選ばれし者

 12月20日(木)

「 田崎さん、血圧測りますね。熱は何度でしたか?お昼ご飯はちゃんと食べられましたか? 」

 裕子は回診のため、入院患者の病室を回っていた。

「 やっぱり喉につまるような感じがするよ、うまく食べられない 」

「 食道を切る手術をしたばかりですからね、誤嚥すると大変ですのでよく噛んでゆっくり食べてくださいね 」

 患者の血圧を測りながら、裕子は笑顔で答える。この男性は食道癌で1週間前に手術を受け、外科から移ってきた患者だった。

「 裕子ちゃんは今日は夕方までなのかい?」

「 そうですよ、あと1時間くらいで帰ります。明日は深夜勤務でまた来ますね 」

 測った血圧の数値と体温を患者のカルテが入ったパソコンに打ち込み、病室を出た。廊下では点滴台を片手に、入院患者とその家族が立ち話をしていた。裕子は軽く会釈をし、回診車を押しながら、ナースステーションへと戻った。

 児嶋裕子は大学病院の消化器内科に勤める29歳の看護師だった。この病院は転院してまだ2年目だった。看護科の入った高校を卒業し、そのまま2年制の専科へと進み、21歳で看護師になった。

 ナースステーションへ戻ると、2人の看護師がコソコソと内緒話をしている。

「 あっ、児嶋さん、ちょうどいいところに来たわ 」

 戻った裕子を見つけた1人が、生き生きとした表情で話しかけてきた。

「 さっきさ、患者さんから聞いたんだけど、児嶋さんも知ってるかなぁと思って 」

「 何をですか?」

 噂話が大好きな1つ年上のその先輩は、新しい情報が入るたびに周りの同僚を巻き込み、ナースステーションは時折、井戸端会議を開く主婦の集まりのような光景になっていた。

「 行くと必ず幸せになれる店がこの街のどこかにあるんですって。でも、誰でも行けるってわけじゃなくて、選ばれた人だけが行く権利を得られるらしいの。なんだか面白そうな話よね 」

 彼女の目は宝箱を見つけた少女のように輝き、興奮気味に話していた。裕子は少し呆れた様子で聞き返す。

「 そんなこと、誰が話してたんですか?」

「 632号室の後藤さんよ」

「 あぁ… 」

 後藤というのは、胃癌のため2週間前に入院してきた50代のふくよかな女性のことだった。彼女もまた、お喋り好きな女性だった。

「 先輩、そんな話、信じるんですか?」

 裕子は疑うような目で彼女を見る。

「 信じるっていうか、本当にそんな店があったら面白そうじゃない。選ばれし者って感じで自分は特別な人間なんだって思っちゃうわよね、きっと 」

「 でも、選ばれたってどうやって分かるんですか?」

「 名刺が届くんですって。それがその店へと繋がるらしいの 」

 彼女は少し得意気な顔をして、裕子の質問に答えた。

「 なら、後藤さんのお知り合いで、行ったことがある方がいらっしゃるんですね 」

「 そこまでは…言ってなかったけど… 」

 裕子は、してやったりとばかりに皮肉を込めて話し続けた。

「 噂話なんて、尾ひれがついて独り歩きしてるのがオチですよ、先輩。そんな事より、申し送りが始まっちゃいますよ 」

 ナースステーションには主任や準夜勤の看護師たちが集まり始めている。先程までの生き生きとした彼女はすっかり消え、しゅんとして肩を落としていた。

 話を終わらせた裕子は、ナースステーションの中央にあるデスクの椅子へと座った。彼女を言い負かしたこととは別の優越感を感じ、笑みを浮かべていた。

 実を言うと、裕子は後藤という女性から5日ほど前にその噂話を既に聞かされていた。始めは信じていなかったが、3日前に裕子の自宅のポストに例の名刺が届いたのだ。

 好奇心旺盛な裕子はすぐに名刺に書かれた番号に電話をして予約を入れた。夜の9時、今日がその日だった。

 選ばれし者-自分がその対象だということに裕子は気分を良くしていた。

 時刻は午後4時になろうとしている。先輩の話によって今夜がますます楽しみとなり、裕子は時計ばかり気になっていた。

 *

裕子は夜の9時ちょうどにアイエツへ着いていた。今日は久しぶりに履くスカートに合わせ、コーディネートしていた。仕事中はいつも結っている長い髪を、アイロンで丁寧に巻き、化粧にも時間をかけた。

 浮き立つ気持ちを抑え、電話で聞いた8桁の暗証番号を入力し、中へと入る。

 入ってすぐに、カウンター奥に男が立っていることに気付いた裕子は、軽く挨拶をした。

「 こんばんわ。今日予約してた者です。ここ、座ってもいい?」

 裕子はカウンターの椅子を指しながら近づく。その男の姿に一瞬驚きはしたが、特殊な雰囲気の店に好奇心は更に膨らみ、気持ちが高揚していた。

 男は笑みを浮かべ、頷いた。

「 お待ちしておりました。さっそくですが、何か召し上がりますか?」

 裕子は椅子に座り、少し考えてから答えた。

「 じゃあ、貴方のおすすめで。お酒は強い方だから何でも飲めるし 」

「 かしこまりました 」

 裕子は、飲むことが大好きだった。夜勤以外の日は家で晩酌をし、仕事が翌日休みの日の夜は、1人でバーに行くこともあった。

 今日を楽しみにしていたのは、新しい店で好きなお酒が飲めることも理由の1つだった。

「 来たばかりだし、名前は聞かないからマスターって呼んでもいい? 」

 お酒を作っている男に裕子は聞いた。

「 構いませんよ。お待たせいたしました、ジン・トニックでございます 」

 マスターは微笑み、コースターを敷いて1杯目のカクテルを差し出した。

「 定番ね。いただきます 」

 バーで飲みなれている裕子は、ジン・トニックが出てくることを分かっていた。バーのカクテルの味の基準となるジン・トニックは、バーテンダーの力量が試される1杯とも言われている。

 マスターが自分の好みに合う味を作り出せるか期待を含み、裕子は一口飲んだ。スッキリとした口当たりでライムの香りがふわりと広がり、ちょうどいい甘さだった。

「 美味しい… 」

 それはお世辞ではなく、本音だった。その味は裕子の好みにぴったりだった。

「 ありがとうございます 」

 マスターは軽く会釈をして、微笑んだ。

「 この店ってかなり変わってるよね。1日1人限定とか、暗証番号とか…マスターのその見た目もだけど。どうやって相手を選んで名刺を配ってるの?」

 裕子は二口目を飲み、1番気になっていたことを早速質問した。

「 それに関してはお答えできません。ですが、1つ言えることは、選ばれたお客様は特別だということです。特別なお客様だけとこうして出会い、お話をさせて頂いているわたしは、お客様から得られたものが今後、自身の糧となり、成長に繋がるものだと思っております 」

 上手くはぐらかされた気がしたが、特別という言葉に気分は悪くなかった。

「 じゃあ、今日はあたしから何かを得られるってことね?」

「 はい、もちろんです 」

 マスターはにっこりと笑った。裕子はカクテルを飲み干し、グラスを置いた。その時、携帯電話が鳴った。着信元を確認した裕子は携帯電話の画面を伏せ、テーブルに置いた。

「 出なくてよろしいんですか? 」

「 いいの。次はエル・ディアブロくれる? 」

「 かしこまりました 」

 エル・ディアブロとは、とことん飲みたい時の裕子にとってお決まりのオーダーだった。度数が低く、さっぱりとしているため何杯も飲めるカクテルだった。

 しばらく鳴っていた着信音が止むと、裕子は口を開いた。

「 母からの電話だったんだけど、どうせまたお金の催促だと思うから 」

「 お金、ですか 」

「 そう。自分は働かないで、ろくでもない男とばかり付き合ってるの。母は男を見る目がないから。生活保護を受けてるみたいなんだけど、あたしにも貸してくれってしょっちゅう連絡がくるのよ 」

 裕子は母子家庭で育ち、3つ上の姉が1人いる。母親は昔から男癖が悪く、仕事もなかなか続かなかった。

 男が変わるたび家に連れ込んでは、酒と煙草に塗れていた。中には裕子たちに暴力を振るう男もいた。

 そんな母親に代わり、姉は高校に通いながらバイトをこなし、裕子の世話をしてくれていた。

 料理上手で妹思いの姉は高校卒業後、仕事に就き、裕子を高校へと通わせてくれた。そして、姉の結婚と裕子の就職を機に、2人は母親を置いて家を出た。

「 母のせいでせっかくの美味しいお酒が台無し。マスター、強めのカクテルくれる? 」

 長い髪をかきあげ、深い溜息をついた。苛つく気持ちを抑えられない裕子は、2杯目のカクテルを一気に飲み干し、3杯目を頼んだ。

「 では、マティーニとマンハッタンでしたら、どちらがよろしいですか? 」

「 マンハッタンでお願い 」

 マンハッタンはカクテルの女王と呼ばれていることを裕子は知っていた。

「 かしこまりました。お客様は本当にカクテルにお詳しいのですね、腕がなります 」

 マスターは沈みかけた裕子の気持ちを気遣ってくれているようだった。それでも、母親に対する怒りが収まらなかった。

「 あたしもお酒は大好きだけど、母みたいにはならない。あたし、意中の人がいるんだけど、あと一息なの。その人と絶対幸せになるんだから 」

 むしゃくしゃしている気持ちの表れからか、新しいカクテルを飲みながら、裕子は饒舌になっていた。

 いつもはゆっくり時間をかけて楽しむお酒も、今日は確実にペースが早かった。

「 お客様、大丈夫ですか? 」

 そんな裕子に対して、心配そうにマスターが声を掛けた。

「 大丈夫よ。明日は仕事も夜からだし、酔いたい気分なの 」

 そう言って、裕子は3杯目のカクテルも飲み干してしまった。

 4杯目にはサイドカーを頼んだ。それはブランデーのコクを感じられる、裕子も大好きなカクテルだった。

 マスターが作るカクテルは、どれも裕子好みで美味しかった。それが余計にペースを早めていた。

 しかし、強いお酒を立て続けに飲んだため、さすがの裕子も少しずつ酔いが回り始め、目が虚ろになっていた。

「 次はまた、マスターのおすすめがいいな 」

「 本当に大丈夫ですか? 」

「 大丈夫だってば。ね?お願いよ 」

 裕子は言葉とは逆に、明らかに酔っていた。マスターは躊躇い顔だった。

「 かしこまりました 」

 言われた通り、マスターは次の1杯を作り始めた。その手さばきは見事なもので、待つ間、マスターの手先に裕子は見とれていた。

「 お待たせしました、エックス・ワイ・ジィでございます 」

 そのカクテルを出されたことで裕子の動きが一瞬止まり、表情はむくれていた。それは今夜はこれで終わりとの意味を持つカクテルだった。

「 嫌な感じ 」

 カクテルは美味しかったが、マスターの計らいが今の裕子には不愉快だった。

 それを一気に飲み干した裕子は、完全に酔いが回り、カウンターにうつ伏せて、そのまま眠ってしまった。

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Hayez tony.k @tony-K

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