暗黒少女の通学路

湖城マコト

暗黒少女の通学路

「……今日もいる」


 自宅マンションから徒歩で高校へと向かう途中、背後から気配を感じた風祭かざまつり奈々ななは、大きな川にかかる橋の上で振り返った。


 通勤通学の時間帯。同じ高校の制服を着た生徒やスーツ姿のサラリーマンらの往来に交じり、一際目を引く異様な存在が奈々を見つめている。


 その姿を一言で形容するならば実体を得た人影。人の形をした真っ黒な存在だ。ポニーテールの髪形や体の線の細さ、腰から膝までのスカートらしき膨らみからそのシルエットは若い女性のように見える。


 何かしらの名前は必要だと考えて、奈々はこの存在を心の中で暗黒あんこく少女しょうじょと呼んでいる。


 暗黒少女は奈々にしか見えていないようで、異様な存在がいるにも関わらず、誰もその存在に反応を示さず平然と真横を通り抜けていく。突然振り返った奈々につられて同じ方向を見た者もいたが、不思議そうに小首を傾げるばかりで暗黒少女を目撃した様子はない。


 最初に異変が起こったのは一昨日の朝。父親の転勤でこの町へと引っ越して来た奈々が、初めて徒歩で通学した時のことだ。


 自宅マンションを出てほどなく、不意に誰かの視線を感じ奈々が振り返ると、車道を挟んだ数メートル後方から暗黒少女こちらをジッと見つめていた。

 車道を大型車が横切るとその姿は跡形もなく消えていたので、誰かの影が塀に映って立体っぽく見えていただけだろうとその時点では納得した。


 昨日の朝。通学途中の奈々の後方に再び暗黒少女が出現した。出現場所は開けた道のど真ん中で、影が映りそうな塀や壁は存在しない。

 前日のあれは見間違えなどではなく、実体を持った存在が本当にいたのだと奈々は悟った。怖くなってその後は一度も振り返らずに急いで学校へと向かった。


 転校したばかりで気持ちが落ち着かない時期。ストレスで幻覚を見ている可能性も疑ったが、こうして三度も目撃すると暗黒少女はやはり本当にそこに存在しているようにしか見えない。


「……よ」

「えっ?」


 暗黒少女の口元が動き、微かに言葉を発したような気がした。


「……ろうよ」


 もっと近づけば何と言っているのかはっきりと聞き取れるかもしれない。だけど、得体の知れない存在に自ら近づく勇気は持てない。

 雑音を入れないよう耳にイヤホンをしてお気に入りの曲を再生すると、奈々は往来に溶け込むようにして足早に学校へ向かった。


 ※※※


「風祭さん、大丈夫?」


 ホームルーム前の空き時間。心ここにあらずといった様子で窓の外を見つめていた奈々に、隣の席の会田あいだ彩里さいりが声をかけた。彩里は転校してきたばかりの奈々のことを何かと気にかけてくれている。


「ごめんなさい、考え事してて……」


 奈々は素っ気ない態度で返しただけで会話は長く続かない。転校してきたばかりであることに加えて奈々には元々人見知りの傾向がある。周りに心を開くにはもうしばらく時間がかかりそうだ。


「まだ新しい環境に慣れないだろうし、色々と大変だよね。困ったことがあったらいつでも言ってね。私、力になるから」


 素っ気ない態度を取られても嫌な顔一つせずに彩里は爽やかに笑った。

 席が隣だからという義務感ではなく、彼女が根から優しい性格だということは奈々だって感じ取っている。だからといって、出会って三日の同級生に通学路での奇妙な体験を相談する気にはなれなかった。


 両親もまた新しい環境に馴染むために気を張っている時期。余計な心配をかけたくないという気持ちが勝り、今の時点では相談する気にはなれない。


 何が起きているのかまるで見当がつかないが、今の奈々は暗黒少女の存在を一人で抱え込む他なかった。


 ※※※


「……朝だけじゃないの?」


 夕刻。一人で下校していた奈々は背後からの視線を感じた。振り返ってみるとそこには、不本意ながら見慣れつつある暗黒少女の姿があった。


 相変わらずその存在は奈々にしか認識出来ないようで、道行く人々は何食わぬ顔で暗黒少女の側を行き交っていく。唯一、犬の散歩中だった主婦が暗黒少女の目の前で足を止めた。普段は大人しい愛犬が突然興奮し始めたからだ。人には認識出来なくとも、あるいは動物には見えているのかもしれない。


「……になろうよ」


 主婦が犬を抱えてその場から立ち去ると、暗黒少女の口元が動き声を発した。朝よりも距離が近いためだろう。少しだけ聞き取ることが出来た。


「あんた、いったい何なの?」


 恐る恐る投げかけた問いに答えは返ってこない。


「お姉ちゃん、どうかしたの?」


 横を歩いていたらたまたま呟きを拾ったのだろう。ランドルセルを背負った少女が不思議そうに奈々を見上げている。


「……びっくりさせちゃってごめん。何でもないの」


 ぎこちない笑顔を少女へ向け、直ぐに視線を暗黒少女へと戻したが、その姿は忽然と消えてしまった。


 ※※※


「あら、風祭さんのお嬢さん。」

「こ、こんばんは」


 マンション前に到着すると、エコバックを片手にマンションを出てきた主婦と顔を合わせた。同じ階に住むご近所さんだ。


「元気がなさそうだけど大丈夫?」

「大丈夫です。新しい環境に慣れなくて、まだ緊張しちゃってるんですかね」

「あまり無理はし過ぎないようにね。昔みたいな……」


 言いかけて、主婦は慌てて言葉を飲み込んだ。流れでうっかり口にしそうになったが、引っ越してきたばかりのご近所さんにするような話ではない。


「あんなことって?」

「ごめんなさい何でもないの。お買い物に行ってくるわね」


 愛想笑いを浮かべると、主婦はそそくさと商店街の方へと消えていった。

 一人残された奈々は意味深な発言に消化不良を感じずにはいられなかった。


 ※※※


「私とお友達になろうよ」

「ひっ!」


 翌朝。あまりにも唐突な変化に奈々は短い悲鳴を上げた。

 あろうことか暗黒少女が突然背後から声をかけてきたのだ。


 驚いて振り返ると、わずか数メートルというこれまでで最も近い距離に暗黒少女が佇んでいた。言葉も完璧に聞き取れる。


 奈々の驚きに反応し前方を歩いていたサラリーマンが一度振り向いたが、目立った変化はなかったため直ぐに正面へ向き直した。女子高生が虫か何かに驚いただけだろうとでも解釈したのだろう。


「……あんた、いったい何なのよ」


 奈々は恐る恐る昨日と同じ質問を投げかけた。この数日間で暗黒少女を認識できるのは自分しかいないと理解した。怖いけど誰にも頼れない。状況を把握するためには自ら切り込んでいく他ない。


「私はアズサ。奈々ちゃん、お友達になろうよ」


 暗黒少女あらためアズサの口元が嬉しそうに笑った。意思の疎通が叶ったことを大そう喜んでいるようだ。


 対する奈々の方は怪奇的な存在と口をきいてしまったという事実に顔色が悪くなるばかりである。


「何を言っているの? 友達に、私とあなたが?」

「そうだよ。お友達になって一緒に学校に行こう。お友達は一緒に登下校するものだよ」

「わ、私に近づかないで!」


 差し伸べられたアズサの手を拒み、奈々はその場から逃げ出した。往来で何人かと肩をぶつけ迷惑がられたが、周囲の目を気にしている余裕など今は存在しなかった。


 ※※※


「今日もお疲れ様、風祭さん」


 帰りのホームルームが終了し、部活動や下校で生徒達が次々と教室を後にしていく。帰宅部の彩里も早々に支度を終え、隣の席の奈々へ別れの挨拶を告げた。


「あの、会田さん」

「なに?」


 今朝の出来事もあり、一人で下校することを奈々は酷く恐れていた。

 彩里は優しい子だ。一緒に帰りたいと言えば快く付き合ってくれるかもしれない。


「ま、また明日ね」

「うん、また明日」


 結局、奈々は彩里を誘うことは出来なかった。


 今まで意識していなかったが、彩里の持ち物の中にバスの定期入れが見えた。バス停は学校の目の前だ。バスで登下校している相手を徒歩の帰宅には誘えない。緊急事態にも関わらず遠慮の方が勝ってしまった。


「あいつが現れるのはいつも決まって通学路だもの。急いで家まで帰ればきっと大丈夫」


 帰り際、奈々は自分に強くそう言い聞かせた。


 ※※※


「一緒に帰ろうよ。奈々ちゃん」


 学校前の横断歩道を渡った瞬間に、背後からアズサの声が聞こえた。今朝よりももっと声の距離が近い。振り返った瞬間には追い付かれてしまいそうな距離感だ。奈々は振り返らずに小走りで通学路を進んでいく。


「楽しくお喋りしながら一緒にお家まで帰ろうよ」

「あんたなんて知らない」


 振り返らず、速度も落とさず。それでもはっきりと自分の意志は伝える。

 振り返らなくとも悪寒で感じる。アズサはめげずにピッタリと奈々の後をつけてきている。


「私ね、お友達と一緒に登下校するのがずっと夢だったの。奈々ちゃんと私の相性は最高だよ。だからお願い、私とお友達になってよ」


「いい加減にして! 私はあなたと友達になるつもりなんてない! 普段からこの道を使ってる人なんて他にいくらでもいるでしょう。友達が欲しいなら他所よそをあたって。お願いだから私を巻き込まないで!」


 ここまではっきりと拒絶の意志を示したのはこれが初めてだった。流石のアズサも困惑のあまり歩みを止めてしまったのだろう。それまでピッタリと背後をつけてきたアズサの気配がピタリと動きを止めた。


「二度と私の前に現れるな!」


 強い言葉を残し、奈々は全力疾走で自宅マンションまで駆け抜けた。


 ※※※


「慌てるな、私」


 自宅前まで到着した奈々は息を切らせて玄関へと駆け込んだ。震える手を律し、玄関の扉を内側からしっかり施錠する。アズサが現れるのはいつも通学路だった。家まで逃げ込めばもう安心だ。安堵感から急に足の力が抜け、奈々はその場にへたり込んでしまった。


「お母さん、早く帰ってこないかな――」

「お帰り、奈々ちゃん」


 玄関前の廊下へ寝そべった瞬間、奈々の表情が凍り付く。

 上から顔を覗き込むアズサと目が合ってしまった。


「……あんた、どうして」


 怪奇的な存在に対し施錠が有効かはそもそも疑問だが、少なくともこれまでは通学路にしかアズサは現れなかったはず。それがどうして目の前に、どうして安全地帯と信じてやまない自宅に現れたのか。理不尽な状況に理解が追いつかない。


「何で私の家に。あんたはいつも通学路に……」

に私がいるのは当然でしょう。ここは私の家で奈々ちゃんの家。私たちは同じ家から同じ通学路で学校に通っているの。言ったでしょう、私と奈々ちゃんの相性は最高だって」

「……意味わかんない」

「ようやく触れる。これでお友達になれるね、奈々ちゃん」

「嫌、やめて、来ないで」


 恐怖で体が思うように動いてくれない。仰向けのまま、両頬に伸ばされたアズサの両手を拒むことが出来ない。


「これから毎日一緒に学校へ通おうね。私達は親友だもの」

「嫌……」


 ※※※


 二週間後。マンションのエントランスでは近所の主婦たちが世間話を交わしていた。その中には以前マンション前で奈々と顔を合わせた主婦の姿もある。


「風祭さん、引っ越されるそうね」

「無理ないわ。娘さんがあんなことになって……」

「お母様が帰宅したら娘さん、玄関で亡くなってたんでしょう。まだお若いのに可哀想に。急性心不全でしたっけ?」

「あの部屋、三年前にも高校生が亡くなっていますよね。確か真壁まかべさんでしたっけ?」

真壁まかべあずさちゃん。真壁さんとは親しくしてたからよく覚えているわ。高校で新しいお友達を作るんだって張り切っていたのに、入学式の朝に部屋で突然倒れて」

「誰かが言っていたわよ、友達の欲しかった梓ちゃんが、同じ部屋に引っ越して来た風祭さんのお嬢さんを引っ張っていったんじゃないかって。ほら、学校も同じですし」

「流石に不謹慎よ、そんなお話し」

「別に私が言ったわけじゃ――」


 一人が言いかけた瞬間、主婦たちはマンションの出入り口に視線を奪われた。近くに誰もいないはずなのに、自動ドアが勝手に開いたのである。単なる誤作動という可能性もあるが、時刻は帰宅する学生も多い夕暮れ時。話の流れも手伝い、二人の女子高生が肩を並べて帰宅してきたのではと、そんな想像が働く。


「外で話しましょうか」


 気味が悪くなった主婦たちは場所を変えようと、揃ってマンションを出た。

 誰も乗っていないにも関わらず、奥のエレベーターが風祭家のある四階へ上がっていったことには誰も気がつかなかった。




 了

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