「盲目」

和泉

第1話

 ある青年はいつもと変わらず朝7時に起床した。秋分の日を幾日か過ぎて訪れた今日は曇天で、太陽は青年の顔を照らさなかった。

「んんっ」

 机の横に備え付けられたベッドの上に腰掛け、軽く伸びをする。太陽光を浴びられなかったせいで体は朝を認知出来ず何をするにも倦怠感を感じた。青年はしどけなかった寝巻き姿から白いシャツに袖を通し、アイロンがけされた濃紺のズボンを履いて学生にモデルチェンジする。

 階段で一階のダイニングルームに降りるとそこには朝食が用意されていた。食べ終わって食器を片付けると、青年は鏡のある洗面所に移動した。洗顔料を使って顔を洗い、歯磨きは念入りに行う。濯いだ後に口臭予防のうがい薬でうがいをすれば完璧だ。だが、青年はそれでも飽き足らずに自分の手で口を覆い隠して息を吐き、入念に口臭のチェックを行なっている。それが終わると次は髪のセットに取りかかる。姉や妹のいない青年は独学でヘアセットについて学び、最近では自分自身でセット出来る程の腕前になっていた。ワックスを使い前髪を右方向に流しつつ、ふんわりとしたウェーブをかけることも忘れない。後頭部から襟足にかけては軽く毛先を整えるだけにした。青年はここまで終わって鏡に向かってニコリと笑って見せる。

「よし……」

 青年はそう呟くと自室に上がり、学生鞄を肩に引っ掛けて玄関に降りる。折り畳み傘を手に持ち玄関を出た。


 暫く歩いていくと、郵便局を曲がった所で青年はある青年と合流した。名前は中野健二。中野はいつもそこで青年を待っている。

「よぉ今日もバッチシ決まってんねぇ」

「いつもの事だろ、ほっとけよ」

 二人は横並びで通学路を歩く。

「そうは言ってもよぉ? そろそろ教えてくれてもいいんでない?」

 教えろとは何故青年がこんなに見た目に気を使っているのか、だ。一年前から始めた友達のイメチェンに中野は理由を何度も聞いていた。だがその度に青年にはぐらかされて、明確な答えを得られずにいたのだ。ただ中野にしても青年との友人歴は浅くない。多分こういう理由なんだろうという大方の見当はついていた。

「わかってんだろ? あんま聞くなよ」

 青年もそれはわかっており、照れ笑いで誤魔化す事しかできない。青年にとってその話題は現状触れられたくない部分でもあり、心悩ます原因でもあるのだから。

「へいへい、わかったよー。あーぁ俺も恋してーなぁ」

 中野はわざとらしく腕を伸ばしてそんな事を空に向かってぼやき、友人を苦笑させて楽しんだ。


 青年の合格した高校は家から徒歩圏内だった。だが他の生徒は徒歩通学でない人の方が多く、同じ徒歩通学に中野がいた事は最高の救済だった。中野とは中学校からの付き合いで、青年にとって気の置けない友人、いわば親友だ。だからこそ青年は中野に気兼ねなく話ができ、ツッコミができ、質問や雑談が出来る。何を言っても良い安心感というものが中野にはあった。

 学校に着き、クラスの違う中野と別れ自分のクラスに入る。始業時間の20分前に着いた青年は何気なく辺りを見渡すが人は少ない。隣の席の高橋もまだ来ていない。青年はいつ来るのだろうかと考えながらぼんやりと時計を眺めた。1秒のズレもなく正確に回り続ける秒針を見ていると少し羨ましいと思う時がある。

 ――自分もあんな風にただ回っていられたらいいのになぁ。

 そんな事を思っても実現しない事は自明で、ただ時間を食い潰している事はわかっていた。だが青年は秒針を見るとたまにそう思う時があった。

「おはよっ」

 どのくらい時間が過ぎたのだろか、隣から声をかけられてハッと我に帰る。青年は慌てて止まっていた脳を再起動する。

「おはよ、高橋さん」

「おはよー、今日はジメジメしてやだねー」

 高橋はそんな事を言いながら学生鞄を広げ、中身を机の中にしまって行く。青年はそんな高橋をぼうっと眺めて、これじゃ気持ち悪いなと思い前を向く。

「そうだね、シャツがくっついて気持ち悪いよ」

「ねー、本当気持ち悪ーい」

 その何気ない「気持ち悪ーい」が青年の心を揺さぶる。いつ自分が言われることになるか、はたまたもう自分の知らないどこかで言っているのか、それが気になってしょうがなくなった。だが真相を聞く術を青年は持ち合わせていない。だから会話はそこで途切れ、チャイムが鳴り、いつも通りホームルームが始まった。


 高橋紬。彼女は青年にとって特別な少女だった。初めて同じクラスになったのは高校1年生の時、そこで仲良くなり高校2年生、つまり現在所属するクラスでも同じになり、更に席替えで席が隣になった。だが青年にとって高橋だけは話しづらい相手でもあった。だから厳密に言うと仲の良い友達と言っても中野とは意味が違う。表面上では親しくとも、向こうは親しく思っていないのではないかという思考が青年を酷く悩ませた。

 本当に親しくしたくないなら「おはよ」と話しかけて来る事はないと青年は気付けなかった。高橋にとって青年は特別な存在だったのだ。


 勉強に消極的な青年は始業からずっと集中力が持つはずもなく4限目が始まり暫くすると首傾げて、窓の外の空を見た。灰色に暗い乱層雲がべったり空を覆い隠して太陽は顔を出さない。青年は窓から視線を外し、隣の高橋を横目で盗み見ると消しゴムでノートの間違いを消している所だった。消しゴムを前後に動かす度に揺れる髪の毛に気が取られてなかなかどうして目が離せない。視線を感じたのか高橋がふと青年の方を向く。青年とバッチリ目が合ってしまった高橋は少し驚いたように目を開き、ふいっと視線を外した。高橋の頬は薄く紅潮していた。だが青年はそれに気付かず集中を妨げたと自らの軽率な行動を悔いた。恋をすると世界が変わるだとか、盲目になるだとか言われているが、青年の場合もまた「盲目」になっているのかもしれない。


 4限目が終われば昼食の時間が始まる。いつもは中野が青年のクラスまで足を運ぶのだが、今日は委員会の仕事があって来ていない。青年はクラスの友達と話そうかとも考えたが既に輪が出来ているので遠慮した。ふと隣を見ると高橋はクラスメイトの綾谷と一緒に昼食をとっていた。こうして時間を浪費しても仕方がないと思い直した青年は自分の弁当を広げ黙々と箸を動かした。青年が静かなので否が応にも周りの話し声は耳に入る。

 隣から聞こえる高橋と綾谷の会話がどうやっても青年の耳をくすぐる。

「よぉー! 委員会早く終わったぜー!」

 ちょうどその時、弁当を片手に中野が入室した。

「むぎちゃんにあややちゃんもやほー」

 中野は青年の席に向かう途中で隣の高橋と綾谷に手を振りながら挨拶を交わし、青年の前の席を引っ張り出して座る。この4人は高校1年生の時に同じクラスに所属していたので話す程度の交友関係はある。

 だからそれは見慣れた光景に過ぎない挨拶だった。だが周りの一部はこの一幕に反応し、小さく言葉を溢した。

「え、中野って綾谷にフラれたんじゃねぇの……?」

 その小さな問いかけはクラスの喧騒に掻き消され誰の耳にも届かなかった。


 ただ1人、青年の耳を除いて――。


「なあ、なんで俺がここにいるか知りたくねーか?」

 青年は少し動揺したが中野に返事をするのに意識をもっていかれ、青年の中でその不確定要素は一旦保留にされた。

「確かに、今日は委員会があるんじゃないのか?」

「それがさ、今日は委員会の日じゃなかったんだよねー。明日だったのを1日間違えてた」

 そう言って中野は自虐的に笑いをとった。

「ねぇあややちゃん、俺ってもしかしてバカなん?」

 中野がいきなり綾谷に話題を振った。それが何の意味を示すのか、友人の置かれた立場を確定出来ない青年にはわからなかった。

「ええ……まぁあんたはバカだよね〜」

 突然話しかけられた事に驚いたのか若干のタイムラグの後、綾谷はそう返した。

「あー、ごめん、俺話の邪魔しちゃった? 何の話してたの?」

 普段この4人が絡む事は珍しくもない。だから綾谷と高橋の会話に入り込もうとするこの問いかけも別に特別なものとは青年には感じられなかった。

「週末カラオケ行こうかなって話。あ、そうだ。あんたも来る?」

「えっいいのか? ラッキー!」

 コミカルな動きで綾谷の誘いに乗る中野。それを見て青年は中野がフラれたという噂は嘘だと推察した。そしてこの誘いによりこの場の青年を除く3人がカラオケで遊ぶ事が確定した。自然と目線は青年に集まる。

「あ……来る?」

 高橋が青年を誘う。その言葉数が少ないのは高橋が精一杯勇気を出した証拠だった。

「えっと……いや俺は遠慮しとくよ」

 だが今の青年に高橋の気持ちを慮る余裕はなかった。迷惑をかけない事だけを考えていた青年は絶好の機会を自ら手放した。上手く笑えて断れているだろうか、変な日本語になってはいないだろうか、そう言う思考が頭の中を駆け巡っていた。そして。


 ――高橋さんに気を遣わせるなんて情けねぇ……。


 青年は自分が酷く惨めに思えた。誘われてないのが青年だけだったから高橋が空気が悪くならないように善意で誘ったのだと思った。本当はもっと関わりたいのにどうしても高橋にとってそれは迷惑になってしまう。迷惑だと思われれば嫌われてしまう。嫌われたく無いが為に、好かれたいが為に、相手を第一に考えて自分の意見を押し殺す。

 そんな事しない方が事態は好転していただろうに。青年は自分の気持ちに慣れていなかった。

 ただ、その話題は特に掘り下げられる事もなく1つの会話として終了し、その後は他愛もない雑談に花を咲かせ、時間ギリギリまで4人は話し込んでいた。


 6限目が終わり放課後になると青年は中野と一緒に帰路についた。二人は暫く下らない会話をし、少し歩いた所で青年は中野に1つ質問をした。

「なぁ、綾谷さんに告ったってマジなのか?」

 ただの雑談の延長のつもりで聞いた質問。だが青年がその質問をした刹那、中野は驚いた顔を見せ、その場で足を止める。

「……いや、そんな大した話じゃねーよ。まあ、そうだな。隠してるつもりはなかったんだよ」

 軽いトーンで話し出した中野によってその場の緊張は幾らか緩和される。

「まあ、簡潔に言っちまえば俺があややちゃんに告ってフラれたって話よ」

「告ったってお前、綾谷さんの事好きだったのか? 全然そんな素振りなかったのに」

「ハハハハ、お前だけにはバレない自信があったぞ」

「マジかよ」

 そんな会話をして二人は笑い合う。ただ、青年の心は静かに揺れていた。

「告ったってさ、何で今なんだ? ほら、卒業の時とかにすれば気まずくならないだろ?」

 青年の揺らいだ心が中野にそう質問していた。前から頭を悩ましていた問題の答えがそこにはあるような気がした。

「まぁ、それはそうかもしれんけどよ、今から付き合えたら良いなって思っちまったんだよ。卒業して告白して、それでもし両想いだったとして、同じ大学に行ける保証はない。その時、多分俺は後悔するんだよ。何で高校生のうちに告白しなかったんだって」

 中野の考えは至って単純明快だった。共有できる時間と場所は限られている。だからまだ時間のあるうちに、後悔しないように告白しようと言う事だ。「それに」そう言って中野は言葉を続けた。

「それに、俺は諦めたつもりはないからな。卒業までにあややちゃんの気が変わるかも知んねーじゃん?」

 そう言って中野は青年に白い歯を見せた。


 ――凄いな、中野は。


 青年は素直にそう思った。告白してフラれて、それでも自分の目の前で笑っていられる中野という人物に尊敬の念を抱いた。だが全ての答えを得た訳ではない。「盲目」の解消の仕方が青年にはわからなかった。

「中野は怖くないのか? もしかしたら綾谷さんに嫌われるとか思わなかったのか? 嫌われないとしても煩わしいとか、気まずいとか思われるのは怖くないのか? 何でフラれたのに綾谷さんに平気で話しかけられるんだ?」

 気付けば青年は尋ねていた。高橋と話している自分に違和感があった。だからその違和感を拭いたくて、その勇気が欲しくて中野に質問していた。

 だが中野は少し言葉を詰まらせた。やがて苦笑して全く答えづらさを顔に出さずに返答する。

「ったく、嫌な気持ち思い出させてくれるぜお前は。せっかく昨日踏ん切りつけてきたのによぉ」

「あ、ごめん」

「いや、良いんだ。お互い後悔はない方がいいだろ?」

 中野はそう言って青年に笑いかけた。

「ありがとう」

「良いってことよ。で、答えだけど。俺も正直怖かったよ。お前に話しかけるのとはかけ離れるほど緊張するし、言葉は詰まるし、言いたい事は素直に言えないし、何を言ったら喜んでくれるのか。笑顔を見せてくれるのか。そればっか考えて全然素で行動できなかったよ」

 中野は自分の心情を全て包み隠さず吐露した。そして芯の通った声で言葉を続ける。

「でも、だからこそ、俺はそんな俺を見せたくない。そう思ったんだ」

 中野は常に簡明な思考回路を持ち、それを行動に移せる人間だ。例え想い人の前で弱い自分が出てしまうとしても、想い人の前でそんな自分は見せたくない。その考えに青年は衝撃を受けた。中野は青年に多大なる影響を与えた。青年は酷く幸運だった。






 翌朝、蒼穹の下青年は手紙を持って登校する。手紙には放課後16時に校舎裏で待つとの記載。そして付け加えるように書いた少しばかりのメッセージ。それは昨晩青年が2時間もかけ丹精込めてしたためた手紙である。今日は朝6時に起き、早く学校に着くと青年は高橋の下駄箱にその手紙を投函した。その手紙が実を結ぶかはわからない。ただ、青年の気持ちに悔いはなかった。すなわち、青年も見せたくないと思ったのである。

 青年としては破格の勇気であり中野が聞けば笑いながら友人の決意を褒める事だろう。尋常でない緊張で浮き足立った青年にとって授業に集中できる訳もなく、気づけば約束の放課後になっていた。

 ただ、高橋はしっかりと手紙を受け取った。その証拠に今日青年は高橋と一度も言葉を交わしていない。


 時計の針は進む。カチカチカチと精確に時を刻む。秒針の音はもう後戻り出来ないと青年に囁く。青年は早まる鼓動を抑えるように胸に手を当て深呼吸する。


 正確無比な針は時を告げ、時刻は15時55分。


 青年は伝えるべき言葉を脳内で反芻する。


 ――高橋さん、ずっと前から好きでした。付き合ってください。


 ベタだけどこれが青年の言える精一杯の心を込めた告白だった。反芻した途端、自分から誘った事なのに逃げてしまいたくなるぐらいの緊張と不安が青年が襲い、青年はその邪念から逃れるために力一杯自らの頬を引っ叩き、気合を入れ直す。


 ――よし、よし、大丈夫だ。


 自らを鼓舞し、青年はしっかりと校舎の曲がり角を見据え高橋の来るのを待ち望んだ。準備は完璧。青年の視界は澄みきっていた。




 そして校舎裏に誰かが駆け寄ってくる足音が響く。





 青年は大きく息を吸い込んだ。

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