状況での定刻出社など、はなから諦めているのだろう。
『大野くん、有休余ってるよね? いっそ使っちゃう?』
嬉しそうに聞いてくる。有給休暇が消化できていない部下がいた場合、総務部に叱られるのは課長だからだ。しかし、俺は断った。
「いや、午後に外出の予定がありますから。それに今日は、ミヤタ電機からくるデータを確認して、加賀美さんとこに渡さないと間に合わないので」
『そうかぁ。うーん、仕方ないね』
「すみません。まだ到着時間は読めませんが、とにかく出社しますので」
電話を切って、俺は一息ついた。仕事の進捗を心配しながら過ごす有給休暇なんて、休んでいないのと同義だ。課長には悪いが、今日は何としても出社する。こんなことで有休を消費してたまるか。
俺の近くで、まだスーツが板についていない若い男が、同じように電話をかけている。厳しい職場なのかどうか知らないが、やけにペコペコしている。きっと入社して間もない新入社員だろう。若者よ、開き直れ。今朝は予想外の雪なのだから堂々と遅刻しろ。俺はもう開き直れるようになったぞ。
そう、今朝の駅がこんなに混んでいるのは、雪のせいばかりではない。この四月から会社員になったり進学したりしたピカピカの新人たちがたくさんいるのだ。彼らはまだ朝のラッシュに慣れておらず、うまく人波に乗ったり、スムーズに乗降車したりすることができない。結果、電車が普段よりも混むのだ。大体五月の半ばにもなれば、四月のちょっとした混沌は解消され、いつもの通勤ラッシュが戻ってくるのだが。
隣の茶色いコートの女性が、バッグから文庫本を取り出して読み始めた。長丁場になると見込んだのだろう。俺も本でも持ってくりゃよかった。一応、いつ会社からの連絡があるかわからない状況下にいるのだから、スマホのバッテリーが減る暇潰しは避けたいものだ。ただでさえ最近消費が早いというのに……。
俺は近くの広告を眺めながら、ボケッと過ごすことにした。
列はじわじわと進み、俺はようやく階段を上りきってホームに立った。まだ出社すらしていないのに、早くもヘトヘトになりかけている。そのとき、斜め後ろからトントンと肩を叩かれた。
「大野さん! おはようございます」
若々しい声は、今月頭に入社し、俺と同じ課に配属されたばかりの西くんである。そういえば、自宅の最寄り駅が俺と同じだと聞いたことがある。
つい最近まで大学生だった彼は、他のニューカマーがそうであるように大変初々しく、その愛嬌のある性格も相まって、古参社員たちから「息子のようだ」と言われてチヤホヤされている。おそらく別の階段の列から流れてきて、たまたま俺のところに合流したのだろう。
「西くん、おはよう」
「すごいですね。トンでもないですね」
「ほんとだよ。西くん、会社には連絡した?」
「はい。しょうがないねって言われちゃいました」
西くんは微笑みながら唇をちょっぴり噛んだ。これは彼の癖らしく、主に困ったときに出てしまうようだ。
ともかく、西くんという話し相手を得たことは、俺にとっては僥倖だった。
「それにしても、人がいっぱいですね……東京ってすごいなぁ」
「西くん、東京出身じゃないの?」
「俺、生まれも育ちも香川県なんです。大学からは東京ですけど、自転車で通学してたし……だからラッシュは社会人になってから初めて体験したんです。もう会社に行くだけで疲れちゃいますよね……」
そう言っておいて、一瞬「しまった」という顔をする。会社の先輩の前で不真面目な発言をしてしまった、と思ったのだろう。最近の若い子は、俺の同世代よりも真面目な子が多いような気がする。
俺は西くんを安心させるために、ニッと笑ってみせた。
「わかるわかる。そのうち慣れるから大丈夫だよ」
「そうですか? ……ありがとうございます!」
他愛もない話をしていると、時間が経つのは早くなる。俺たちはようやく、「おそらく次の電車には乗れるだろう」というところまで来た。次に来るのは急行。こいつに終点まで乗っていればいいのだ。
線路の向こうから、いつもよりゆっくりと電車が近づいてくるのが見える。
「じゃあ西くん、また会社で」
俺がコートを脱ぎながら言うと、彼はちょっと驚いた顔をした。
「大野さん、一緒に乗らないんですか?」
「乗るけど、たぶん離れ離れになっちゃうから」
話しているうちに電車が到着した。西くんが小さな声で「げっ」と言った。
すでに電車は人間で満杯である。ドアの窓にべったり貼り付くようにして立っている人もいる。だが、俺の数年間のサラリーマン生活で培われた勘が告げている。
乗れる、と。
「これ大丈夫ですか? もう満員じゃないですか?」
西くんが俺の顔を見る。俺は彼にサムズアップして見せた。
「大丈夫だ。じゃあ」
ドアが開く。降りる人はほとんどいない。駅員がドアの両側に立って、人間の缶詰のようになった車両に、さらに新たな人間を押し込む。
俺はその波に身を任せた。人の群れに流されて、いつの間にか西くんの姿は見えなくなっていた。
車内になだれ込み、運よく吊革を掴むと、俺は心を「無」にした。右頬スレスレに近づけられた見知らぬオヤジの整髪料の匂いも、背中に誰かの鞄が当たって居心地が悪いのも、もう気にならなくなった。
窓の外を見ると、いつの間にか雪は止んでいた。帰宅ラッシュまでにはこの混乱も解消するだろう。
あとで西くんにコーヒーでもおごってやろうか……などと考えながら、俺は立ったまま目を閉じた。
四月某日、東京に雪 尾八原ジュージ @zi-yon
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます